ランプを灯してはいけない

 かさかさと小気味悪い虫の羽音に目を覚ますと、いつも通り日は高く上がり切っていて遮光カーテンの隙間から溢れる笑みはいつも私を激しく不快にした。グレゴオル・ザムザのごとくゆっくりと私は這い出し、ぬるい・快活な・臭い水を一息に飲み干してから冷たい水で髭を剃り昨晩の醜い酔態について考え、一度鏡の前でニヤリとする。
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さりとて羽虫の脅威が去ったわけではなく、私は時折その羽音にうんざりとする、床に散乱する数枚のコンドームをまとめて生ゴミに捨てると再び羽音は鳴り響く、乾いた羽音の時はまだいいのだ、水しぶきをあげてただ不快なるその腐った羽音を立てる小さな虫に私は気がつかなかった。ただ、虫はそこにいるだけであった。フィクションではなかったが寓意でもなかった、ただ、虫はそこに居続けた、私はそれを拒み続けた。
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街に出てしまえば羽音は一度止む。鉄道に乗って遠くの街に行く時私は心のそこから羽音を忘れることができる。美しい滝の音色、喜劇的な踏切の音、クラクションはそこでは鳴る術もなく、缶ビールを開ける華奢な・極めて宇宙的な音が聞こえる、剃り残しがないかと顎を触ると私は何か小難しいことを考えているような顔をして、死に方について考えていた。鋭い水のナイフが私を突き刺すことをいつか夢見た私は大庭葉蔵にさえ小馬鹿にされることであろう。
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 詩人の美性みたいなものを私は訴えたけれどもマイクロフォンがなければ私の声はただ近くの作曲家を不快にさせたに過ぎなかった、また羽音がした。その酒場では平和な働き者たちが平和に安んじて焼酎を飲んでいた、その激しく・凡庸な・厳格な歌声は私の羽音をより一層際立たせ、ブルーに光る午前中の川は私にとってはずっと遠いものとなってしまった。その働き者たちを私は心の底から尊敬していたので、ジュリアン・ソレルの笑顔で私もまたその醜い歌声に甘んじようとしていた。
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 夜が更ける、私は一人自室へと帰ってくる、すると虫は私に世界とは個人であることを伝えようと羽ばたきを激しくするのだ。私はたばこに火を付ける、甘い煙に誘われて虫は一瞬気を失うけれども、酒に酔った私の手や足は虫に誘われて階段を上っている、そこは私の自室ではなかった、まだたどり着いていない、一体ここはどこであろう、あの虫はいつから私にまとわりついていたのだろう。
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 誰あろうお前の頼みだから私はそれを聞き入れることにしよう、ようしもう一本たばこを吸わせてくれ、何、ほんの数分だ、いや、しかしさっきたばこは無くなったんだったな、はっはっは、醜い醜い醜い、醜いものは去れ、どこから?世界から、この宇宙全てから、私の目の前から去れ、去れ。いいか、いいか。醜い、醜い醜い。
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 夕暮れが鋭い眼光で私の自室に差し込んだ。また今日だった。

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