猫と希望のメロディーについて【3】

暑い夏だった。NHKの集金人がやってきた、どんどんと私の家の扉を叩く。【指揮者】さん、【指揮者】さん、開けてください、半年分、溜まってますと、あいつはいっつも大声で叫ぶやつだった。隣人が出てきて、何事だと喧嘩になりかけたこともあった。NHKの集金なんて、世界中で行われている、普通のことです、なのに、そう簡単じゃなかった。私はうんざりしながらテレビを消して窓を閉め、うちわで顔を仰ぎながらビールを飲みました。あんなにまずいビールは後にも先にも飲んだことがない、それっきりです。
「開けてください、【指揮者】さん、お金を払わない人は非国民ですよ、非国民、非国民。赤紙はもう届いています、はやく、開けてください、出てきてください、零戦の乗組員が足りないんだ、死ね、死ね、NHKです、NHKです、ほら、【指揮者】さん、みなさん開けてくれますよ、テレビ、ありますよね、テレビ。おい、開けろ、開けろ、死ね、カミカゼは世界一の作戦です、さあ、笑顔でつっこめ、戦争は終わったんだ、俺のラッキーストライクを見てあいつは笑ったんだ、死ね、死ね。」
いや、窓を閉め切ったもんだから本当に暑かったです、うちわなんてなんの意味もない、送られてくる風も熱風な訳ですから。ええ。それからですね、ノックの音が止んだんです、声も。ああ、静かになって、良かった、ああ、ああ。私は汗でベトベトになった手を洗いました。随分べたついていました。それからもう一本ビールを飲んで、ああ、あれはきんきんに冷たくて、本当に美味かった。テレビをつけました。自信はありました、サヨナラ・ホームラン! 本当に気持ちよかったですね、ざまあみろ!そう、思いました。
 夏の神宮球場でのデイ・ゲームは本当に美しい、あの夕日の照りつける中、カーン、とホームラン、さよなら! 今思い出しても震えますよ。そう、それで、それきり、彼はやってくることはなかった。名前だけでも覚えていたらよかったんですが、残念ながらもう名前さえ、人相さえ、一つも覚えていないんです。ちょうど、夏場にグラスに氷たっぷりにカルピスを注ぐと、結露になって中の白が見えづらくなるみたいに、彼についての記憶だけが曇っていて見えないんです。ああ、なんていったかな。
 そう、それから大学を出て私はウィーンで音楽の勉強をしました。そういう時代だった。運が良かったんです、国のオーケストラに欠員が出て、その年に卒業した学生の中から一人だけ、勉強のために同行することが許された。まあ、そんなのはどうでもいいことです。とにかく私はそれから八年間、ウィーンで音楽の勉強をしました。八年間、長い年月です。三十歳になった私は日本へ帰ってきて、妻と出会いました。妻は私よりも七つ年下で、当時二十三歳でした。彼女は私の振るタクトに惚れたと言い、私のコンサートにかなりの頻度で訪れてくれました。それから一年後に私と妻は結婚して、私が三十三の時に娘が生まれました。いたって普通の家庭です。
え? 娘の名前ですか、春香と言います、春の香りと書いて春香、ええ、そうです、そう。あ、もう三時間も話してしまったんですね、つい話し込んでしまいました。ええ、明日もよろしくお願いします。はい、はい。

猫の会議は朴訥として進んでいた。進行役の白猫が透明な声で進める。では、今年のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートは失敗だったと? いいや、しかしあの盛り上がりは成功だろう、各国の言葉で挨拶をした小澤征爾はやはりすごい。でも、彼の指揮は恐ろしく下手だったわ。しかしだな。ねえ、私たちは日本人なのよ? 日本人って何だい、日本は移民国家さ、混血なんだよ。でも私は日本人だし、地球人よ。それじゃあ、ダメなの?なあ、眠たくないか?いい公園があるの、桜が見えて、暖かな日向があるのよ、絶対に人間は入ってこられない所にあるの。連れてってくれよ。ちょっと歩くわよ?もちろん構わないとも。


僕と彼女の共通の話題はいつも猫のことだ。僕と一緒に住んでいた灰色の毛をした太った猫(僕たちはそれを和尚と呼んでいた、彼女がつけた名だ)は桜を見るのが好きで、春になるといつもどこかへ行ってしまうのだ。
大変な騒ぎだった。なにしろもう一週間も猫が帰ってこない。町中に張り紙をした。市役所と警察にそれぞれ届けて、猫が好みそうな日向はくまなく探し周った。しかし猫は見つからなかった。僕は随分途方に暮れたものだ。何しろ、その猫は高校の友人から貰い受けたもので、まだその春は彼と出会ってから数日しか経っていなかったのだ。猫については私に任せて、と彼女は張り紙の番号に電話をかけてきて、三日後に太った彼を連れて彼女はうちにやってきた。それが出会いだった。
「うちの猫を見つけてくれてありがとう、どこにいたの?」
「秘密よ、猫だけの。お花見してたわ、うちの猫たちと一緒に。」
「猫たち?」
「ええ、たくさんいるの、全部で十五匹。」彼女は少し誇るように言った。長い睫毛は少し湿ったように光っていて、柔らかそうな唇が僕を魅了した。
「十五匹、全部に名前がついているの?」
「当たり前じゃない」
「覚えきれる?」
「ねえ、例えばあなたに兄弟が十五人いたとするでしょう?」
「なるほど。」
「そういうことよ。」彼女はまた誇らしそうにふふんと笑った。彼女が抱くと和尚はとても気持ちよさそうに目を瞑ってころころと鳴いた。彼が僕にそんな笑顔は見せたことはなかった。
 彼女はそれから一週間後にもう一度電話をかけてきた。僕はその時部屋でダイヤモンド・ペインティングをしていた。僕はほとんど無意識に、その指示に従ってビーズを置き続けていたので、その電話の音に気づくのにしばらくかかっただろうと思う。その証拠に、電話に出た時彼女は、ちょうど電話を諦めかけていたようで、小さくあっ、と声を上げてからスマートフォンを握り直したような音がした。
「ねえ、和尚は元気?」電話越しの彼女の声はとても澄んでいて、一つの悪意もないみたいに可愛い声をしていた。
「和尚?」
「あなたのところにいる和尚さん。」言ってから彼女は笑った。とても明るい、優しい笑い方だった。僕は猫を見て、電話を持っていない方の左手で手招きして彼に触れた。
「猫のこと?」
「まだ猫なんて呼んでるの、人間くん。」
「元気だよ、さっきも外に出してくれってうるさいんだ。」
「ねえ、会いに行ってもいい?」
「ああ、待ってるよ。」
彼女はやってくると、すぐに猫を抱いて彼を眠らせた。よしよしと彼女はソファに腰掛けて、まるで絵画のように猫を抱いた、僕はそれをソファと直角になるように置いてあるベッドに座って見ていた。何か飲むかと尋ねると、彼女はコーヒーが飲みたいと答えた。コーヒーカップが一つしかなかったので、僕はそれを念入りに洗ってから沸いたお湯をゆっくりと注いだ。僕は彼女のように、美しい絵画になることを望んだが、僕の淹れるインスタントコーヒーはいつもひどく現実的な味がする。
彼女はそれから一週間に一度程度のペースで猫の様子を見にやってきて、今日はこれを食べさせなさい、明日はこれを、と献立を置いていった。様子を見れば、何が食べたいかわかるというのだ。どうして僕の猫の面倒をそんなに見てくれるのかと尋ねると彼女は、和尚が気に入ったからだと言った。
「それに、あなたの猫じゃないわ。和尚は和尚よ。」と彼女はきっぱりと付け加えて言った。長い、濡れたようなまつ毛が、一層立って、奥の茶色がかった目が僕を見ていた。耳の軟骨の上のところについているパールピンクの飾りのついた金色のピアスがきらりと揺れて、猫は彼女の膝の上であくびをしていた。僕が音楽をかけてもいいかと尋ねると彼女はもちろん、と笑ってそれを聞いていた。それが一周して、僕がB面をかけようとするとコーヒーを飲み終わった彼女は、じゃあ、また来るわと出ていってしまった。僕は取り残されたB面と寂しそうな和尚に囲まれて、その痛々しい音を聞いていた。彼女は、猫に会いにきたのだった、僕はむしろB面の小言の方が好きだった。

【So What】一九五九、マイルス=デイヴィス
「聴かせて。」
「ああ、もちろん。」
「世界一優しくて、世界一丸い音。」
「まるで淡い桃色の温かな霧雨の中にいるような曲だ。」
「桜が咲いているのね。」
「ああ、誰も決して入ってこない場所に僕と君だけがいる。」
「そこは、いいところなの?」
「行けばわかるさ。」
「連れて行ってくれる?」
「もちろん。」
「でも私……。」
「それが、どうしたっていうんだ?」


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