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3.11 「忘れないプロジェクト」

パズルには毎年春から夏にかけて社内の有志メンバーが東北地方へ撮影に出かける自社プロジェクトがあります。

わたしたちは、3.11をいつまでも忘れない。
東日本大震災に向き合って考えた
わたしたちpuzzleにできること、すべきこと。
それは、風化させないことと、無理しないこと。
わたしたちの能力を、ささやかでもできることに使い続けます。
そして、このwebサイトがpuzzleに接点をもった方たちにも
忘れないきっかけになればと願います。
被災された方々には、心よりお見舞い申し上げます。
また笑顔に会いに行きます。

3県7都市で復興していく街の様子を定点で撮影しています。パズルの代表作の一つで多くの広告賞を受賞したプロジェクトの表現手法を使っています。撮影に行ったその時そこにある日常をありのままに。立ち上がっていく様子だったり、日常を取り戻した様子だったり、または新しい日常が始まった様子だったり。少なくとも前向きな気分になれるような表現を目指しています。

東日本大震災が起きた2011年春はパズルでも仕事がいくつもキャンセルになってけっこうな影響を受けました。日本中で経済活動が止まり、先行きの不安が募る毎日でした。一方で、それまで見たことのないような自然災害を目の当たりにして何か自分たちにもできることはないか考え続けていました。

ただし、決して無理することなく、継続的な支援になることを。そう考えて始めたのがこのプロジェクトです。「わたしたちは、3.11をいつまでも忘れない。」と掲げていますが、この出来事を風化させないことがパズルにできる復興支援だと考えました。社内では「忘れないプロジェクト」と呼んでいます。

震災の翌年、2012年にこのプロジェクトを公開するまでのいきさつを紹介します。

2011年3月11日14時46分

その時、東銀座の客先で打合せが終わり、帰り支度をしていました。ビルの13階、晴海通りに面した眺めの良い会議室。突然のあまりの揺れに、ついに首都直下地震が来たか、と覚悟しました。会議室にあったTVをつけてみたら震源は東北の方とのこと。少し安堵して窓から外を見るとお台場の方向に黒煙が上がっていて、もう被害が出始めているかといろんなことが頭の中を駆け巡りました。(後にその黒煙は地震の影響ではなかったことが分かりました。)

とにかく新橋のオフィスへ帰ろうと会議室を出ましたが、エレベーターは止まっており13階から非常階段で1階へ。途中、電車も止まっていることや道路も混乱してバスやタクシーも使えなさそうとの情報が聞こえました。幸い新橋までは歩ける距離なのでビルを出てオフィスへ向かい始めました。

通りの歩道には避難で外へ出てきた人たちや交通機関を使えずに歩く人たちで溢れていました。途中、築地市場の前を歩いている時に再び強く揺れて足がすくみました。周りから動揺する声も聞こえ、街全体が見たこともない異様な雰囲気でした。

30分近く歩いてきたらオフィスの前の公園が避難で出てきた人たちでいっぱいでした。まだ余震があるかもしれない、屋外の方が安全かもしれないと考える人が多く、しばらくの間スマホで情報を集めながら公園で様子を見ていました。

地震直後、オフィスの前の塩釜公園

この日の夜は都内の幹線道路が帰宅困難者で溢れかえったことが多くのニュースになりました。パズルの社員たちも電車が動いたニュースを見て帰宅し始めましたがほとんどが深夜にようやく着いたか、結局歩いて帰ったか。自分はこれからの仕事のことや社員の様子が気になって会社で夜を明かしました。ビル1階のコンビニで食料を買い込もうとしたらほとんどの棚が空になっていました。

一晩中、TVやネットで津波の映像を観ていて人生観が変わってしまうような思いを抱いたこと、よく覚えています。

何かしなくっちゃ

地震の翌日からもあまりに多くの動きがあってここには書ききれませんが、ほとんどの仕事が止まり、とにかく情報収集に努めました。津波の被害は甚大で、原発事故も起こって、経済も大混乱。

そんな中、被災地へ赴いて何かせねば、行けなくとも各地から何かできないか、まずは寄付を、など日本中で復興支援の機運が強まりました。ブームとも言えるくらい、まさに有象無象のプロジェクトが立ち上がって、個人的に誘われて少し手伝ったものもありました。

ただ、そうして瞬間的に盛り上がるものは続けることが難しいです。全員が善意に突き動かされている様は冷静に見るとやや怖く、その同調圧力とも言える巻き込み方で人間関係を壊すことすらあると感じました。

こんな時こそ落ち着いて冷静に物事を考える必要があると、良い教訓にもなりました。災害の時は被災者へ寄り添う気持ちがまず大切ですが、行動を起こす上で、それをボランティアでするなら尚更、身を削ってまですることではないし少しでも無理をしたら続けられない、と。

忘れた経験

あらためて、何ができるんだろうと考える中で、個人的な苦い経験を思い出しました。阪神・淡路大震災から3年くらい経った時でした。

広島生まれの東京・茨城育ちで関西地方はほとんど縁がなく、1998年春、初めて大阪の街へ出かけました。生まれて初めての土地は楽しみな気持ちもありながらも仕事だったので、行きの新幹線では打合せの内容や準備で頭がいっぱい。帰りはようやくのんびり車窓から街を眺めていました。その時、大阪ほどの都会でなぜこんなに空き地が多いのだろう?新しそうな建物も多いな?と思った瞬間、そうか、ここで震災があったんだ、と思い出しました。逆にそれまであの大震災のことをすっかり忘れていました。

1995年1月17日。出社するとその日に関西国際空港でロケするはずの人たちが会社にいました。どうしたの?と聞くと、ほらと指されたTVには何かの映画のシーンかと思うような光景が映っていました。(インターネットのない時代なので朝起きてTVを観ずに家を出るとラジオでも聴いてなければ通勤中にその日の朝のニュースを知ることはほとんどありません。)事情を飲み込めず、声も出ませんでした。

それからしばらくはこの震災の話題ばかりで、現地へボランティアで駆けつけた知人もいました。身近に被災した人はいませんでしたが、連日の報道で見る光景にショックも大きく、一瞬にして日常が壊れる恐ろしさや虚しさを強く感じました。まだ多感な20代だったこともあって、生きることや自分にとって大切なことを物凄く考えました。

それでも20代の社会人が目の前の仕事へ夢中になり続けていると、どんどん意識からショックが消えてしまいました。もともと縁が薄かったせいもあると思います。それがたった3年後に復興中の姿として目の前に現れて、自分の気持ちにショックを受けました。あれほどの出来事を目の当たりにして感じて考えていた事を忘れていたことがショックでした。そして気づきました。これが風化か、と。

思い出すきっかけをつくる

たぶん、東日本大震災も風化するだろうと思いました。何をできるか考える中、また、急ごしらえのプロジェクトに参加して違和感を覚え始めた頃、メンバーの一人で普段よく仕事をする仲間へこんなメールを送りました。震災から1ヶ月近く経った2011年4月8日。文面からまだだいぶ震災直後の気分を感じられます。

いろんな情報にもまれて考えをまとめきれてなかったのですが、ぼく自身、そしてpuzzleがこの震災にどう向き合うかをずっと考えていました。

ぼくも含めpuzzleのメンバーには、過去も今回も深刻な被災経験のある者がいません。今回は実家にダメージを受けた者が一人、レンタカーで物資を届ける!と叫び出し、みんなで必死に止めたこともありました。

そんなぼくたちが、被災者の気持ちになって、など軽々しく言うことはできないし、支援の気持ちを届けたい、というのも余計なお世話では?と思い、一時の盛り上がりで、何かしなければ!ブームに乗ることなく、地に足をつけて、向き合って、できること、やるべきこと、って何かを考えてました。

阪神の時にすでに社会人であった自分がその時やその後に見聞きし、あの数年後に新幹線から見ただけの光景が忘れられない想いもあって、とにかく軽率な態度にだけはならないよう、気をつけたいと思ってました。

なんとなく、結論に近づいているのは、

「いつまでも忘れない。」

そして、平常のままでいること、ということです。

自分たちが直接的に復興の中でできることは、何も無く(本当に)、間接的な支援を続けていくこと、それは意識を風化させないことと今までの生活に新たな負荷をかけないこと、の両立が大切なんじゃないかと思い始めています。

自分のスタンス=会社のスタンスにしてはいけない気もしてますが、メンバーの意見も聞きながら整理していくつもりです。今までほとんどすることのなかった募金は、これからもいつでもどこでもできるし、実際にすると思います。その前に、本当の被災者の気持ちも分からない人たちが、意識を持ち続けるられることのほうが大切かなと思いました。

そしてぼくたちは、広告制作業の中で映像制作や撮影、web制作進行の能力を持っており、表現者としてのプライドを持って仕事しています。本来、楽しいことを作り出す仕事でもあります。

この能力を、忘れないことや平常でいることのために使うことがぼくたちのできること、なんじゃないかと思いました。

この時、ぼくたちのエネルギーは同情の類の想いではなく、仕事と同じく、楽しみながらやることではないかと思います。(ここ、誤解を恐れず「楽しみ」というコトバを使います。)

方法はもっと模索しますが、決して無理はしません。プロセスで被災地にお金が落ちることもしていきたいです。

ただ、ぼくたちにできることは、たかがしれてます。たいした影響力もありません。それでも続けることが、「できること」で「やるべきこと」かと思い始めてます。

こんな考え方、どうでしょうか?

この時の気持ちが「忘れないプロジェクト」の原点です。

とはいえ、忘れないために想い続けるというのはさすがに無理でしょう。ならば、忘れていても思い出せば良い。人それぞれに思っていたことを思い出して、あらためて思い直すことができるように。

そんな思い出すきっかけになるものを作ろう。自分たちには世界中から賞賛された表現する能力がある。その能力を、無理なく、楽しく使おう。そして、お客さま、スタッフ、就活生、そんなパズルに何らかの接点をもった人たちに思い出してもらおう。

そうしてできたのがwebサイト“3.11”です。
コーポレートサイトでは訪れた人が思い出すきっかけになるよう、メインメニューに表示しています。

桜と鯉のぼりと、星空

最初の撮影は2012年の春、桜をねらって行きました。一年経ってはいましたが交通インフラや宿泊施設のダメージはまだまだ回復せず、建設業者が優先される状況で、観光気分で行くことは気が引けるくらいでした。

東北地方では桜の見頃が4月下旬から5月上旬になるので、連休に重ねて行きました。地元では当たり前でしょうけれども、なるほど、桜の季節は鯉のぼりの季節でもありました。関東育ちには新鮮でした。

宮城県塩竈市 鹽竈神社
鹽竈神社の鯉のぼり

広島生まれなのでプロ野球はカープファンです(広島で生まれた子は自動的にカープファンになり、やがて野球のことが分かるようになります)。カープファンは試合の時に鯉(カープ)のぼりを振って応援します。おかげで子供の頃から鯉のぼりは応援のシンボルでした(5月5日こどもの日は野球と同じくらい後で理解します)。復興を応援するつもりで赴いた先々に鯉のぼりが舞っていて、心の中で応援ムードが盛り上がっていました。

ところで震災直後の数日、津波の悲惨な映像を観ながらふと考えたことがありました。不謹慎かもしれませんが、津波で街がなくなってしまったということは街明かりも無くなって星空が綺麗なのではないかと。それを自分の目で確かめたくて、星の写真を撮ることも目的の一つにしました。結果的に最初の年は天気があまりよくなかったのですが、確かに夜空の星は綺麗に見えました。翌年と翌々年は天気も良くて少し撮影できました。

2014年4月 陸前高田

今では桜の季節でなくもう少し後の新緑をねらって撮影に行っています。木々の芽生えと街の再生が重なって、立ち上がっていく様子が明るく感じます。

会社の恒例行事として、若手を中心に徐々に世代交代しながらプロジェクトを続けています。毎年行くのが楽しみな海鮮料理屋さんもあります。定点撮影するのでカメラを立てる場所やレンズのミリ数はマニュアルにしてあります。撮影を続けているうちに変化が少なくなった街、つまりほぼ復興した街もあります。地域によっては震災の記憶を伝える伝承館もできました。

いつまで続けるか、は考えたことがありません。「わたしたちは、3.11をいつまでも忘れない。」と掲げた通り、思い出すきっかけ作りもいつまでも続けたいと思っています。

酒が旨い

余談ですが、震災直後に遠くからできる復興支援として、できるだけ通常運転で活動して経済を止めないことと、東北産のものをたくさん食べて飲もうという機運が盛り上がったことがあります。被災者でもない元気な人たちは現地へ行くよりいつも通りの生活をせよ、と。そして関東地方では花見シーズンが始まる頃でした。

個人的に、花見でレジャーシートを敷いて食べたり飲んだりするのは季節的にまだ寒く感じることが多くてあまり好きではありませんでした。ただこの2011年は東北のお酒を持ち寄ってみんなで飲もうというお誘いも多く、昼間の暖かいうちなら良いかと何度か花見をしました。

もともとお酒は大好きですがいつもはビールやワインばかりで、日本酒を飲むことはあまりありませんでした。この時の花見以来、機会があれば東北の日本酒を飲むことにしています。お店で注文する時に「東北のお酒ありますか?」と聞きます。店員や同席する人から「どうして東北のお酒なの?」と聞かれます。ここで理由を話すことがまた、思い出すきっかけになります。

そうしてたくさんの人たちと思い出しながら東北のお酒を飲み始めて、今ではすっかり日本酒ファンです。東北しか分かりませんが好きな銘柄もたくさんあります。日本酒は安いし旨いしこんなに楽しい復興支援はないのではないかと思っています。忘れないプロジェクトのおかげで人生が豊かになると実感しています。

2011年、桜が咲いたオフィスの前の塩釜公園。奥が鹽竈神社の分社。
新橋の鹽竈神社の桜。宮城の鹽竈神社へ思いを馳せました。
instagramが出てまだ半年の頃で、普通に撮った写真が無かった。。


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