荒川区から考えている

東京の荒川区に住み始めたのは00年代の初めのことだから、かれこれ20年近くのお付き合いとなる。途中一回勤め先近くの台東区に浮気したが、どうしても荒川区の引力に抗えず、戻ってきた。区内で計5回引越している。引っ越し貧乏の典型である。

荒川区に住み始めたころ、わりとすぐに隅田川との関係を思うに至り、図書館とかで調べまくった。別に駐車場として使われているわけではない一階のある「高床式」の建物がやたらある、というのに気づいて「あ、これ水害対策かな」と思ったのがひとつ。あと、とにかく道・小路が入り組んでいて、直線という概念が適用できるのが尾竹橋通りぐらいしかなく(あと藍染「川」通り)、一歩間違えるととたんに迷宮になってしまう道の成り立ちを見て、「あ、永代借地権と暗渠の名残りかな」とおもったのがもう一つ。ようするに、隅田川(旧荒川)とその支流の小さな川(暗渠化している)の水害が酷くて、堤防が整備された今でもその名残がある、というのと、土地の所有関係が複雑で(「地主」が住んでるわけではない)大規模な区画整理とかができなかったのだな、ということ。「汐」と「貧」とが結びついていたのが荒川区のいまでいう河川地区であった。隣保館もあったし、創価学会の立派な建物もある。

ちなみに東京大学の助手就任時にもらった『東京大学教職員名簿』といういまではありえない個人情報の塊をみたとき、本郷キャンパスに滅茶近いのに荒川・足立在住者がほぼいなかったことを記憶している。若いころは年賀状をまめに送っていたが、そこでも東東京はほぼいなかった。「なんで?」という神奈川出身者の素朴な疑問から、いろいろ下町について調べるようになった。

河川側より文京区に近い荒川地域にしても、道は迷宮だし(いまでも迷う)、そもそも駅近くには火葬場と排水処理場がある。昔から住んでいるひとに聞くと、いろいろ匂いが大変だったらしい。いまや、リバーサイドにマンションが立ち並び、大手町までメトロで15分という利便性が認識され、すっかり小ぎれいになった荒川区(町屋)であるが、その場が担っている歴史的背景はけっこうに重い。

有名だけれども、いまひとつ複雑で忘れられてしまうことに、「荒川区なのに荒川に接していないのはなぜ?」というのがある。答えは、「もともと荒川区に接していたのが荒川」→「荒川のあらぶりようが酷いので放水路作るぞ」→「放水路のほうを荒川とし、元々の荒川を隅田川と名付けよう」というわかりにくいといえばわかりにくい経緯のため。そのぐらい水害とは切っても切れない地域が現在の荒川区だった。

昭和54年までは、川岸に旭電化の尾久工場があり、二次大戦での東京初空襲はそこを狙ったものともいわれているが、いまは、都立の尾久の原公園(93年)、東京都立医療技術短期大学(いまの都立大荒川キャンパス)となっている(http://teitowalk.blog.jp/archives/72115333.html等)。とても美しい公園とキャンパスだ。尾久工場の痕跡は、「電化通り」の居酒屋、酒屋、大衆食堂に姿をとどめている。

その周辺地域は防災(防火)用の赤バケツの設置が義務づられているほどの集住地帯であったが、ここ20年ほどでどんどんマンションが建てられ、旧住民を主とする町会とは異なる地域社会を作り出しつつある。けっこうに長い間わたしもそこに住んでいた。駅が遠くて困りものだが、静かで愛おしい場所である。

隅田川に隣接するその地域にとって放流路(現荒川)と堤防は死ぬほど大切な生活のインフラであり続けている。荒川区と足立区を結ぶ尾竹橋あたりから見渡すと、なんとも愛想のない河川敷なのだが、リバーサイドを楽しむような環境にはないので仕方ない。

「東京都の洪水防災の重要機能である荒川放水路開削の発端となった東京大洪水とは……明治43年(1910)8月2〜3日に亘る豪雨による降水量は埼玉県名栗では1216mmに達し荒川は各地の堤防溢水、決壊で東京は大洪水に見舞われ俗に下町と云われた上野、浅草、本所、深川は泥の海と化し、荒川下流部一帯の被害は全壊家屋は1679戸、浸水27万戸、被害者150万人、死者369人に達し、首都の機能は半月以上も失われました。
壮大な大洪水対策事業荒川放水路は翌年44年(1911)に着工し昭和5年(1930)に赤羽岩淵から旧中川河口の東京湾まで全長22kmが完成し、隅田川に流れ込んでいた旧荒川本流は岩淵に水門を設置して荒川増水時の流入を完全にブロックして新設放水路から東京湾に放流されます。 完成以後、隅田川の氾濫は起こっておりません。」(https://hakyubun.hatenablog.com/entry/20140717/p1?fbclid=IwAR2tdSZ4po2udOyUcH59VupIo6HiIfvqZDwhJiWxt5Nd6GEo_onj_bjXZoo)

神奈川のニュータウン→鵠沼と育ち、学校は横浜・東京目黒・本郷だったわたしにとって、自然災害と自らの住む町の歴史とを考える機会はほとんどなかった。恥ずかしながら、しょちゅう行ってた相模川がこれほどの危険性を持つというのは、今回初めて知った。でも考えてみれば、座間にしても、相模原の台地方面と相模川に隣接する方面とでは全然世界が異なっていた。東京下町の子どもたちにとって、水害・氾濫の記憶は学校教育で記憶・伝承されるべき事柄となっている(らしい)。「東京初の空襲」についても。自分の年齢が違うから仕方がないけれども、それにしても、荒川区の歴史は自然史と生活史との切り離せないものなのだ、というのはいろんな意味で「新鮮」であった。大学時代に流行っていた東京論も、そうした観点から読むようになっていたし、荒川・足立・江東とかは歴史講座とか受けに行ったりした。そこではもっと根深い社会的・政治的な差別の問題が関係してくる。

荒川区に住むことはわたしにとって「好きな街だから」というのが一番の理由である。と同時に「歴史を学び、選択した街だから」ということが一番大きな動機付けとなっているように思う。わたしは特定の区の貧困や教育水準をランキング化するような不動産屋的な発想を心底嫌う。しかし、嫌うことは知らないことにするというのとは違う。

「台風ハイ」になったというのではなく、昨日から、堤防やダムの話をSNSでみていて、本気で不安になって、いろいろ呟いてしまった。ダムの立ち退きは心底心痛む話であり、今回はたまたま治水効果を発揮しただけというのもわかる。同様に、ジェントリフィケーション・防災のための堤防設置で立ち退きを余儀なくされた河岸部の住人のひとたちの苦しみも荒川区で学んだ。その痛みは比較できない。阿武隈川や千曲川、多摩川の被害とも比較できない。比較できないものは比較してはならない、とわたしは思う。

「スーパー堤防最高、蓮舫ザマァ」みたいなのは論外として、そうした論調に抗うために「立ち退きした人びとの苦しみ」や「東京(江戸)中心主義」をいうときも、「誰が当事者か」という問題をしっかりと考え抜き、上流部、中流部、下流部それぞれ固有の歴史を踏まえて、本気で一緒に考えるべきではないか。それは防災工学や行政権力の話にとどまることではなく、都市と自然と歴史(記憶)を結び付け、危険ならぬリスクを考えるための第一歩となるはずだ。

なんか当たり前のことを偉そうに書いただけだが、右でも左でも、工学派でも倫理派でも、「山の手視線」がにじんで出たような文章には、やっぱり魂削られる。武蔵小杉の排管決壊をせせら笑う感覚は、荒川区民としてまったく理解できない(理解したくない)。ただ、自然災害と地域社会のかかわりについて、東と西が分断され続けてきた歴史を再考し、不動産屋目線ではないところから、(上流部他県により)「東京」がかろうじて可能になっていることを考えることは喫緊の課題だと思う。

そんなことを荒川区で考えている。


















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