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「当日券あります」・・・ちょっとヤヤコシイ話ですので、よ~くお読みください。



『当日券あります』


35年ほど前の寒い冬の日。
私は、あるソプラノ歌手のリサイタルを聴くため、
都心に出来たばかりのコンサートホールに向かった。

「当日券、若干ございます。ご希望の方はお並び下さい」

この、当たり前に聞こえる窓口担当者の言葉が、混乱のきっかけだった。

当時、インターネットは無く、チケットは会場の窓口や
専門のプレイガイドのチケットカウンターなどで売られていた。

当日の午前中までに、それらプレイガイドを含めた全ての前売り券の
販売枚数を集計し、当日窓口で発売する枚数を決める、

というのが一般的な当日券の販売方法だった。

当然、前売り券の売れ行き次第では、当日券が全く出ないという事も珍しくなかった。それでも、観たい人は僅かな可能性を信じて劇場窓口にやってくる。

そのバイオリニストは人気で、前売り券はかなりの枚数出ており、
当日券は、出るか出ないかわからない状況だったが、
コンサートホール入り口のチケット売り場の周りには、
窓口が開く前から、当日券目当ての客が数人、ぱらぱらと集まっていた。


そして、開場時間が近づき、閉じていた窓口のカーテンが開き、
ガラスの仕切り壁に内側から

「当日券あります」

と書かれた紙が貼りだされた。

仕切り壁の下側にある小さな窓から
女性の担当者が顔を覗かせて声をかけた。

「当日券、若干ございます。ご希望の方はお並び下さい」

それが問題だった。

この時、窓口の周りには十数名の男女がいた。
ただ、それらは全員が当日券を求めている訳ではなかった。

コンサートホールのチケット窓口は、同じ会場でやる別のオーケストラコンサートの前売り券も一緒に販売する。
運営の都合なのか、窓口は決まった時間にしか開かないので、別日の前売り券を求める人々も、同じように窓口の開くのを待たなければならない。

その二つの売り出すタイミングが、この日たまたま同じだった。
今から始まるソプラノ歌手の当日券と、別の日のオーケストラの前売り券。
目的を異にする者が、入り混じって待っていた。

当然前売り券を買う人々は急がないので、何となくパラパラと遠巻きにして
窓口が開くのを待っている。
当日券を求める人々も遠巻きの中に紛れて、窓口が開くのを待っている。


そんな状態で、「ご希望の方はお並びください」と言われても、
誰が一番に並んでいたか、はっきりと覚えている者などいない。

その場にいた客たちは混乱した。

何となく窓口に近いところにいた客から列を作り始めた。
私も何番目だか分からなったが、とりあえず並んだ。
目の前では、若い男女が順番を譲り合っている

「私、そんなに早くなかったと思うんで」

「いや。おそらく僕よりは早いですよ」

結局男の子が譲って、女の子が先になった。

何となくできた列の先頭で、少し声を荒げる青年がいた。

これだと順番が全くわからないじゃないか。俺はずいぶん前からいるような気がするが証明する手段もない。フェアじゃないよ。これで良いのか」

窓口を開ける前に、列を作らせるのが本来のやり方だろう、と担当者に言っているらしい。
確かにその通りだ、と思った。文句を言いたくなるのも分かる。
運営側が、窓口から順に並ぶように指示するか、「当日券お求めの方は一列でお待ちください」と書いた立て看板を1つ用意すれば解決することなのにとも思った。


窓口の担当者は、当惑していた。
当時はこのやり方がほとんどで、たとえ当日券の発売であっても、劇場の外のことには関与しないのは当たり前で、列を作るかどうかは客の自主的な行動に委ねられていたのである。


やがてその青年は、

「このやり方じゃあ、納得いかないから俺は帰るよ。じゃあな」

と言って列から離れて行った。チケットは買ってないようだ。
長い時間待って、窓口に文句まで言ったのに、リサイタルを諦めるのか・・・。

考えているうちに、私の番が来て、当日券を無事手に入れることが出来た。

すでに開場時間であったので、私は急いで劇場内に入った。


席は、1階席後方の右端だった。
見ると目の前の席に、席を譲り合った男女がいる。

たまたま隣り合わせの席になったようだ。

「先ほどはありがとうございました」

「いえいえ。偶然隣の席だったみたいですね」

「この歌手、お好きなんですか?」

「いや。初めてです。最近話題になってるから」

「私は去年、このホールで聴いてからファンになったんです。
その時は、一緒に出演する別の人がお目当てだったんですけど・・・」

若い二人は話が盛り上がっている。

私の隣の席も空いていた。

どんな人が来るのだろうか、と一瞬期待したが、
座ってきたのは神経質そうな老紳士だった。


それでも、リサイタルは最高で、存分に楽しめた。

席を譲りあった二人は終演後も話が盛り上がっているようで、
連れだって帰っていった。


前売りで余裕をもって入れた人。
幸運にも当日券を買えた人。
信義に拘って聞くのを諦めた人。

どれが正しくて正しくないかは分からない。

だが、今のようにチケットの一枚一枚がキチンと管理されていれば
こんなフェアでない印象にはならなっただろう。昔のことだ。


帰り際、当日券の窓口を振り返ってみると、

「当日券あります」

と書かれた張り紙が、まだ貼られたままだった。


              おわり




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