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山中鹿之助は戦国時代のど真ん中で戦い続けた人生でした。
そんな彼のゆかりの地を巡ってきました。
兵庫 → 鳥取 → 島根 → 岡山
というルートです。

取材のスタートは上月城制覇から。
ところが、これが大変なのです。

戦国時代の城は基本、山城なんです。
大阪城みたいな平らなところに建っている城はないんです。
平城は何層もの壁が作れる広大な面積があって、大きな堀が何本も作れて、天然の要害の海とか湖とか大きな川とかあるときは大丈夫なんですが、戦国時代はそんなことをできる余裕のある武将は殆どいませんでした。

山中鹿之助が仕えた尼子氏も戦いに次ぐ戦いで、山城ばかり。
当然、鹿之助ゆかりの地も山城ばかりになるんです。

で、上月城ですが、これが朝一の体に応えるんです。
登っても、登っても本丸跡は見えてこない…。
やっと着いたときには汗びっしょり。

でも、休んでいる暇はないんです。
何といっても貧乏暇なし取材旅ですから、限られた時間で取材を終わらさないと大変なことになる!!!

疲れた体に鞭打って、次々にゆかりの地を訪れました。
ところが、その日の最後に行ったのが真山城跡。
丸一日の最後がここだったんです。
スタート地点から山でした(笑)。

登り始めると、1合目 本丸まで1.108(正確じゃないです(笑)そんな数字でした)と表札が木に掛かっている。

1.108???もしかして1キロ以上も山登りするの???
萎えそうになりましたが、登り続けました。

山城の嫌なところ、登ったのに下らされることが何度もあるんです。
この真山城(しんざんじょうと読みます。)も例にもれず、登っては下り、下っては登り、本丸跡に着いたときにはもう夕暮れでした。
守りのためとはいえ、山城は優しくないんです。

初日はこれで終了でしたが、貧乏暇なし取材旅ですので、宿泊の予算も限られている。そんな中でもなるべく体が休まりそうなところに泊りましたが、全部古い(笑)。
でも、スタッフの皆さんの対応がよくて、気持ちよく過ごしましたが、翌朝は6時出発…。

原稿の締め切りが一本あったので、2回の山城制覇で疲れ切った体に鞭をうちパソコンに向かいました。
でも、集中力がない。
すぐにユーチューブを見てしまう(笑)
それでも締め切りはやってくるので、仕上げると1時まわってるやん!!
即行で寝ましたが、翌朝は寝不足でむかった先は清水寺。
京都の清水寺ではないです。島根県安来にある清水寺です。

ここが大きいんです。その天辺あたりにあるのが、山名鹿之助の槍を研いだと言われる石。
それを見に行くだけに登る、登る、登る、登る、登る、下る、下る、登る、登る、下る、登る…。
やっと見つけた槍砥石と写真をパチリとうつすと、頂上に。

山城に登るときにいつも思う事。
15キロは痩せよう…。
98キロまであった体重を68キロまで落としたことがありました。
その時に登った山城の楽だったこと。
今は86キロですからね、あの頃と比べると18キロ重荷を背負って山を登っているんですから、そら汗が噴き出すわ…。

清水寺も制覇し、他のゆかりの地もめぐって、貧乏暇なし取材旅、終盤に向かったのが月山富田城。
尼子氏の居城。
ここで、毛利の攻勢を1年以上も耐えきったという難攻不落の城!!!

この貧乏暇なし取材旅4回目の山登りです…。
まぁ、人間の脚というのはこんなにも少ししか動かないのかというぐらいしか前に進まない。
それでも、進まなければならないんです・・・・。
遂に月山富田城攻略!!!!!
もうシャワーを浴びたような状態になっていました。
いや、泥水をかぶったようなという方が正しいかも(笑)。

たった2日ですが、わかったのは山中鹿之助の時代の人たちの身体能力は凄すぎるということでした。
山城の下で戦があって、その状況を伝えるために、伝令が山を駆け上がったり、駆け下がったりしてたんですもんね。
しかも冑をかぶり、鎧を背負ってですよ!!!

でも、本当はその当時の人もめっちゃしんどかったんだと思います。
なので、平和な世の中になると、平城ばかりになります。
ちなみに、尼子氏のあとに月山富田城に入った堀尾吉晴は「これはあかん。しんどい!!」と思ったんでしょうね。
代わりに築城したのが、国宝の松江城です。

堀尾吉晴のことを知りたい方はこちらをご覧ください。
松江観光協会HPに飛びます。少し下にスクロールして頂くと
『国宝松江城を作った武将・堀尾吉晴と忍者』と題した講談を7本させて頂いておりますので、どうぞ、ご覧くださいませ!!

というわけで、ボロボロの体にわかったのは痩せないといけないということでした。
新しいダイエットの物語が動き始めるのか?!

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