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仏様になりたい

ご門徒様宅にお参りに伺いますと、素朴な質問や、亡き人との思い出話を聞かせていただくことがあります。日常から離れた時間が流れるような、有難い瞬間です。
その中で、大切なこと、次回住職(父)からも伝えて貰いたいことは共有しています。
「○○さん、こんなことを話してくださった。こんなこと思っておられたんだね」と。
時々、住職は「そんなこと俺にひとっっ言も言ったことないのに」「なんで俺に聞かないんだ」と悔しがります。
どうやら、住職よりはものが言いやすいようで…。今後もそういう者でありたいと思います。
そんなわけで、今回の担当は岩田です。


「仏様に成りたいとは思わない」「仏に成りたいと思わない私はどうしたらいい?」
とは、ご門徒様だけではなく、仏教に関心がある知人から聞いた言葉です。

仏教を「私が仏に成るための教え」と捉えている方がどのくらいおいでなのか想像もつきませんが、仏教=成仏教と理解された上での、重く鋭い質問だなぁと思わされます。

私も長いことその周辺で悶々としていましたから、深~く頷いてしまいます。

仏様を分かった上で、「仏様に成りたいとは思わない」と決断しているのであれば、私は口を挟めません。でも、仏様は「じゃあご縁がなかったということで」と去って行くことはなく、ずっとはたらき続けてくださっている。そう私は聞かせていただきました。
と、そのことだけはお伝えしようと思います。

仏様とはどのようなお方かが分からなくて、なんとなく出たお言葉であれば、一緒に仏様のことを学び、そしてもれなく付いてくる「私」がどういう者であるのかを聞いていきたいと思います。(嫌がられるかもしれませんけど)

「仏に成りたいと思いません」ではなく、「なりといと思わない私はどうしたらいい?」の問いにはウームと考えさせられました。思い悩むというよりはちょっと固い口調で問われ、複雑な印象を持ったからです。
「仏になりたいと思わなければならない」と追い詰められてる感があるのだろうか。
お聴聞重ねている中で、歯がゆさがあるのだろうか。
色んな推測がよぎりましたが、性急に真意を量ることはしませんでした。
ただもし、成仏を求める強い思いを抱けないご自身に問題意識を持っているのだとしたら…仏法を聞くスタート地点であり、大きな分かれ目に立っておられる方だなぁと私は感じたのですが、皆さまはいかがでしょう。

仏となることを目標として仏法を聞く、そのスタート地点に立つことが、現代を生きる者にはとっても難しい問題だと、ずっと感じてきました。
布教伝道の観点からではなく、私自身の問題としてです。
そして向かった行信教校。入学して半年も経たない頃、講義で聞かせていただいた先生のお言葉が今も胸に残ります。当時のノートを頼りに、振り返ってみます。

それは、浄土真宗の信仰が成立していく過程を、「二河白道の譬え」に沿って解説された講義でのことです。
「二河白道の譬え」とは、中国の善導大師が『観経疏』というお書物に記された譬喩のことです。阿弥陀様の西方浄土を願う衆生が、他力の信心をいただいて浄土に往生するまでの道筋が譬えられています。他力の信心を勧め守護するために説かれました。
そのご文はこう始まります。

人有りて、西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。忽然として中路に二の河あるを見る。

浄土真宗聖典 七祖篇(註釈版)より

この後、長い譬えに入って行くのですが、先生はまずこの冒頭部分に時間を割いてお話しくださいました。その問題意識は、この譬えが既に浄土を志し仏道を歩んでいることを前提に布教の場で話されている点についてでした。

(先生)
まず、「人有り」で止めなさい。そして「西に向かひて百千の里を行かんと欲する」から始めなさい。

(ノート)
「人」とは、「我」のこと。自己の煩悩を煩悩とは自覚していない。煩悩が煩いとはなっていない。我執に包まれ、仏の慈悲を知らない存在のこと→これをステージ1とする
「西に向かう」とは、仏道に意識が芽生えたこと。成仏・浄土への往生を目標として持った状態→これをステージ2とする

このステージ1からステージ2へのステップアップ、ひと繋がりでさらりと書かれていますが、先生の仰るように考えれば、次元の異なる意識の転換があります。「人」の身になにが起きたのでしょう。

(先生)
私達は私の感覚・判断に疑いを持たずに生きている。自分の我執を満足させてくれるものには愛着を持ち、自分を阻害するものには強力な怒りを持つ。愛着を持つことも拒絶反応を示すことも当然のことだった。自らの幸せを際限なく追い求め、他者のことなど無関心の、思うがままに生きている状態である。
そういう者が “ここが一番難しいんだけど、どんな事情があってどんな理由があったかは分からないが” 自他を超えてあらゆる人々に慈悲を実現していこうとする仏の教えを聞いて、それに感動することになった。そして私もそうなりたいと思った。
その時初めて、今までの私のあり方がその目標を阻むものとして認識される。私の煩悩が煩悩として成立することになる。

自分自身も含めて見直してごらん。ホンマに西向いてるか?仏様というものを指向してる?

心臓を射貫かれるような問いが出されました。自分の内をのぞき込めば、坊さんとして恥ずかしくなるようなグラつきしかありません。

ただ、先程の「人=我」のところで、先生は「生まれて最初から仏さんとか、阿弥陀さんが好きな人なんていないんです」とも仰ったんです。
そう、そもそも私は「仏となりたい」と自発的に思えるような者ではないのです。

それが、どういうわけで…先生が「ここが一番難しい」と言われるような方向転換が起きるのでしょう。

…結局、私の心の動きに囚われていては、その答えは見えてこないのでしょうね。

「仏になりたい」と願うことすら出来ない者を、仏に触れさせ、憧れさせ、願う者に育てていくのも、阿弥陀様のおはたらきなのです。
そして、心を入れ替えようとしても、根深い煩悩によってたちまちかき消されてしまう。それほどまでに救われがたいのが私です。

その絶対に救われるはずのない者が仏となるだなんて、矛盾でしかありません。ただその矛盾は私の側での論理です。
絶対に救われるはずのない者を目当てとして、その救いを完成されたのが阿弥陀様でした。阿弥陀様側の論理では、何も矛盾はないのです。

「仏様になりたい」と願う者に私を育てる、その阿弥陀様のはたらきを、残念ながら私は直接感じることはできません。きっと幾つかのご縁として、はたらいてくださっているのだろうな。というくらいのものです。
後から振り返って「あぁ、あの時の」と思うことが出来るかどうか…心許ない私です。

それでも、法蔵菩薩様を阿弥陀様とならしめ、お釈迦様をブッダとされたはたらきは、今私にもかかっているとくり返し聞かせていただきました。
そう聞いて、よろこぶ心も与えてくださった。

このことだけは、ようやくグラつきなく言えるようになったのでありました。
(煮詰まってきたので今回はこれにて)


ナンマンダブ、ナンマンダブ

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