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土星と天王星の夢

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キッチンで父と母に土星と天王星の周期を教えている。
土星は72年、天王星は80年などと話していたが、これを解釈している今は土星の公転周期は30年ほどで天王星は84年ほどなので地上から見たものと違うのだと気が付いた。
夢の中ではリアルな感覚だったが、太陽との関係から見た所の話ではないはず。
72年というのは、何だろう。
角度の問題で72度というのはあるけれど、土星の周期と関係があるとは思えない。72度は360を5分割したもの。だったら、80は?と考えると9分割の2倍だ。けれど、ここでは周期は繋がっているというのを強調していたので、アスペクトが重要なわけでもなさそうだった。
父と母に話していたので、仮に天と地、意識と無意識、太陽と月、などとするなら、どちらに対しても周期として連続していることを言っていたように思う。

土星は太陽系の枠、惑星数字では8、天王星は9に関係するが、身体に例えて、今の地上肉体が形をつくる事の一部を土星の影響とすると、天王星はその周辺の目には見えない領域の事だ。
天王星は肉体にとっては見えない領域だが、月の領域であまり地上と変わらないと言えるぐらい濃い物質界として見えているとき、私には薄暗い水の中に縫いぐるみが沢山あるように見えていたことが何度かある。
これを天王星と解釈していいのか曖昧なのは、実感だけであまり頼れるような知識がないからだけれど、分からなかったからこそ、ここに天王星の性質を感じた。
月の大地がモヤモヤとした物質界のようになっている時、或いは自分が溶けて水のような状態になっているとき、(ここはグラデーションになっていると思うけれど)感覚はまだどこに行くか定まらないように流動的だった。
足りない感覚があるのではなく、すべて流動的で触覚も味覚も視覚も熱感覚も生命感覚もどこまでも伸びることが出来る状態は、ある意味9の数字に似ているように思う。そしてまだ完全な形の中にはいないのでエーテル的でもある。
エーテル的状態から、アストラルを見ていた。
夢の世界(アストラル)に入り込んでいたり、色々なパターンで天王星を知るので、物質界で似たものを象徴として解釈するときもあれば、月の身体が濃い場合ではまた見え方が変わってくるときもあるので、この辺りをまた意識的に解釈していくと抵抗体が出来るのではないかと思った。

よく、夢の中で鏡を見て移動することがあるのも、この水のようなものが固まったものを表していたのではないかと思う。水の中でアストラルを見ている時と、水を鏡にして移動する時では、実感というか、リアルさというのが濃くなったり、薄くなったり、というのがあり違いを考えるのが楽しい。
8と9を色々な方向から移動しているようにも思う。

夢の内容に戻ると、その後、印象的だったのは、お風呂場から排水溝の向こう側に大きめのキノコを流してしまい、一瞬、つまってしまわないかと心配になった。
排水溝の向こう側はそれまで自分がいる世界で、暗闇に挟まれ、繋がっている。(水場に来る前、向こう側の世界で、私は本が沢山入った段ボールを漁り何かを見つけていた)
排水溝といえないぐらい大きな排水溝の(奥まった)入り口付近には、別のキノコが柵のような所に引っかかっていて、私はてっきりこのまま(解体しないで)キノコを流しても大丈夫などと思ってしまった。

その後、また移動すると何だか乗り物に乗っているかのような感覚だ。
バスか、車かで移動しながら暮らしているようだ。
中性的な仲間がいて、トイレに向かったので私も続いてそこに向かう。乗り物の中のトイレは2段ベッドのように不思議な構造をしていた。形も船のレプリカみたいな変わった形だが、少し火のようなビビッドな色だった。水の中に長方形のティッシュのようなものが落ちているが、流し方が分からず紐のようなものを引っ張るのか試してみようと思ったが、近づくだけで勝手に水が流れる構造だった。

水場でキノコを流してしまった時、なんだんか「ああ、流れてしまった」というようなびっくりというか、意識がはっとする感じだった。思いがけず、というのだろうか。
なのでキノコをちゃんと解釈しなければと思う。

キノコは立体的な円、傘のような形と言えるのではないかと思う。上が丸い三角、下は細長い楕円みたいな形なので、2つの円の重なりともいえると思う。空間的、変形ヴェシカパイシスか。夢では一つに複数の小さなキノコが付いているようなものだった。
キノコは語源的には、木+の+子らしい。
植物ではなく、菌なので、解釈が難しいが、それに似ているだけなので地上のキノコから判断してはいけない。キノコに似ていた、大きなまま流した「何か」は天王星的なもののはずだ。

それと、水に乗せて大きなまま排水溝の向こう側に流してしまったというのは、これより前に見ていた段ボールの中から見つけた本に関係する。
水場というのはスワディスタナで、月の領域や蠍座なんかにも関係するのではないかとも思ったが、これより前に土星と天王星の周期について会話していたのを考えると、ここに関係があるように思う。柵に引っかかっていたキノコがチラッと見えたのも、土星の柵なのかなと考えた。

そこから移動すると、私は乗り物の中にいるかのような体感だった。
もしかすると、その前に流したキノコの中にいたのだろうか。
ここで入ったトイレは変わっていて火で出来た船のような形をしていた。
水の中の紙(月の大地)の流し方が分からなかったが、ただ近づくだけで水が流れた。
流れたというのは滞りがなくなったという事だろうか。常に移動する必要があるのだ。
これが、ある意味アストラルの形だったのかもしれない。
トイレは生命の樹の喉と腰に関係するように思った。よく、トイレだったところからベビーベッドになったりするので。
性センターH12に関係する。


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この日は前日の内容がまだ曖昧だったので、昨日見た船を意識していた。
印象的だったのは、細い通路のような所を歩いていたが、私が歩いている上に女性のような存在が乗ってきた。私は男性で、上に女性。アストラルの上のエーテルのような事だろうか。
そして、その状況を今度は仲間のような複数人が見ていて、テーブルに座り話している。
まるで太陽の周りの惑星のようだ。
今度は月の家で目覚める。
起きるとどうやら10時を過ぎているらしい。10時20分ほど。
仕事に出かけなきゃならないはずなのに、沢山の洋服(カラフルな色合い)をこれから洗おうとするところだった。

月の家で起きた時、10時20分ぐらいといった印象を持った。
10はタロットでは運命の輪、20は審判のカードだが、
10と20が隣り合っているのが気になる。10は新たな1の中に入ることだが、20は墓の中から死者が蘇り自在に移動できるようになることだ。
この日は前日の続きとして船について知りたかったが、どうやら新しい1でありつつ、自在に移動できる状態にしたいらしい。
洋服を洗おうとしていたのは、アストラル体を理解する事、抵抗体を持つ事で柔軟になることを表していたと思う。

それと、解釈する前、何も浮かばない状態だったのでタロットを引いたが、出たのは9「隠者」


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印象的だったのは、三角形の関係について度々出てきたことだった。
前日の夢についての続きだ。
おとめ座と獅子座ともう一つを組み合わせたような感覚について。
こういった幾つかの三角のパターンがあり、人が多い世界で没入すると自己喪失することについても話していた。
三角形のパターンを使い分けることで、前日見ていた10と20が隣り合ったような世界移動が出来るという事だろうか。
ある存在が、キャンプについて詳しいらしい。
火を使うことについて扱いが上手いのだろう。

黒墨の手書きの質感の絵が飛び込んでくる。
車輪のような絵だった。
7「戦車」だろうかと起きた直後は思ったが、10「運命の輪」かもしれない。
ただ、すぐに思ったのは7「戦車」だったのでこっちの意味が近いのではないか。
このタロットの意味を考えた時、身体は大地に繋がれているが、夢からヴィジョンという所で出てきたので、車輪のようなものは月の身体ではないか。

月の身体の馬車だ。黒い墨のようにみえたのは、火(H96)に関係するはず。
夢の中でキャンプについて教えてくれた存在は火を扱うことが上手そうだった。
細かい内容、道具のようなものを見たがそれを説明できるほど覚えられなかった。
三角形の関係について、組み合わせた感覚のようでもあったが、三角形は火の活性化したような状態でもあるので、使い分けることでその感覚世界に対して抵抗体をつくることを言っていたのではないかと思う。
数日前の船の内容から続いているように思うが、もう少し、何度かこれについてみて解釈してみようと思う。


土星的なものと天王星的なものの間を移動することに興味を持った。
8と9の間の溝を埋めることは、受動的なものと能動的なものの極端な差を自在に歩けるようになることだと思う。
決まりきった視点が解放されるには、決まりきったものがないといけないのでどちらかを否定することは出来ない。

数日前にみていた、身体の一部が違うような存在達の内容では、0を纏った1であるかのように思っていたが、つまりそれは9なのではないかと思う。
前日引いたカードは、9「隠者」で繋がった。

9は、まだ新しい1に完全には入らない状態で行き来する。
今回の夢も、このことに繋がっているように思う。


(余談)
反射というのは興味深い。
もしも強い意図を一箇所に投げかけたとして、強い意図がそのまま跳ね返ってきたとしたら。
それをすぐに私だと思うのだろうか。

対象が存在しない段階で、一体何に向かっているのかも分からず、ただ目覚めているだけである時。
自分から湧き上がる恐怖がどこからくるか判断できないまま、という状況で、目にしたものがあったとしても認識までは至らない。

なぜ異質な感情になるのかも分からない。

恐怖を感じるのは理解できないものに対してかもしれない。
そうでなければすぐに受け入れられる。

まるっと意識しか無い時、向かい合う対象は自分の投影であり、全部意図で満たすことが出来たら、摩擦はなくなる。

天使は地上や離れた所で見ると美しいけれど、あまりにもリアルに近くにいたらちょっと視点が変わる。

よく、エゴについて考える。
私の場合、それをより実感するのは異なる身体の生き物に会った時。
人ではなく、虫や色々な動物。

なぜ虫を怖がってしまうのか、と思うことがある。
狐やライオンがとても好きだけど、餌を食べる姿は荒っぽい。柵の向こうにいるから可愛がれるのか、と感じた事もあった。
熱帯の蛇は人を食べることもある。

知らないものに反射的にビビるのをやめたい。
ビビったら笑おう。

高校生の頃、夕方に、クローゼットについた鏡を見ながらヘアーアイロンで髪を真っ直ぐにしていたら、どこから来たのか、巨大なムカデのようなものを鏡越しに見た事がある。
沖縄サイズの。
太いやつ。
もう死んでいたけど、それまで居なかったのに何処から現れたのか分からなかった。

無意識だとよく、そういうことがある。
窓から侵入してきたり。

大きかったり、足が沢山あるのが怖いと思っていた。

でも、きっと、足が沢山あるのは視点だ。
大地に対する視点。
単に足が速いというか、いっぱいあると角度も自在なのかな、とたまに思う。

異質なものを受け入れて拡大したい。

昨日、ある方のYouTubeをみていたら執着の手放しのようなお話をされていた。
文章だけだと、何のことかなと思うことも、話を聞くとその視点からみた事かと納得する。

どんな事について話されているのか、どんな世界を見ているのか、会話や内容によって言葉の意味は変わる。言葉はそれ自体では成り立たないからこそ柔軟になる。

生まれたばかりの頃、具体的な生きる目的などあったのだろうか。
意図があるから生まれてくるけれど、目に見える具体的なものの為ではないと思う。
あるとしたら数字のような、柱だけ。
具体的な所はどんな風にも変えられる。

環境に振り回されていたら、その環境は私になってしまう。
そこから何処にも行けないということだ。

けれど、環境のせいにしたい事があるとしたら、環境のせいで上手くいく事があるとしたら、それを分からず無意識にやっていたとしたら、まだそれまでの私から変えられない印象があるし、解放しても何も見えていない。

瞑想状態の意識からしか理解できないものがあると思う。
それについては、通常の私から離脱する必要がある。

ジオセントリックは地上からの救いだし、何も理解できない所から始められることがあると思うけれど、ヘリオセントリックは人格を超えて能動的に始めなければならない。
単に図を見るようなものではないと思うし、自立的な面があるように思った。
どちらも大事だな、と。

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