砂丘の満月

インサイド・アウト 第16話 おとぎの国(3)

 《左右対称の顔の女》の話は常軌を逸していた。人間の脳内に宇宙を創り出せること。この宇宙は、肉体を捨てて脳だけになった男が頭の中に創造したものであること。その男の分身とも言える人物が、この宇宙の中で自死のループを繰り返していたこと。そして、この宇宙へ来るために自らの肉体を捨てた女の話……。普通だったら到底信じられる内容ではなかった。しかし、首から下が切り離された状態で、頭部だけの姿でベッドに置かれている今の自分の状況を考えると、どんな話でも受け入れざるをえなかった。

 女はそのまま話を続けた。

「本来、いるはずのない彼女がこちら側の宇宙に干渉してしまったことで、世界の均衡が乱れたのです。宇宙の外側への侵出を企む組織——『日本アウトベイディング』は、世界中に張り巡らせた監視システムによって、空間を不連続に移動する彼女の姿を捉えました。そして、人知を超える者が本当に実在し、しかもこの地球上に存在することを知ってしまったのです。

 組織の代表である等々力という男は、こうなることを以前から予知していたかのようでした。精巧な監視システムの導入は十数年前から計画的に遂行され、また彼は、彼女の瞬間移動能力を無効化する薬さえも用意していたのです。やがて彼女の居場所を突き止めた等々力は、薬剤を投与して力を奪い、彼女の身柄を拘束しました。それからまもなく、捕らえた彼女の頭部を肉体から切り離し、等々力は少しも躊躇することなく、自らの頭部を切断して彼女の胴体に接続したのです」

 奇妙なことに、その状況はまさに今、病室のベッドの上で頭部だけの状態で生かされているわたしの姿と一致していた。でも、わたしには当然、彼女のように《原点O》で暮らしていた過去はない。だから、わたしが彼女自身である可能性は一切ないはずなのだ。しかしそれにも関わらず、彼女とわたしには何らかの深い関係があるように思えてならなかった。

 わたしは考えた。等々力という男は、一体何のために〝彼女〟の頭部を切り離し、自分の頭部に差し替えたのか。そしてこのわたしの肉体は、今、どこにあるのか。まさかとは思うが、すでに何者かの頭部が接続されているなんてことは——。

「彼女の肉体を得たことによって、等々力は様々な能力を会得しました。不老不死。どのような環境でも生き残れる適応力。テレパシー。脳の中に幻覚を見せて、相手を思い通りに操作することも可能になりました。そして、この宇宙のどこへでも瞬時に行くことのできる瞬間移動能力までも……。この宇宙において、等々力はもはや〝神〟と同等の力を得たと言っても過言ではないでしょう。

 等々力は現在、その力を利用して、この世界を自分の支配下に置こうと企てています。すでに幾つかの先進諸国はクーデターによって政権交代が起こされ、世界は混乱の渦に巻き込まれているところです。そのうち彼は各国の軍事力を集結した世界国家を作り出し、強力な支配体制を構築することでしょう。

 ここで忘れてはならないのは、彼の真の目的は〝この宇宙の外側へ侵出すること〟だということです。これはまだ始まりにすぎません。彼はそのうち、おおもとの宇宙である《原点O》への侵出を試みるでしょう。それが達成されてしまったときこそ、この世界が終わりを告げるときです。その最悪の事態を防ぐために、私はあなたをここに呼び寄せたのです」

 神と同等の力を得た者が、世界のすべてを手に入れようとしている。そんな空想のような話を、《左右対称の顔の女》は大真面目に語った。そして、この世界が終わりを迎えるのを防ぐために、わたしをここに呼んだのだという。だが、首だけの姿になったわたしにどうしろというのだろうか。世界を救うどころか、残された命を謳歌することもできないわたしに、女がこのような話をする理由がまったくわからなかった。

 わたしは女の瞳を見つめて、話の続きを待った。

「等々力に胴体を奪われ、頭部だけの姿になった彼女は、絶望に暮れました。人工心肺装置と点滴によって生命はかろうじて維持されていましたが、能力を封じられていたため、脳から意識を分離して、彼女が創り出した宇宙へと意識を転送することも叶いませんでした。彼女は死を覚悟しました。しかしそのとき、彼女は感じたのです。すぐそばに、自分に極めて近い存在が来ているということに。その正体が何であるか、はじめは半信半疑でした。ですが、次第に確信に変わりました。その正体は、彼女が創り出した宇宙で生きていた、彼女の分身なのだと気がついたのです。なぜその人物がこちら側に来ているのかわかりませんでしたが、彼女は最後の力を振り絞ってその人物に幻覚を見せ、自分の元に呼び寄せました」

 そのとき、《左右対称の顔の女》は苦しそうに顔をしかめた。それからわたしの近くに来て、両手でわたしの頬を覆い、透き通るような瞳で両目を見つめた。

「まだ気付きませんか? その人物こそ、あなたなのです。どうやったのかはわかりませんが、あなたはこちら側の宇宙にやってきた。そして、私が捕えられている病院のそばを通りかかったのです。あなたの存在を感じ取った私は、喫茶店に入ったあなたの意識を奪って幻覚を見せ、この病室に来てもらいました。私はあなたであり、あなたは私なのですよ。あなたがこちら側の宇宙へとやってきたのは、偶然を超えて、もはや奇跡としか思えないのです」

 わたしは疑問に思った。

 偶然? 奇跡? これは本当に、単なる偶然や奇跡なのだろうか?

 わたしには、自分の身に起こった一連の不可解な現象は、偶然などではなく、必然的に起こったことのような気がしてならなかった。わたしがここに来ることは最初から決まっていたとしか考えられなかった。いつからか? 少なくともわたしが《青木ヶ原樹海》に行ったときには、すでにこうなる運命だったのだ。だが、事の発端は、もっと前だ。

 数日前に見た夢の中で、ローブの男が差し出した手鏡の中に、頭部だけになったわたしの姿が映し出されていた。それはきっと今のわたしの姿を映し出していたのだろう。何度も夢の中に登場したローブの男——きっと、彼がわたしをこちら側に招き寄せた張本人なのだ。そして、SNSのタイムラインを眺めていたときに偶然目に止まった《青木ヶ原樹海》の写真。それを目にしたことによって、私はSという人物に惹かれ、彼に電話をした。今思うと、あのときからすでにわたしは大きな渦に巻き込まれつつあったのだ。いや、もしかすると、それ以前からこうなることはすでに決まっていたのかもしれない。

 わたしは、忘れ去りたい記憶の塊を探った。

 父からは些細なことで怒鳴られ、母からも邪険にされた過去。女らしさが微塵もないわたしに対して、醜いものを見るような視線を露骨に投げかけてくる心無い人たち。わたしは、行き場のない怒りを感じ、いつも何かに腹を立てていた。やがてすべてをあきらめて、「仕方ない」と受け入れるようになった。他人に振り回されることがないように、心に殻を作ることで、誰にも侵されることのない唯一の聖域を創り出した。

 だからこそわたしは、タイムライン上に唐突に流れてきた神秘的な森の風景に惹かれたのかもしれない。コケで覆われた根を地面の至るところから突き出し、人間の侵入を阻む樹海の森に、わたしは自分と同じ匂いを感じたのだ。すさんだ心だったからこそ、美しい風景に心が奪われたのだ。すべては自分で選択したこと……。恵まれない境遇と考えていた、生まれた環境、両親、容姿……そのどれもが、実はわたし自身で選択したものだったのかもしれない。すべてはこの時のために。


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