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「批判」

「○○に批判された。」


僕はフレーズを目にすると、マイナスイメージを抱くことが多い。人に指導された時、人に酷く意見された時や自分の信念にケチをつけられた時、批判されたなぁと思うことが過去に多かった (大体は、どの立場でテメーは人に物言ってんだよ、ほっとけ!って思ってたけど 笑)。
それらを時々、「否定」という意味に近いような感覚で捉えたこともある。とにかく、僕が上のフレーズを口にする時は気分が良くない時だ。簡単に言えば、日本でよく「メディアからの批判」なんて言葉を耳にするが、「めちゃええことやん!」って印象を抱く人は少ないだろう? (ねぇ、少ないよね!?(圧))。
状況によって、「批判」の意味合いも変わってくるんだろうけど…

話が少しだけ遡る。僕は、去年の9月から英国のとある大学で運動生理学修士学生としての生活を始めた。この記事に手をつけるまでの10ヶ月の間、目を通した生理学に関する論文の数は500を超えるだろう。そして全ての授業は、全て論文ベースで行われ、教科書を用いることはほとんどない。修士学レベルというのはそういうものである。
まぁそんな頑張ってますアピールは置いといて、論文をベースに行う授業で僕は、「Critical」及び「Critically」という言葉を耳にタコが出来るほど聞いた。それぞれ直訳すると「批判的」の形容詞、副詞形である。「批判」を「否定」と同じ感覚で捉えていた僕は、論文を読む時にケチをつけるような感じで捉えるのかと勘違いしていた。どこか間違い探しをするように…。
しかしながら、「批判」というのは短所だけでなく長所も見分け、評価し判定することである(Google調べ)。多くの論文では「Introduction」「Method」「Result」「Discussion」の4つのパートで構成されているが、最後の「Discussion」のパートで自らの実験結果について批判的に議論するのである。もちろん、一人で議論など出来ないため他の研究者の結果や意見及び結論を、自分の実験結果と比べて議論していく。結果は正しいか、矛盾してないか、他にもっと良い方法はないか、他と比べて強みや弱みを適切に正しい方向へ導けるか、そのために将来どのような要素がより必要か etc…
物事を批判的に見ることはシンプルである。なぜなら目に見える数字や物事は、短所と長所が明確になっているから。例えば、「役職ついてから休みが取れない、けど給料とボーナスはウハウハなんです。」みたいな。  それはなぜ? そりゃそうだよ、役職や責任が付いた分、給料も上がるだろ!と説明できる人が多いだろう。 「責任」というワードがここでは本質になってくる。
まぁ実際、それを分からずに「休みくれ!!給料上げろ!!でも役職はつきたくねぇ!!責任を増やすな!!」って言う人もいるだろうけど…(まぁ何となく言いたいことが伝わればOKです^^)

一方で、人を批判的に見てみる時はどうだろうか。相手の短所ばかり見えてへん?ちゃんと長所も見て、客観的に評価出来てる?
目に見える事象や物事と違って、人間の感情や思考が目に見えない、これがまたややこしい。例えば、「○○ちゃんは優しいよね!だから君の事、すちなの!」。目に見えない「優しさ」という感情は、自分にとって一方的に与えてもらえるプラスの感情なので「この人はなんでこんなに、うちに優しいの!」、「この人が感じさせる優しさ、すごい安心するわァ」って素直に思える。そんでもって「優しい人」の短所なんぞ見つけようなんて思わないよね。印象が長所から入った場合、短所がぼやけて目立たないケースが多い気がしている。故に、自分にとって心地の良い感情は、時に視野を狭くすることもあるよね (なんやこいつ優しいと思ってたのに、信じてたのに、めちゃ酷い人やったわ!利用されてたわ!この八方美人!みたいな笑)。良い人=自分に危害を加えなさそう という直線的な思考かな。
逆に「こいつは仕事が出来んな!役立たず!」みたいな短所が先に目に付くケースでは、長所を評価した時と違って、これでもかという程に次々とマイナス要素しか出てこない (こいつは、あれすらもこれすらもできない!みたいな 笑)。そのような存在は、自分にとって足でまといの存在とさえ感じさせるから。「仕事が出来ないのは思考経路に理由があるのか?」もしくは「その人の得意分野では無いのかも?」なんて考えもしない (まず長所を探そうなんて思いもしないよね)。
でも実は、配置を変えた瞬間にめちゃくちゃ伸びる人材だったりとか、適材適所になってなかったりの可能性はあるのに。これは 出来ない=自分にとって余計な負荷になる という表面的な思考。
つまり主観でしか物事を見れなかった場合、人間というのは「肯定」と「否定」の観点からしか人を評価することが出来なくなる傾向があるのでは、と僕は考えている。短所か長所のどちらが先に目が付いたか関係なく、評価・判定出来れば、人を見る目が養われるんじゃないかな。物事や人の「本質」に近づけるかも。なんなら、真の意味で批判的に見てくれる人と人付き合いすれば、少しは気が楽になるかも…(良いとこも悪いとこも含めて私という人間を認知してくれる人、しっかり良いとこはいい!ダメなとこはダメと言ってくれる人とか)。
当たり前に見えそうで見えないのが「本質」だよねぇ。


僕はこの世にPerfect humanなんて居ないと信じている身であるが… 自身および他人を客観視して批判的に人や物事を見ることは「関係」「仕事」「学校」など生活において多くの理解を深めるいいキッカケになるんじゃないかな。少なくとも、今一度「批判」と「否定」の意味を正確に理解するだけで視野を広げるトリガーになりそう。
批判的に考えることは、より物事や人の本質に近づくことが出来る最短の近道ではないだろうか。ここまで読んでくれた方の中で、過去に自分自身を批判的に評価・分析したことあるよぉーって人はどれ程いるだろうか。え、どうやって自己分析・評価するかだって?
ちょと、それは有料級だなぁ…( ´  • ·̫ •  ` )。


初投稿、オチのない駄文を最後まで読んで下さりありがとうございました。これは決して、あなたのことを「否定」・「批判」したい訳ではなく、僕がなんとなーく日頃に考えていたことを文におこしただけでございます。人を客観的、批判的に観察するのはなかなか難しいですよね…
僕も人間として絶賛成長中なので、是非とも様々な「批判的」な意見を貰えると少しばかり喜びます、、
あなたの貴重な時間を使い読んでくれて Cheers。
Have a nice day, see you later.


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