夜のピクニック6

いつか歩いた時間~音楽劇「夜のピクニック」

音楽劇が苦手だ。なぜ突然歌いだすのかわけがわからない。

だから、『夜のピクニック』が音楽劇として舞台化されると聞いたとき、嫌な感じがした。なぜ、音楽劇にしなくてはいけないのか。普通に舞台化できるじゃないのか、と思っていた。

もっとも「普通に舞台化」というのはある意味他人事である。原作は水戸一高の伝統行事「歩く会」をモチーフにしている。1000人の生徒が一昼夜かけて70kmを歩く。ただそれだけの行事だが、「70km歩く」という動きを固定化された舞台でどう表現するのか、想像がつかなかった。

だが今は、「音楽劇にしてよかったじゃないか」と思っている。

会場を大きく使う。客席の通路を道路に見立てる。そこを役者たちが歩くことで躍動感が生まれていた。観客もまるで一緒に歩いているような錯覚を覚えるシーンもあったように思う。そして、この劇のためにすべて書き下ろされた楽曲たち。すべてが物語のモチーフにマッチしていた。おかげで素直に聞くことができた。時に、ウォーキング・ハイになり歌いださずにはおれなかったときのことを思い出させてもくれた。おまけに母校の校歌まで久しぶりに聞くことができた。言うことなしである。

「歩くということは、人生の代名詞だな」
原作者の恩田陸さんはこの舞台を観てそう感じたそうだ。私も似たような感想を持った。人生はマラソンにたとえられることがよくある。だが、そうそう走ってばかりもいられないのが人生だ。しかし、マメがつぶれたり、膝を痛めたり、捻挫をしたりして走れなくなったとしても、救護バスにつかまらないことだけを目標に、ゴールを目指して歩き続ける。そんな「歩く会」のほうが、人生を象徴しているように思える。少なくとも自分の今までの人生はそうだった。

かつて歩く会を経験した一人として、なつかしさ以上のものを感じさせてもらえた。舞台の上で演じられている物語は、自分が経験した「出来事」ではない。だが、かもしだされた「雰囲気」は紛れもなく30数年前に経験してきた「あの雰囲気」だった。

会場は満席だった。終わった後の雰囲気もものすごく良かったように感じた。「あの雰囲気」はあの行事、歩く会を経験していない人とも共有することができるのだと思った。それは青春の揺らぎのようなもの、目的もわからずゴールを目指して歩いた経験を多くの人が持っているからではないだろうか。そしてそれは、若者だけのものではない。30年以上たったいまだって、どこに向かっているのか確信をもてないまま歩いていることには変わりはない。

その道中、超えていかなければならない出来事にぶつかる。避けることも逃げることもできるだろう。だが、時に正面から向き合ってみることも必要だ。夜と仲間はその力を僕らに与えてくれるのかもしれない。

恩田陸より面白いと思った作家がいないわけではない。恩田陸作品の中で、『夜のピクニック』より面白いと思った作品もある。

それでもなお自分にとって、『夜のピクニック』は特別な作品だし恩田陸は特別な人なのだ。この舞台を観てそう確信できた。

恩田陸が僕にとってなぜ特別な人なのか、については以前、こちらに書きました。

<追記>
原作者ご本人のインタビュー。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?