見出し画像

コナリミサトの強迫的性善説と羅生門的語り――『凪のお暇』と『珈琲いかがでしょう』


コナリミサトと「他者の合理性の理解」

「今さら!?」とぎりぎり言われなさそうなタイミングで、コナリミサト『凪のお暇』を5巻まで読み終えた。人間関係の描写もさることながら(特に嫌味のリアリティがすごい)、「生活」に必要なMPを回復させてくれる要素も持ち合わせる、定期的に読み返したい漫画だった。めちゃめちゃ面白かったので、そのまま『珈琲いかがでしょう』も読み終えた。人がいるのに少し泣いた。


コナリミサトは、人間を多面的に描くのが巧い。というか、人間を一面的に描かないことがこだわりなのだと思う。

『凪のお暇』の主人公・大島凪は、元彼である我聞慎二のハラスメントや、断捨離後の隣人である安良城ゴンの中毒的な優しさに傷つけられる。

しかし、慎二の視点で見れば、誰より自然に空気が読めるように「なってしまった」自分にとって、凪の実直に空気を読もうとする素朴さが愛らしかったのであり、ゴンの視点で見れば、博愛主義者だからこその孤独があったのだ。


もちろん、だからといって慎二やゴンに非がないわけではない。慎二の恋愛観はキャバクラ店で「小3?」とツッコまれるし、ゴンはエリィに「それはアンタがぶっ壊れてるからだよ!!」「自覚しろクズ!!」と非難される。

そう、「凪は不合理に不幸に遭わされているわけではなくて、加害者のように見える人にも仕方のない事情があったんだよ」という説明の仕方は、時に問題を抱える。社会学者の岸政彦は、「他者の合理性の理解社会学」を進めていった先に訪れるこのような加害者の「理解」は、加害者の責任の解除になってしまうのではないか、という問題を提起している。コナリミサトはこの「加害者の合理性の理解」が抱える問題を敏感に察知しているのだ。


『珈琲いかがでしょう』では、見事な2段オチでこれを顕在化させている。

3巻で青山と垣根は、サービスエリアの駐車場である母子と出会う。その母は、夫から家事・育児を「ちゃんとしろ」と言われるストレスに病んでいる。コーヒーにココアを入れる安っぽいカフェモカの飲み方を夫に咎められたときにとうとう限界が来て、子と2人でティスニーランドに向かう途中だという。

しかし、子は「ぼく知ってるよ 本当のこと」と、父もまた「お母さんには内緒だぞ?」と隠れてコーヒーにココアを混ぜて飲んでいたことを語り出すのだ。子いわく、「きっとおとうさんはおかあさんに かっこいい自分を見ててほしいだけ」なのである。

けれども、ここで終わりではない。

「ちょっとしたすれ違いから仲たがいをしてしまった夫婦が 心のきれいな息子のお陰で仲直り ハートウォーミングなエピソードってことで もうよくないですか?」

と母は語り出す。周りから固めていくのは夫のいつもの手で、息子もまた夫の作戦通りに動かされているにすぎないことが、母にはわかっているのだ。

読者は一瞬、よくある「ハートウォーミングなエピソード」に騙され、夫を赦してしまいそうになるのだが、それもまた一面的なものの見方でしかないことが示されるのである。


コナリミサトの強迫的性善説

しかし、母子の物語は、実はまだ終わりではない。

『珈琲いかがでしょう』最終話では、これまで登場してきたキャラクターたちが群像劇的に結びつきあいながら、珈琲を友にそれぞれ幸福な生活を営んでいることが示される。

あの母子もまた、あの日、夫とじっくり話し合い、溜め込んでしまった負の感情が溢れ出る前に対処していたことがわかる。

「今日はちゃんとしないのしなくていいのか?」
「ちゃんとしない時はちゃんと作ってるから大丈夫よ」

夫もまた、話せば分かるし、妻と子と一緒に珈琲のCMのダンスに興じる人間であることが描かれる。要するに、一見すると2段オチなのだが、実は3段オチによって加害者の夫も赦されるのだ。


コナリミサトの漫画に、根っからの「悪」はほとんど存在しない。「悪人に見える」だけで、みな何かしらの事情を抱えているのだ。それは時に、ほとんど強迫的なまでに優しい世界である。

『凪のお暇』4巻は、個人的にはやりすぎではないかとも思った。ドクロのグラフィック・アートのそばにおり、凪と“たまたま”目が合ったガラの悪い男2人が、その後、凪が“たまたま”通りかかった河川敷で、実は少年野球の優しい指導者だとわかるのだ。

別に「伏線は張ってから回収しろ!」と言っているわけではない。きっと、機械仕掛けの神によってもたらされる、世界の理のレベルでの性善説こそが、コナリミサトの持ち味なのだ。


コナリミサトの「羅生門的語り」

だからこそ、『凪のお暇』5巻には震えた。スナックのボーイとして雇われた凪は、楽しく働きつつも、「嫌な奴に見える」客にはうんざりしている。そこに偶然、慎二が現れ、その仕事は向いていないから早く辞めろ、と凪に苦言を呈する。

「グラス割ってたあのグループとか生理的に無理だろおまえ」
「だ 大丈夫だよ そんなの 悪口しか共通言語のないかわいそうな人達だと思えば優しくできるし」
「なんで上からなんだよって」
「え」
「お前にとって『いい人』じゃない人間は 汚物として排除なのかよって言ってんの」

このセリフは、凪に刺さるだけではない。そして『凪のお暇』に刺さるどころではない。「いい人」しか登場させない「コナリミサト」に突き刺さっている。

なお、「グラス割ってたあのグループ」にも慎二は、凪が「何度もくり返し重ねてきた 上辺だけのわかると違う」、「本当にわかってるわかる」を言う。「理解」である。


コナリミサトは、複数の登場人物の視点から、人物・物語を多面的に描き出す。それぞれに正しい世界があり、だからこそ凪と慎二はすれ違い続ける。

複数の語りによって「現実」の多面性を暴露する研究法を、芥川龍之介『藪の中』を映画化した黒澤明監督作品『羅生門』にちなみ、オスカー・ルイスは「羅生門的手法」と呼んだ(『貧困の文化』)。

芥川龍之介『藪の中』からの変更点として黒澤明『羅生門』の重要なポイントは、多襄丸、真砂、死霊を呼び出した巫女の3人の言い分を話し終えた杣売り(『藪の中』でいう木樵)が「3人とも嘘をついている」と述べたあと、実は杣売りが現場から刀を盗んでいたことが発覚する、という点である。つまり、『羅生門』においては、現場の人間の語りだけでなく、語り手の語りもまた疑わしくなってしまうのだ。

コナリミサトは『凪のお暇』5巻で、「コナリミサト」をも多面的に描き始めたのではないか、という気がするのである。「多面的な世界の一面的な描き方」が暴露され、『凪のお暇』は作品の基盤ごとぐらつく。


『凪のお暇』は、男女のどろどろ、女同士のどろどろ、そしてこれから母子のどろどろを描き出そうとしており、胸が詰まるようだ。しかし、さらにまだ私が恐怖を覚えるのは、強迫的なまでの優しい世界と、自身にまで鋭いペン先を向けるような静かな迫力なのである。



この記事が参加している募集

コンテンツ会議

読書感想文

研究経費(書籍、文房具、機材、映像資料など)のために使わせていただきます。