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シェアハウスに住んでいない人のシェアハウスのすヽめ

シェアハウスの話をしようと思います。大家なので。
とは言っても私が住んでいるのはシェアハウスではありません。
大学の女子寮です。

タイトルはシェアハウスのすゝめなので勧める話を展開していきます。
しかし私は非住居者です。つまり、シェアハウスに住んではいません。
私自身は実は積極的にシェアハウスに住もうという考え方ではありません。
なので今まで見て聞いて感じた良さを書き連ねるような、よく見る「シェアハウス最高!! みんな住んでね!!」の類の勧誘ではないことをここに記します。


昔は家族を初めとした共同体が社会に息づいていたそうです。
しかし知ってのとおり現代は個人の時代と言われています。
私の受け止め方は、さらに悲観的なもので
現代を、孤独の時代だと感じて生きています。

人はそのときその場合の環境にあわせて、
思考と感受性、行動を大きく左右されて人は家族やそれに似た一定の集団で集まることで孤独から解放されてきたのだと私は思います。

多くの動物達と同じように、人にもまた、性格なり思想・感受性などが相似した別の人々と集まりやすい性質があると思います。
そうしたほうが心地が良いのは、誰もが経験してきたところではないでしょうか…。

しかし共同体には価値観が固定される/てしまう側面があります。
それは一言で、「マンネリ」とも言い表せます。
簡単にいえば、内輪ノリにいつまでも付き合わされて、そこから飛び出そうという感覚さえも億劫になってしまうこともあります。


そこでシェアハウスですが、
シェアハウスはいろんな価値観の人と共同生活するわけですから、生活上の自分の価値観が良くも悪くも揺さぶられることになります。

例ですが自分は綺麗だと思っていても同居人からすると汚かったりします。共有スペースやキッチンでこれは起こりやすいでしょう。
お母さんが掃除好き、お父さんが忙しくて散らかしがちだったなど色々と過去の環境が影響しているのかもしれません。
しかし、今、目の前で共有スペースを散らかしているのはその一人一人の人間です。

「もっと綺麗にしてよ!」と言っても汚した方はストレスになってしまったり、そもそもその程度で怒るのも疲れるから自分が我慢した方がいいか…などパターンはたくさんあります。

ここで重要になってくるのは「分かり合えない」という前提ではないかと思います。
毎回怒る、毎回気づいた方が綺麗にする、毎回我慢する、etc…



話しても分かり合えない、分かり合えないからどうしよう。
と それぞれの価値観を理解した上で関わって行くのが大事かと思うのです。

そもそも家族と一緒に暮らしていても許せない部分が必ず出てくるわけですからシェアハウスなんて特に価値観がそれぞれ複雑に絡み合います。

そこから、(この言葉を使うのは嫌なんですけど)創造性が生まれるのも確かです。

ウォルター・ベンヤミン『教育としての遊び』の一節に

──「創造的な人びとの共同体は、あらゆる研究を普遍性へとたかめる──

の一文がありました。
彼の言葉は、私が思い巡らせていたいくつかの言葉達を一斉にひきつけてくれました。

普遍性とは何でしょうか。
その全容をのべるほど、私には文章の力量がありません。
ただ一つお話しておきたいのは、普遍的な芸術・文化・学問・思想にも、即物的な利益になりそうな即効性は期待できないということです。
しかし、それは確かな実践と人々の意思によって、経験されるうちに呪いか奇跡のようにその効力を発揮するなにかでしょう。
そしてそれは、人々の関心を失って明確な兆候を伴って朽ちていきます。
シェアハウスは普遍性の試練に耐えうるかどうか、その経験は社会にまだ経験されていないのではないでしょうか。

ですからシェアハウスは、必ずしも社会がめざすべきあたらしい共同体の在り方ではないかもしれません。ですが、多様性のある個人個人の集合に揉まれることで、自分の特性を理解しやすくなるという場としては、最良の実験場といえるかもしれません。

共同体、集団、コミュニティ、疑似家族、呼び方はなんでもいいです。
孤独を楽しみ分かり合えないからこそ繋がる、そしてそこから何かが生まれる、その一つのツールとしてシェアハウスがあるように思います。

ま、イベントなども開催しますし、まずは一度シェアハウスに来て見てください。
待ってま〜す。

(はて、これはすヽめになっているのでしょうか…。)


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