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12/25 トークイベント 内田望美×林美月

はじめに


以下の文章は11月17日から2月3日までルンパルンパにて開催中の林美月の個展「ambivalent」の会期中12月25日に行われた内田望美とのトークイベントレポートである。

(撮影 キャラメル)

・置き換えの必要性
内田:今回林さんの作品を拝見して
制作の動機とか根源になってる力とかはすごいプライベートで人との関わりとかそれが形になった時にちゃんとこっちも介入できる余白があるなって私は思って。そこが個人的には羨ましいなって。
林:内田さんの作品を観た時うまく置き換えられてるなあって…、人形を使ったりとかポップな感じに色彩も蛍光みたいな色を使っていて直接的な表現もないから。コンセプト文とか読んだら意味がすぐわかるっていう感じですよね。
わかりやすく置き換えが丁寧な事をしているなと思っていたので褒めてもらうとすごく嬉しいですね。置き換えかたがそれぞれ違うので。

置き換えとかそれに気をつけるようにしてるのは昔、メンヘラ展に出展したことがあって。その展示に出ていろんな人の見た時に直接的な言葉を使っていたのが印象に残って。絵画に殴り書きみたいな感じで精神的なものを写していて、それはそれでわかりやすくて良かったけどそこでしかなくて開かれないなって。
そういう気持ちがわかる人だけで止まってしまってある程度グロテスクなものって見る人を選んで、不快になってしまうっていうのがあって。
だから、ある程度ポップにしたりとか抽象的にしたりアイコン的にしないと開くこともしてみたいなと。だから、その時に開きたいと思ってそれで気をつけるようにはしています。
内田:開くときの開きかたみたいなものが、難しいというか…。
私の場合ポップにしたりとか見た目すごい可愛くしてとっつきやすくするとか
ある程度個人をそれこそ抽象化したりはしてるんだけど、開こうと思って開いた時にこれでいいのかなって。
もっと閉じる事で逆に開くみたいなのがありえるよなあって最近思ったりしていて。それに、開くって完全に鑑賞者のことを考えているから
それでやっていった時に、人に見てもらうために作ってるのか?って。
そこで実際に自分がなぜ制作してるか立ち返った時にそことずれるというか
人に見せたいと思って作ってる面もあるけど根本的な制作の動機って違うところにあるよなあって。
林さんはその辺の苦しみとかは?
林:結構ありますよ。
自分の作品を見てて気分がいいものではあまりなくて色使いとかタッチが凶暴なので、もっとわかりやすくポップにしたほうがいいのかなあと思いながらどうしても出てしまって。
最近、実験的に演劇みたいなのやったんですけど完全にそのまま言いたいことが出てしまうからダメでしたね。考えていることが出てしまう。大学で絶(ゼツ)が使えないといけないなって言われて。それが鑑賞者に対してできることなのかぁと。
内田:それ主におじさんが言わない?
林:まあ言われますね笑
なんだろ触れてるカルチャーだったり作品が絶を使ってる人が多いんですかね。
内田:作品の距離とかすごい言ってくる。
作品作ってる時は鑑賞者のこと考えないとダメだよとか責任を負わないといけないと思うけど、そんな冷たく突き放せなくない?と思ったりして。
どうなんだろうね、我を通して面白くなる可能性だって絶対ある
開いていこう開いていこうってやることによってすごいつまらないことになることもあるよねとか。
林:インディーズで勢いあるバンドがメジャーになってこんなに綺麗になるのかあって。
あの現象と一緒であれも歌詞とかもっとわかりやすくして、とかもっとわかりやすいサビを、とかにしたらなっていくのかと。
ゴールデンボンバーとか見てたら恋愛のこと歌ってるけど、ポップな時はポップに出してでも自分の表現したいことはやるって2つ分かれている印象がある。そういうことができてる人いるなって。
でもそれは音楽だからなのかなとか作品だったら難しいとか。
内田:だからこの先どうするのかなって気になって聞いてみたいなと思って。

・開く作品/閉じる作品
林:私は作品では開かないかもしれないですね。
作品以外のシェアハウスの活動だったりとかそういうことをどんどん開いていきたくて…作品はどんどん閉じていくのでは、と。
浅田彰さんが「最近の展示はコンセプト文だったり作品がわかりやすすぎる、わからないからいいんだ」と言っていて、わからないものをわかるために勉強して勉強してわかるってなった時が感動するのであってそのために勉強したりとかいろんなものを見なきゃいけないのに最近はパッと見たらわかってしまうから面白くないみたいなことも言っていて。
私も脳に負荷がかかる鑑賞みたいなものってしづらくなっていると思っていて美術館もギャラリーもどんどんわかりやすくなっていくし作品とか美大の合評とかもわかりやすくなっている。
それに逆行するようにわからないものを作っていく人たちがどんどん現れてもいいんじゃないかなって。
それがかつ女性だったらすごく怖いんじゃないかなって女性がわけわからないことをしてたら怖いじゃないですか。
占い師とかってそういう恐怖もあるんじゃないかなあって思ったりしてて。
内田さんのはわかりやすいのに怖さもあるからいいバランスだなあって。
内田:謎だけどね、自分では。
わからないものこそいいってなって言ったら鑑賞者をどこに設定しているんだってことになってくるのに抗いたい。その辺の答えは出てないけど。
林:作っていくうちに他がとやかく言ってくることですもんね。
自分ではそんなに意識できないところにいるだろうから男性の人からして私たちはどう見えてるのかなっていうのも思う。
内田:嫌な気持ちになったらいいのにって思う。
林:え、そうなんですか笑
内田:修了制作を21世紀美術館で展示してあそこはキャッキャした女子も来るからその子たちが「マジわかる」って写真撮ってるのがすごく最高だったんだけど男の人たちは怖いとか言ってて、でも見世物的になるのも嫌。
林:怖いってわからないで突き放してますもんね。(作品鑑賞において)
内田:一年前の夏くらいにやった個展のタイトルを「私たちはただ、さびしいだけなのかもしれない。」ってタイトルでやった時に、おじさんたちは俺寂しくねえしって突っかかってきたの。
林:どんな感じで?
内田:すごいボコボコに言われてやっぱり恋愛とかを割とテーマにしてやってるからってなった時にどうでもいいって恋愛とかさぁ…みたいなことを言ってくるのがなんか…。
寂しいってギャップがすごかった。
普段生活の中で会うおじさんたちはみんな寂しい人たちに見えて
おじさんも寂しいんだろうなって思ってたのに、寂しくないと言われてなんなんだろうなって思っている。
林:恋愛ってちょっと若く見られると思うんですよね。
昨日もちょうどクリスマスの夜でテレビで恋愛の曲が流れててすごく若く見えた。いろんな年齢層の方が歌っていても若く見えて。
ドラマとか見ても人気だったりするのは20代が多いような不倫だったりはまた違う描き方だけど。
そういう作品を作った時に年齢層はこうでしょうって予測されてしまうし、それだけで読み取られたくないっていうのはあるかもしれませんね。
内田:偉そうに言ってくるおじさんたちも結婚してたりするんだよね。
恋愛したことあるはずなのに、なんでそんな風なんだろうかって思ったんだけど今回この展示観た時に、ちょっと若き日の自分を振り返ってしまったっていうか…ここまでのパワーはもうないなって思っちゃって。
(林さんが)人との関わりみたいなのが重要なのかなって、っていう中で割と人との境界みたいなものが薄い子だなって。
だからその、それでも凄い、いろんなとこ行っていろんな人と会ってることができるっていうのがすごいなっていうか。疲れちゃったというか人と会って、私も人との境界線を考えていたから。他人は所詮他人みたいな近づけば近づくほどそれがあからさまになっていくというかそういう事実を受け入れなきゃみたいな。だけどそれでも人と関わろうとかもっと深くとかできてたけど今そのパワーないんじゃないかとか思ったりして。
だから、ステートメント読んだ時も、それで挫けたりしないのかなって思ったというか。


(個展の様子)

・人との境界
内田:人との境界についてどう考えているの?
林:本当に人との境界は薄くて。人との関わりを作品のテーマにも入っていて
自分自身の体験というより人の体験を描いていて人が悲しんだり怒ったりしてることに対して共感して作品にしてる部分があって。個人の怒りじゃなくて力が出るっていうのがあって個人のことだったら怒りって持続しない。
許したほうがいいって納得させたりするんで人は自分で。
それが集団だったり自分とは違う人の方が持続する。
その人たちが何が幸せかわからないけど、もしなった時にどうなるのかわからない、鎮火するのかどうか。
鑑賞者とは別の他者のために作品を作っていて、境界線が薄くなればなるほど人に会えば会うほどそれはどんどんガソリンみたいに入っていく感覚がある、
いろんな人に会えば会うほど社会の問題が見える。
自分は本を読んでいても顔が見えないから共感しにくくて…。
自分の同じ年の近い子がお金がないとか言われるとちょっとご飯をあげるみたいなレベルのことがどんどん肥大化していって絵画上でめちゃ怒ってる人みたいになっている。最初は自分のためにしていたことが他の人にしたくなる。
パワーはどうなんでしょうね、実際どうなのかなあとなってみないと。
内田:自分個人のどうしようもない感情とかはどうしてるの。
林:耐えますよ〜。
内田:作品とかには?
林:無意識には出ているかなと。
母性に対して興味があるのも母性の支配欲が自分に近いのではとかが出発点で自分は部分的に過剰増幅してるだけなんだなと安心している。
でもこれは作品に昇華しているつもりはなくて、個人のことは…。
内田さんはどうなりました?
内田:完全に自己救済でやってるから発表するっていうのがギャップがすごく出ちゃうかな。
林:大学の先輩が話してたんですけど、先生に君の絵こうだねって言われるから言われた通りにすることをしていたけどこの人たちに見られたいじゃなくて自分がしたいからしてたんだって気づいて。
先生が言ってるのはトップダンサーがうまいダンスで、自分がやってたのは部屋の中で立ち鏡があって好きな曲が流れてるから踊るみたいな感覚で作品を作ってたのに…ってなったって言ってて。
その人がやってることは自己救済のための制作。
内田:制作行為自体が自己救済だったものが発表していってギャップがすごく苦しくなったから発表することで自己救済になる方法を探ってるっていうのもある。
人の恋話聞きに行って集めて作品にしてっていうのをやっていく中で
作品でこじらせた20代のどうしようもない話を大体2番目の話を聞きにいくから、境遇は近いから気持ちもめっちゃわかるって、でも自分のこと出したらそれはそれで苦しくなるし彼女たちも恋話して作品に出すって私だけじゃないって複数系になった「わたくし」ってものが消化されないかなって。
林:イメージ的には元気玉みたいな…。それで何を倒そうとしてるのかなって。
内田:おじさんだよ!
結局2番目の女とか不倫してる人とかおじさんに虐げられてるから
作品発表した時に偉そうに言ってくるの大体おじさん。
林:すごい。ちゃんと届いてる。
内田:私が届いてるおじさんとはちょっと違う。
林:おじさんのでかい概念にエイってやってるもんですもんね。
内田:もっとギャフンと言わせたい。
林:仲間が必要…悟空も仲間とかを作って敵を倒したり敵だった人がこっちに来たり、おじさんを仲間にするっていうのがやっぱり…?
内田:どうなんだろ、おじさん結局倒したいってやってるけど自分も話を聞いてる2番目の女たちもおじさんを切り離せないところがあって結局めっちゃ好きなんじゃんってところがあって…。
林:好き切り離せないと倒したいっていう二つがあってめっちゃアンビバレントっすね…。

・制作の使命感
林:社会とか日本で生きていくことの難しさを感じてるんですけどかと言って海外に出たり政治家になったりはできなくて。制作で悩むなら嫌だったら辞めればいいじゃん作品を先生のことを気にするなら辞めればいいじゃんって言えるけど、それでもやめないのは自己救済以外の使命感があるんですかね。
内田:ここは割と実生活でのことが作品に繋がってるからそこだよね。
だから、わかんないけど自分のためには頑張れないけど人のためなら頑張れるっていうのが使命感に通じてるのかなって思うけど。
林:社会派の作品作ってる人たちも自分のことだけならあんだけ頑張って作れないだろうなあ。楽しいからやれるけど誰かがいてやれるところがあるだろうなって。
自分たちより誰かのためにやるってことがあるんですかね。
内田:そこでさ、誰かのために制作しますみたいになった時におこがましくない?ってなる。そこだよね。
林:救済って言葉を使った時に上からやんけって批判としておきやすいですよね。
内田:この間、西野カナが炎上してたけどさ人の何らかのエピソードを集めて自分の作品として作り上げるのがどうなのって叩かれてたじゃない。その辺どうなの。
林:今、大学の先輩と同居してるんですけど(坪本)、その人がニュースを見た時にアーティストって歌詞とかって神聖なもので何もリサーチしなくてもわかってるって思いたいんじゃないのって。
西野カナは悩みとかは聞かなくてもそんな聞いてるなんて最低!ってなってるんじゃないのって言っててそういう見解なのかあと思いました。
その人は最近アートのためのリサーチ、リサーチのためのアートについてこれなんやって言っていて。
美大生が調べたことなんて小さいことで、社会学的な観点とかでもないし
確実な正確なデータは他の大学でもできると思ってて論文になったり研究者になったりすると思うんですけど、それを何でアートでやるのかとかあなたの周りだけで聞いたリサーチって何なのって問いを投げてましたね。
その人はアートっていうのは神聖なものだからリサーチをしないものだって考えてる人が多いことで批判されてるんじゃないかって考えていた。
私は内田さんと同じように上からだから批判してるんじゃないかなって思ってます。批判した人たちはどういう気持ちでしたのかな。
内田:本当にわからない。
林:いくらでも批判できそうですよね 何でも。
内田:それが音楽だからってことになっちゃうのかな。
西野カナが売れてなかったら叩かれてなかったのかな。お金をもらっているから。あれだけ人の話聞いてエピソード集めて、恋愛相談とかきいて得たものを歌詞にして曲にして出した時に会いたくて震えるとか世間的にバカじゃないのって反応があるじゃん。でも一方で一定数共感を得ている。
羨ましいと思うけど場所とか人を選んだらすごい共感されるみたいなのあるじゃん。
林:西野カナ、加藤ミリヤとかもそのファッションのその層と同じで共感できるのもあらゆる場所で起こっていることだと思っていてその場所でしかウケない
通ってきた文脈が一緒だから?外れて入ってきた人もいるだろうけど音楽だと入りやすいのかな。
内田:音楽だと割と包み込みやすいけど美術ってなった時にとたんに狭くなるのは何でだろうなって。
林:音楽は口ずさめるし、カラオケで歌えるけど美術の作品の共有はしづらいのかな 広まりやすさみたいな。
そうなったら作品をわかりやすくするのが広まりやすさ?
内田:発表の仕方考えたほうがいいなって。
林:私も展示の仕方考えていて
美大生とかアーティストがお金を出して発表するのが理解できにくくて
作品見てもらうためにそうするのがうーんって。そこで出してもいろんな層に来てもらえるのかなとか。
外でライブするとかの方が…ショッピングモールとかで歌った方がいいのかなとか。そういえば内田さんの作品がショッピングモールにあれば最高じゃないですか。
内田:その絵面見たいのはあるけど。
林:私、生まれが鹿児島で、その人たちが展示に来たらどうなるのかなって。
内田:そこで展示したいってならないの?
林:うー、期待できなくて。大きいところに彫刻とかならいいかなって
どんだけコンセプトとか考えていても関係ないっていう絶望は欲しいですけどね。美大にいると誰かに何か言われることに慣れすぎているし。
内田:鑑賞者に何を求めてるんだろう。理解されるためにやってるわけじゃないけど、理解されないと悔しいし。
林:そうですね、そこのバランスがやっぱり、ね。


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