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連載小説『ヒゲとナプキン』 #13

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「乙武洋匡の七転び八起き」
https://note.mu/h_ototake/m/m9d2115c70116

【全文無料公開】

 すすり泣くサトカを後にして、イツキは家を飛び出した。玄関先にかけてあったコートを羽織ってはきたが、深夜二時を回った夜の街は思った以上に冷えきっていた。両手をコートのポケットに突っ込む。吐く息は白い。

 犬の遠吠えが聞こえる。すれ違う人はいない。漆黒に飲み込まれた街に、街灯が等間隔にスポットライトをつくる。イツキは、その光を避けるようにして道の端を歩いた。

 しばらく歩くうち、ポケットの中の指先が冷えてきたのを感じる。両手を口元にあてがい、はあっと息を吹きかけた。その指を、もう一度ポケットにしまう。ふと去年のクリスマスにサトカからもらった手袋のことを思い出した。手袋をしたままスマホの画面に触れられる、とても便利な代物だった。まもなく本格的な冬が訪れる。あの手袋にぬくもりを感じることは、もうできないのかもしれない。

 けたたましいクラクションで我に返った。どうやら赤信号に気づかずに大通りを渡ろうとしていたようだ。急ぎ足で道路を渡りきる。クラクションの主に向かって頭を下げたが、シルバーのワゴン車はなんの愛想もなく深夜の街を駆け抜けていった。

 たった数時間前には上機嫌で鼻歌を口ずさんでいた路地を、いまは全身を絶望に支配されながら歩いている。イツキは夜空を見上げた。三日月に雲がかかって、霞んで見える。

「縦の糸はあなた〜 横の糸は私〜」

 口から出るのは同じメロディなのに、さっきとはまるで別の曲に聞こえる。

「織りなす布は〜」

 そこまで歌いかけて、イツキは立ち止まった。

「横と横じゃあ、布なんて織れないんだよ……」

 吐き捨てるようにつぶやいた。

 ガラス張りの建物の前を通り過ぎる。だが、イツキは一旦立ち止まると、二、三歩戻って、そのガラスが映し出す景色をまじまじと覗き込んだ。サトカの姿が見えた気がしたのだ。だが、どれだけ見つめても、そこに映るのは背中を丸めた冴えないヒゲのサラリーマン、ただ一人。

「なんだ、気のせいか……」

 再び歩き出そうとしたが、やはりガラスにサトカの姿が映っている気がして、また立ち戻った。

 ほら、やっぱりサトカじゃないか。眩しいほどの笑顔でこちらに向かって手を振っている。イツキが急いで手を振り返す。なぜだろう。不思議と目が合わない。どんどんサトカの視線が自分から外れていく。見知らぬ男がフレームインしてきた。サトカの笑顔が憎らしいほどに弾ける。その男は親しげにサトカを抱き寄せると、右の頬にキスをした。

「やめろーっ」

 イツキはその男の顔面めがけて、思いきり拳を放り込んだ。

「うー、痛ってぇ……」

 無機質なガラス板の前でしゃがみ込み、痛めた右の拳を左手で包み込んだ。

「へへ、へっへへへ」

 なぜだか笑いがこみ上げてきた。面白いことなど、何ひとつないのに。

「へへへ、へへへへへ」

 漏れてくるのは笑い声なのに、頬にはとめどなく涙が伝ってくる。

「ちくしょーっ……ちくしょーっ……」

 開いた口に、鼻水が流れ込んでくる。イツキはその場にうずくまったまま、痛めたはずの拳で、今度はアスファルトを殴りつけた。

「ううう、うううっ」

 暗闇の中で、うっすらと血が滲む右の拳をじっと見つめた。もっと肉体に痛みを与えたほうが、いまは心が軽くなるような気もした。

 再び歩き出したイツキは、いつのまにか、駅前まで出てきていた。当然、電車はない。改札口近くにタクシーが二台停まっているのが見える。このままジンの店まで行こうかとも思ったが、手術に向けて入院したという連絡を受け取ったばかりだったことを思い出した。たとえ営業していたとしても、すでに男性へと戸籍を変える権利を手にした親友に、今夜起こった悲劇を話すのはあまりに惨めだった。

 イツキが一台目に停まっていた緑色のタクシーに近づいて軽くドアを叩くと、シートを深く倒して仮眠していた運転手が勢いよく身を起こした。後部座席に身を滑らせたイツキは、「どちらまで?」という運転手の問いにしばらく考え込んだ。

「青木ヶ原樹海まで」

「えっ……」

 バックミラー越しに後部座席を窺う運転手と目が合った。口から飛び出した言葉に自分でも驚いて、イツキは発進する直前のタクシーから慌てて飛び降りた。

「ちょっとお客さん、からかわないでくださいよ」

 かすかに聞こえる運転手の声を背中に、イツキはひと気のない商店街に向かって走り出した。

 駆けた。ただ駆けた。何に追われているわけでもないのに、心臓が張り裂けるほど夜の街を駆け抜けた。しばらくして、息が切れた。両膝に手をついて、呼吸を整える。ふと顔を上げると、以前に生理用ナプキンを買いにきたコンビニがそこにあった。

 店の入口には、「クリスマスケーキ予約受付中」の文字が大きく躍っている。サトカと二人でサンタクロースが乗ったケーキをつついた一年前の光景が浮かんだ。

「はあ、はあ。はあ、はあ」

 イツキは乱れた息のまま、何の罪もないコンビニを睨みつけた。


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※今回、トップ画を作成してくださったのは、第8回に引き続き、オッカー久米川さんです。久米川さん、ありがとうございました! 

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