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連載小説『ヒゲとナプキン』 #34

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 黒いロングコートに身を包んだサトカが、鳥居の向こうから手を振りながら歩いてきた。イツキは境内に設置された長椅子に座ったまま、軽く手を上げた。冬晴れの空は絵の具で塗ったように青く、吐く息の白さとのコントラストは新年の清々しさを感じさせた。

「ごめんね、お待たせ」

「あれ、荷物は?」

「ああ、いったん家に置いてきた」

「なんだ、言ってくれれば手伝ったのに」

 湯河原にある実家から帰ってきたサトカと待ち合わせたのは、二人が住むマンションから徒歩数分の距離にある小さな神社だった。

 正月に二人でこの神社を訪れるのも、恒例になりつつあった。明治神宮のような、いわゆる有名どころで初詣しなくていいのかと尋ねるイツキに、「ご近所の神様のほうがご利益ありそうな気がするから」と答えたサトカ。それから数える、三度目の正月だった。

 二人は石段を上って、賽銭を投げ込んだ。イツキが頑丈そうな麻縄を手に取って揺らし、鈴を鳴らす。深く頭を下げ、二回、手を叩いた。この二年は「いつまでもサトカと過ごせますように」と祈ってきたイツキだったが、今年はどんな祈りを捧げるべきか逡巡していた。両親の顔が浮かんだ。自分を生んでくれた両親のことも想った。そして、まだ見ぬわが子のことも——。

「家族が幸せになりますように」

 そう祈ると、もう一度、深く礼をしてから石段を降りた。

「ちょっと、座ろっか」

 イツキは、ついさっきまで腰掛けていた長椅子に向かって歩き出した。サトカがその後に続く。二人はそこに腰を下ろすと、静かに境内を眺めた。

 三ヶ日が過ぎたとあって、初詣に訪れる参拝客の姿もまばらだった。犬の散歩に訪れた初老の男性と目が合った。軽く頭を下げると、会釈を返してくれた。鳥のさえずりが、耳に心地よかった。

 サトカは、イツキの言葉を待っていた。八年間も関係を絶っていた父との間でどんな会話が交わされたのか。しかし、電話で「直接会ったときに話したいんだ」と言われていた手前、自分から切り出すことはしたくなかった。

「血がつながってないんだって」

「えっ……」

 あまりに衝撃的な言葉で切り出されたイツキの話に、サトカは息をのみながらも黙って耳を傾けた。深夜の和解に至るまで、最後まで話を聞き終えると、ひと言、「そうなんだね」とだけつぶやいた。

「そうなんだ……って、驚かないのか?」

「ううん、驚いてるよ」

「そっか」

 しばらく宙を見つめていたサトカが、ぽつりとつぶやいた。

「よかったんじゃないかな……」

「え、何が?」

「イツキはさ、血のつながっているお父さんに、愛されてないと思ってたんだよね」

「ああ……」

「でもさ、実際には血のつながっていないお父さんに、愛されてた……」

「ああ……うん」

「よかったんじゃないかな……」

 イツキは突然立ち上がった。境内の隅に設置された自動販売機まで歩く間、サトカが口にした言葉を必死に頭の中で反芻した。この二日間、自分では拾い集めることに苦戦していた感情の粒子を、サトカは編集者らしく、瞬時にひとつなぎにして言語化してみせたことに、素直に舌を巻いた。イツキが缶コーヒーと緑茶を買って戻ると、サトカは「うーん……」と迷った挙句、コーヒーを手に取った。

 二人はしばらく手元の飲み物で暖を取った。「そろそろ帰ろうか」とは、どちらも言い出さなかった。新年を祝う太い注連縄で飾られた鳥居を見つめながら、二人はきっと同じことを考えていた。

 先に切り出したのは、イツキだった。

「なあ、サトカ……」

「ん?」

 イツキは澄みきった空を見上げた。

「子ども、つくろう」

「えっ……」

 サトカは大きく目を見開いた。イツキは空を見上げたまま、右手の指先であごひげを撫でている。低い位置にある冬の太陽がイツキを向こう側から照らしだし、細身のシルエットを浮かび上がらせていた。

「無理……してない?」

「ああ。家族に、なりたいんだ……」

「うん」

 サトカは缶コーヒーを握りしめると、うつむいたまま目をしばたたかせた。それが法律上は何の意味もなさないプロポーズだったとしても、胸の奥からこみ上げる感情には、これまでの人生では味わったことのない成分が含まれていた。

「ただ、計画は変更かな……」

「え?」

「親父じゃなく、精子バンクにお願いしようかなと思ってる」

 サトカは顔を上げたが、逆光でいまひとつイツキの横顔からはその表情を読み取ることができなかった。

「どうして……だって、せっかくお父さんと和解できたのに」

「こだわりを捨てられた気がするんだ」

「こだわり?」

「やっぱり血がつながっていないと、わが子として愛せないんじゃないかと思ってた……。だけど、関係ないのかなって。親父だって、血がつながってない俺をこうして愛して、育ててくれたわけだし」

「うん……」

「まあ、俺自身がこだわりを捨てられたというより、まわりの人がじわじわと溶かしてくれた感じかな」

 イツキはそう口にしながら、“ゴッドファーザー”の中に沈む氷の塊が、少しずつ溶け出していく様子を思い浮かべていた。

「血のつながりなんて関係ない。俺たち、きっと家族になれるよな。絶対になれる。絶対に……」

 力強く言葉を発していたはずのイツキの声が、次第に震えていく。サトカがふと顔を上げると、イツキの頬にひとすじの涙が伝っていた。

「うん、だいじょうぶ。絶対になれるから」

 サトカが、そっと手を差し出した。イツキがその手を握りしめると、コーヒーに温められた以上のぬくもりが伝わってきた。

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