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【義足プロジェクト #2】 記録映像『頑張れヒロくん』が映し出すもの。

この記事は、今月14日(日)に「FRaU×現代ビジネス」にも掲載されます。

 私が一歳半になった一九七七年の秋ごろ、東京都補装具研究所ではきわめて重要な会議が行われていた。

 長机がロの字型に置かれ、黒板の前の席には研究所所長で日本のリハビリテーション医学の第一人者、加倉井周一先生が足を組んで座っている。紺のジャケットに赤いネクタイが映える。そのとなりには、白い丸襟のニットを着た母の姿。ふたりの左右には、医師や理学療法士、義手や義足を手がける技術者たちが向かいあうように着席していた。総勢八名。ピーンと張りつめた緊張感が漂っている。

 机の上には、幼児用の小さい義手や義足が並べられ、出席者たちが補装具の使用や今後の訓練方法について語り合っていた。真剣にメモをとる人もいれば、腕を組んで考え込む人もいる。母は真剣な顔つきで議論に耳を傾け、ときどき頷く仕草を見せていた。「小児切断プロジェクト」の全体会議だった。

 開所以来、初めての四肢欠損児である私の研究に、東京都補装具研究所は「小児切断プロジェクト」という名称を与え、プロジェクトチームを立ち上げた。数々のオリジナル補装具、自助具を製作し、それにともなう訓練方法を考案し、指導してくれることとなった。

 だが、生まれたばかりの私に無理やり義手や義足を使わせては、これから獲得していくであろう運動機能を損ねてしまう可能性もある。だからこそ、定期的に私の身体の状態を確認する必要があったし、各分野のプロフェッショナルが慎重に協議を重ねていく必要があったのだ。

 そろそろこのあたりで、私がなぜこれほどまでに生まれてすぐの時期のことを詳細に書くことができるのか、その理由を説明しなくてはならない。母に取材をしたのはもちろんだが、四十年以上前の光景を服装まで覚えているはずもない。

 当時の映像が残っているのだ。

 その映像には『頑張れヒロくん―四肢欠損児3歳10ヶ月の記録―』というタイトルがつけられていた。「企画・製作 東京都補装具研究所小児切断プロジェクト」というクレジット表記があり、研究所で開発された補装具を用いての練習や日常の生活風景までが克明に記録されている。撮影は私が小学校三年生になるまで続けられ、全三巻、のべ八十三分十六秒にまとめられていた。二巻には幼稚園での様子が、三巻には小学校での様子が収録されている。

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