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連載小説『ヒゲとナプキン』 #30

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 夕方六時を過ぎたばかりだったが、あたりはずいぶん暗くなっていた。等間隔に並ぶ街灯が、道幅の狭いアスファルトを照らす。身を切るような冷たい風に吹かれながら歩くうち、イツキはふたたび実家の前にたどり着いた。もう一度「ただいま」を口にする気まずさを、インターフォン越しに聞こえる母のあたたかな「おかえり」が包み込んでくれた。

 リビングに行くと、すでにダイニングテーブルにはおせち料理のお重が並べられていた。

「いまお雑煮あっためてるから」

 台所ではエプロンをしたフミエが立ち働いていた。シゲルは椅子にもたれかかって、テレビのニュース番組を眺めている。箱根駅伝の往路優勝は、またしても青山学院大学のようだった。

「たいしたもんだな、青学は」

「ん、ああ……」

 何事もなかったかのように迎えてくれた二人がつくりだす空気は、まるでTシャツを生乾きのまま着るような心地の悪さがあったが、それが彼らなりの優しさであることは十分に伝わってきた。

「さ、できたわよー。ほら、イツキも座って」

 フミエがお盆の上に乗せた三つの椀を運んでくると、シゲルはリモコンを手に取ってテレビを消した。イツキはついさっきまで座っていた椅子に、もう一度、腰を掛けた。

「ごめんね、昨日から食べちゃってるから、いろいろ虫食いだけど」

 二十歳で家を出てからというもの、これだけ立派なおせち料理などお目にかかる機会がなかった。去年もサトカと黒豆や栗金団など、「らしい」料理を買ってきて、食卓に並べただけで正月気分を味わった。

「いや、十分だよ。いただきます」

 イツキは簡単に両手を合わせると、湯気が立ち上っている雑煮から箸をつけた。鶏肉に椎茸、大根に人参、そして三つ葉。柚子の香りが心地いい。

「やっぱり母さんのつくる雑煮は美味しいね……」

「あら、なに。そんな褒めてくれたって、お年玉なんてあげないからね」

 イツキはどのタイミングでこの気色悪い生乾きのTシャツを脱いでやろうかとタイミングを伺っていたが、ひさしぶりに味わう一家団欒とやらに、もう少しだけ身を置いていたいという感情が芽生え始めていることにも気がついていた。

 おせち料理はあまりに品数が豊富で、どれから箸を伸ばせばいいのか目移りした。

 そんなイツキの目の前で、シゲルは好物の黒豆に手をつけた。「マメに働けるように」との願いが込められた縁起物は、家族のためにと勤勉に働き続ける父のイメージにぴったりだった。フミエは、干瓢を帯に巻いた昆布巻きに箸を伸ばした。「こぶ」は「よろこぶ」に通じる縁起物。振り返れば、運動会の徒競走で一等賞になったときも、小学生時代に習っていた書道で昇級したときも、母はいつも自分のことのようによろこんでくれていた。

 迷った挙句、イツキは伊達巻に箸を伸ばした。

「イツキ、ほら見てみろ。伊達巻って中が巻物みたいにグルグルしてるだろ。だからな、これを食べたら、うんと賢くなれるんだぞ」

 幼少期に父から言われた言葉が、ふと蘇った。栗金団は金運を願い、田作りは五穀豊穣、煮蛤は二枚の貝がピタリと合わさることから夫婦円満を願う縁起物——。

 すべて、父から教わったことだった。おせち料理だけではない。シゲルは蘊蓄を語るのが大好きで、いつも子どもたちに「これはな」と得意げに説明を始めるのだった。姉のコズエは、「また始まった」とすぐどこかに逃げてしまったが、イツキにとっては父の語る蘊蓄に耳を傾ける時間がそれほど苦にならなかった。

 そうだった。イツキの蘊蓄好きは、父譲りだったのだ。

 イツキはかつて父に教わった通りの縁起を担いで、数の子に手を伸ばした。

「あのさ……好きな人がいるんだ」

 箸でつまんだ数の子を見つめたまま、イツキは低い声でつぶやいた。

「家族になりたいと思ってる」

 思わぬ告白に、シゲルは思わず顔を上げた。

「そうなのか……よかった。それはよかった。おめでとう」

 父はかすれ気味の声で、しかし祝福を伝えてくれた。そのとなりで母もうれしそうに微笑んでいる。

「こんな自分を、男性として、パートナーとして大切にしてくれてる。二人にも、近いうち会ってもらいたいと思ってる」

 二人は、無言でうなずいた。イツキは表情を硬くしたまま続けた。

「ただ……まあ……家族になるといっても、戸籍上は女性同士になるから、結婚することはできない。だから、二人で子どもをつくろうって話してる」

 父は、黙って聞いてくれていた。母は、眉間にしわを寄せている。難しい話を聞くとき、母は昔から決まってこの顔をした。

「でもさ、子どもをつくると言っても、これも肉体的には女性同士になるから、二人の子なんてできないんだ。だから、結局は彼女が産むことになる。だけど……それって……複雑じゃん。それ、俺の子だって言えるのかなって」

 はじめて両親の前で「俺」と言ってしまったことに少しだけ心が痛んだが、父も母もとくに表情を変えることなく、イツキの話に耳を傾けてくれていた。

「心から自分の子だって安心して育てていくには、血縁の男性から精子提供してもらわないといけないんだ。でも、俺には男兄弟なんていないし、血縁関係のある男となると——」

 両親はイツキが進めていく話に途中からすっかり置き去りにされていたことが、母のまるで見当違いな質問によって明らかになった。

「えーっと……それはどなたかの男性に精子をご提供いただいて、それをイツキの卵子と組み合わせるっていうこと?」

「違うよ、母さん。いま一緒に暮らしているパートナーの卵子と、俺の肉親の精子とを受精させるんだ」

「俺の肉親の精子——」

 イツキの言葉を、両親は必死に反芻していた。そして、ようやくその言葉の意味を理解したとき、二人はみるみる表情を変えていった。

「おまえの肉親というのは……」

「うん……八年も音信不通になっていて、いきなりこんなことを頼むのはどうかとも思ってる。ただ、自分にとってはそれくらい切実な問題なんだ。父さんに、力を貸してほしい」

 深々と頭を下げるイツキを、父は怯えるような顔つきで見つめていた。みるみるうちに顔色が青ざめていく。気持ちを落ち着かせようと日本酒が注がれた猪口に伸ばした手は、小刻みに震えている。そのカーディガンの袖を、横からフミエが軽く握った。

 シゲルとフミエは、たがいに顔を見合わせた。視線を交わすだけで会話を試みようとしたが、ただ動揺が見て取れるだけで、それぞれの意図を汲み取ることは難しかった。

「イツキ、その話題……いまじゃなきゃダメかしら」

 母は上ずった声で、イツキに祈るような視線を向けた。

「なんで?」

「イツキに……その、パートナーができたというのはお父さんもお母さんも、すごくうれしいよ。ただ、いまの話はちょっと私たちには刺激が強すぎるというか……うん、ちょっと展開が急すぎて、正直、ついていけてないというか……」

 イツキはしばらく考え込んだ後、決意を込めたような口調でこう言った。

「俺は八年間、ずっと父さんに拒まれてきたと思ってた。でも、父さんはそうじゃない、扉は開いていたと言ってくれた。それさ、本当なの? 本当に扉が開いてるなら届いたよね、俺の想い。父さんの答えを、聞かせてほしい」

 ずっと頬の内側を噛んで考え込んでいたシゲルは、ついに覚悟を決めたようにうなずいた。しかし、フミエは必死に首を横に振り、目にいっぱいの涙を溜めている。シゲルが、妻の震える肩を抱きしめた。

「なんだよ、二人して……」

 シゲルはカーディガンの左袖にすがりつくフミエを優しく引き離すと、あらためてイツキに向き合った。

「あのな、イツキ。おまえに伝えなければいけないことがあるんだ」

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