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連載小説『ヒゲとナプキン』 #33

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 ひっそりと静まり返った新宿二丁目の街を、イツキはコートの襟を立てて歩いていた。ほぼすべてのネオンが消えた雑居ビルの階段を上がると、ジンの店だけがドアに正月のしめ飾りを掲げていた。

 多くのLGBT当事者が集う二丁目では、ほとんどの店が大晦日から元旦にかけてカウントダウン営業を行い、そこから正月休みへと突入する。だが、一年のうちで最も「家族」を意識させる正月というイベントは、一部の当事者にとって最も孤独を感じさせる時期でもある。

 両親にカミングアウトしていなければ、実家に帰っても「結婚はまだか」「いい人はいないのか」と不毛な質問攻めに遭う。以前とは容姿が激変したトランスジェンダーは、実家に出入りする姿を見られるだけで近所からくだらない風評を立てられ、結局は両親に迷惑をかけることになってしまう。

 帰りたくても帰れない——。「正月くらい帰ってきて顔を見せてよ」という親からの電話に、「忙しいから無理だよ」と返しつつ、自宅のリビングでひとり過ごす正月はあまりにも長い。

 ジンはそうした人々にこそ居場所を提供したいとの思いから、開店以来、ずっと三が日は休まず営業することにしていた。一度、「ジンだって、たまには正月をゆっくり過ごしたいだろう」と水を向けたことがあるが、栗色の髪を短く刈り込んだ親友は、「常連客がしんどい思いしてんのに、見捨てられねえだろ」と照れくさそうにつぶやいていた。

「あけましておめでとう。悪いな、開店前に」

「今年もよろしくな〜。なんか飲むか?」

「ん、ああ……」

 イツキの返事を聞いたジンは、オーダーも取ることもなく、いつも通りに“ゴッドファーザー”をつくりはじめた。

「いつ帰ってきたの?」

「今日だよ。ていうか、たったいま」

「サトカのとこに帰らなくていいのかよ」

「あいつも正月は実家に帰ってて、明日に戻ってくるんだ」

「そっか……お疲れさん」

 ジンはやけに穏やかな口調で、そっとアーモンド香るロックグラスを差し出した。グラスの中央では、いびつな形の氷がひときわ存在感を放っていた。

「ああ……」

 イツキは受け取ったグラスにしばらく口をつけず、両手で抱えたままじっとグラスの中の氷を見つめている。サーバーからビールを注いだジンは、イツキを横目に唇を泡まみれにして喉を潤していた。

「で、ちゃんと話せたのか?」

「うん、話せたよ」

「そっか、よかったな……八年ぶりか」

 ジンが親友の八年間に想いを馳せるあいだに、イツキはようやく甘く濃厚なカクテルに口をつけた。

「それで……例の話も切り出せたのか?」

「ああ、話した」

「おお……で?」

 カウンターの中から身を乗り出すようにして耳を傾けるジンに、イツキは困ったような笑顔を浮かべながらつぶやいた。

「血が、つながってないそうだ……」

「え、何だよそれ。どういうこと?」

 混乱するジンに、イツキは父から聞いた話を、低い声で、とても落ち着いた口調で、丁寧に伝えた。

 話を聞きながらみるみるうちに顔面蒼白になっていったジンは、心を落ち着かせるため、ひとまず手元にあったビールを口にした。ほろ苦い味わいが、口いっぱいに広がった。

「じゃあ……もう絶望的じゃん」

 思わず口をついて出たジンの言葉に、しかしイツキは意外な反応を示した。

「俺も、最初はそう思った」

「最初は?」

「うん。でも……いまは、むしろ希望が持てるなって」

「どういうこと?」

 今度はイツキが手元のグラスを口に運んで、唇を湿らせた。

「俺と親父は、血がつながってなかった。だけど、親父は……俺のこと愛してくれてた」

「ああ」

「サトカと子どもをつくるには、俺とも血がつながってなきゃと思ってた。それは何て言うか、強迫観念みたいな……」

「うん、気持ちはわかるよ」

「でも……関係ないのかなって。父さんも、母さんも、血のつがらない俺をこんなに愛して、こんなに大切に育ててくれた。だったら……俺にもできるかなって」

 ジンは「ああ」とだけ言うと、突然、下を向いてキッチンの整頓を始めた。そして一度だけ、二の腕の袖の部分で目尻を拭った。

 しばらく黙り込んでいたジンだが、やがて思い出したように口を開いた。

「おまえが仕事で遅くなるとき、たまにサトカが一人で飲みに来るだろ」

「ああ」

「そのときは、ビール飲むんだよ」

「うん」

「おまえといるときはゴッドファーザー飲むけど、一人で来るときはビール飲んでるんだ」

「どういうこと?」

 今度は、イツキが身を乗り出すような格好になった。

「半年くらい前だったかな。俺、聞いたことあるんだ。なんでイツキといるときはカクテルなのに、一人で来るとビールなんだって」

「うん」

「そしたら、あいつ、『ビールが好きだから』って。ゴッドファーザーは、ただのメッセージなんだって」

「メッセージ?」

 ジンの言葉に、イツキは手元にあるグラスに注がれた琥珀色の液体をじっと見つめた。

「おまえ、ゴッドファーザーの映画は観たことあるよな?」

「ああ、もちろん。あのマフィア映画だろ」

「あれをマフィア映画ととらえてるようじゃ、サトカのメッセージには一生気づけないだろうな」

「うるせえな。もったいぶらずに、早く言えよ」

 イツキはからかうようなジンの口調に、口を尖らせた。

「あれはマフィア映画なんかじゃない。愛の物語なんだよ」

「愛の物語?」

「パートIに出てくるドンはさ、血のつながった本当の家族だけじゃなく、自分の仲間たち——いわゆるファミリーにも分け隔てなく愛を注ぐだろ。だから、誰からも愛され、そして死んだときもみんなから悼まれる」

「うん」

「ところが、その跡を継いだ息子のマイケルは、抗争を勝ち抜くために仲間はおろか、家族さえ後回しにしてしまう。その結果、絶大な権力を手にするけど、最後は孤独に死んでいく」

「だから、何が言いたいんだよ」

 イツキは苛立ちを隠せずに、語気を強めた。

「愛なんだよ」

「は?」

「血がつながってるとか、法律上の家族かどうかとか、そんなことは関係ない。とにかく、大事なのは愛情を注ぐこと。それを貫くことができれば、いくらだって“家族”になれる。サトカがおまえに伝えたかったのは、そういうことなんじゃねえのか」

 イツキはもう一度、グラスの中の液体をじっと見つめた。あれだけ大きかった氷の塊が、いまではすっかり溶けて小さくなっている。

「考えすぎだろ、それ……」

 うっすらと笑みを浮かべながら、イツキは鼻をすすった。

「明日、サトカが帰ってきたら、しっかり抱きしめてやれよ」

 ジンは、またしてもからかうような口調でイツキを冷やかした。

「ばーか。おまえに言われなくたって、そうするわ」

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