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連載小説『ヒゲとナプキン』 #28

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 八年ぶりに対峙した父から、藪から棒に「すまなかった」と頭を下げられ、イツキは表情を強張らせた。顔を上げたシゲルの表情はいつになく青ざめていて、細身のフレームの眼鏡は少しずりだけ下がっている。

(何がだよ……)

 イツキは苛立ちを隠せずに、憮然とした表情で腕組みをした。

「私は……無知だったんだ」

 シゲルは目を閉じたまま、かすかに唇を震わせてそう答えた。

 父の言葉を聞きながら、イツキは八年前の記憶を胸の内で再生させていた。このダイニングテーブルだった。この座り位置だった。二十歳の誕生日を迎えたあの日、父に向かって「息子でいさせてほしい」と告白した。だが、父から返ってきたのは非情な言葉だった。

「お父さんは子育てを間違えたみたいだ」

 思い出すだけで、全身の血が逆流していくのを感じた。

 シゲルはうなだれたまま、途切れ途切れに言葉を絞り出した。

「二十年間、娘だと思って育てていたわが子に、じつは息子なんだと言われて。そんなバカな話があるかと、あってたまるかと……驚いてしまったんだな」

 それは姉のコズエからも言われていたことだった。「溺愛していた娘がじつは息子でした」なんて、お父さんに受け止められるはずがない。コズエはそう言って、父へのカミングアウトそのものに反対をしていたのだ。その反対を押し切ってカミングアウトを決めたのは、他ならぬイツキ自身だった。あれだけ愛を注いでくれる父なら、きっと理解してくれるものと信じきっていた。だが、結果はコズエの言うとおりだった。

 シゲルは弱々しい声で、改悛の情をこぼし続けている。

「おまえがこの家を出ていって……遅いんだけれど、初めて事の重大さに気がついたんだ。あの子が言ってたことは、気の迷いなんかじゃないのかもしれないって」

 そう言うと、シゲルは深いため息をつき、そしてふたたび黙り込んだ。

(なんだよ、それ)

 危うく声になるところだったが、寸前で飲み込んだ。

 カミングアウトしたその瞬間から理解してほしいというのは、さすがに酷な要求なのかもしれない。だが、「事の重大さに気がついた」のなら、「気の迷いなんかじゃない」とわかってくれたのなら、なぜこの八年間、ずっと扉を閉ざしたままだったのか。もしも後悔の一片でも見せてくれていたなら、こんなにもあなたを憎まずにいられたのに——。

 しばらく続いた沈黙を破ったのは、母のフミエだった。

「お父さんね、それから本屋さんでどっさり本を買い込んできて。LGBTとかセクシュアルマイノリティとか、そういうタイトルの本ばっかり。それでね、ある日、『母さん、わかったよ。イツキはトランスジェンダーなんだ』って」

 父は視線を落としたまま、黙ってその話を聞いていた。フミエが淹れた紅茶には、もはや誰も手をつけようとしなかった。

 フミエが続けた。

「三年前からね、お父さん、あなたの通ってた中学校で一年に一度、特別授業までやってるのよ。当時のPTA会長さんを通じて、『LGBTについて知ってほしい』とお願いして」

「いいんだよ、母さん。そんなことは……」

 クリニックで世話になっている高野の姿が重なった。彼もまた、みずからの言葉で息子を追い込んでしまったことに対する自責の念に苦しめられていた。そうした呪縛から少しでも解き放たれるためにクリニックを開業し、多くの若者の相談に乗ってきた高野のように、父もまた中学生に向けて啓蒙活動を行なっていることを、イツキはこのとき初めて知った。

(知らねえよ、そんなの……)

 あらためて、父の姿をまじまじと見つめた。白髪が増え、額にシワが目立つようになった。還暦が近づいてきているのだから無理もない。あと二年もすれば、長年勤めた印刷会社も去ることになるのだろう。向かいに座る父が、初めて小さく見えた。

「じゃあさ、なんで……なんでいままでずっと……」

 イツキは最後まで言い切らずに口をつぐんだ。ここで泣いたら、「許した」ことになってしまう気がしたのだ。口を真一文字に結び、睨みつけるような視線を父に送ると、シゲルの瞳が潤んでいることに気がついた。

「弱さだよ……それが、私の弱さ」

 シゲルは眼鏡を外すと、指先でそっと深いシワが刻まれた目尻を拭った。父から「弱さ」という言葉が漏れたことに、イツキは驚いた。

「どれだけおまえを傷つけてしまったか、それが理解できたからこそ、どうやって謝ったらいいのか、どんな顔で会ったらいいのか……正直わからなくなってしまって。そうやって逃げているうちに、どんどん月日が経ってしまった……」

 消え入りそうな夫の言葉を、母のフミエが引き取った。

「コズエの結婚式のときもね、お父さん、ずっと楽しみにしてたのよ。コズエの花嫁姿はもちろん楽しみだけど、やっとイツキに会える日が来たって」

 披露宴でのやりとりを思い返した。軽く会釈したイツキに、父は「おお」とつぶやいた。その後も何か言いたげな素振りを見せていた気もしたが、イツキは凍てつくような眼差しで、父からの言葉を遮断していた。

「お父さん、結局、式の間は何も話せなくって、あなたがそそくさと会場を出て行くもんだから、あわてて追いかけて行ったの。でも、『見失ってしまった』って肩を落として帰ってきたのよね」

 「すまなかった……イツキ、この通りだ。情けない父を、どうか許してほしい」

 ふざけるな。

 理解できたなんて簡単に口にしてくれるな。

 結婚式で会えるのを楽しみにしていたなんて勝手すぎる。

 中学校で啓発活動なんてする前に、もっとやることあるだろう。

 八年間、ずっと振り上げてきた拳。それを下ろすのに必要なのは、懺悔の言葉なんかじゃない。ただひと言、「愛してる」と言ってほしいだけなのだ。

「ちょっと電話してくる」

 イツキは席を立つと、背もたれに掛けておいたコートを羽織ってリビングから出て行った。

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