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あなたの考える「差別」と私の考える「差別」は、きっと違う。

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「乙武洋匡の七転び八起き」
https://note.mu/h_ototake/m/m9d2115c70116

さて、前回からの続き。

「差別はどのようになくしていくべきか」というテーマを提示させていただきました。

たとえばLGBTに関していえば、自民党は「理解を求める」という手法で、野党は「差別を禁止する」という手法で差別をなくそうと考え、それぞれに法案をまとめました。

だが、「差別をなくそう」という議論を始めるには、まずはじめに「差別とは何か」という定義から始めなければなりません。

前回の記事にコメントをくださった方々の感想を読むにつけ、やはり、私が考える「差別」と、みなさんが考える「差別」には大きな隔たりがあることを自覚させられました。

いくつか挙げてみようと思います。

こうしたコメントを見るに、おそらくみなさんは「差別」を「特定の人々のことを好奇の目で見たり、ひいては見下したりすること」と考えていらっしゃるのではないでしょうか。つまり、差別とは「心の問題である」と。

しかし、私は「差別」について、みなさんと異なる定義を持っています。

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