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この国では、台風から命を守ってもらうのに線引きが必要らしい。

台風15号に続き、台風19号。被害に遭われた皆様には、心よりお見舞い申し上げます。また、被災された皆様が一日も早く穏やかな生活に戻ることができるようお祈り申し上げます。

さて、今回の大型台風によって、さまざまな社会課題があぶり出されたわけですが、私が最も気になったのはこのニュースでした。

ホームレスの方が台東区が設置した避難所を訪れたところ、「住所がない」という理由で受け入れを拒否されてしまったという問題です。

これには「命に貴賤はないはず」「人権に制限をつけるのか」など、批判が殺到しましたが、その一方、ネット上では「綺麗事を言うな」「衛生的でない人と同じ場所で寝食を共にすることはできない」など、台東区の対応を擁護するような声も見受けられました。

こうした場合、大きく分けて、2つの考え方があるのだと思います。

A.「どんな人であれ避難できるべきであり、守られるべき命である」
B.「さすがに○○という条件ならば、避難できなくても仕方がない」


Aの考え方は、いわゆる綺麗事に思われます。

「どんな人であれ」と言っている以上、ホームレスの方が悪臭を放っても、赤ん坊が泣きわめいても、それから奇声を発する人がいても、そこから締め出すことはできません。「すべての人を受け入れる」と決めたのですから、そこに集まったあらゆる人々でコミュニティが形成されていきます。

そう考えると、やはりBの考え方のほうが“快適”であるように思えます。

「悪臭を放つ人」や「静寂を保てない人」など、誰かの迷惑になるような人をすべて排除してしまえば、たしかに避難所の環境はとても快適なものになるでしょう。しかし、ここで問題がひとつ生じます。「この人はOK、この人はNG」という線引きを、誰が、どのように決めていくのか。

当然、“民意”によって決定されていくわけですよね。民意といっても全員の意見が一致することはないので、最終的には多数決となっていくでしょう。ここですべての人が「自分にとって快適なのはどちらか」という基準で線を引くようになると、いったい何が起きるのでしょうか。

今回のように、ホームレスの方々はおそらく真っ先に「線の外」とされてしまうのでしょう。泣いてしまう赤ちゃん、騒いでしまう子どもがいる家庭も「迷惑だ」と言われてしまうかもしれません。夜中、いびきがうるさい方はどうでしょう。体臭がキツい方はどうか。その範囲がどんどん広がっていけば、私のような障害者も「他人に迷惑をかけている」と排除されていくのかもしれません。

つまり、「自分の快適な環境を保つために、迷惑な他人は排除していこう」という考えでいると、いつのまにか自分自身が排除される側に立たされているかもしれない、という可能性も大いに考えられると思うのです。

ただ、ここで別の観点を持ち出す方もいらっしゃるかもしれません。

「赤ん坊や子ども、障害者はみずから望んでなったわけではない。しかし、ホームレスは自業自得だ」

ここ数年、日本に蔓延している“自己責任論”です。

「ホームレスになったのは自業自得か」

これは非常に意見の分かれるところだと思います。私にはホームレスの支援活動を行なっている友人がおり、その実情も耳にしていることから、一概に自業自得ではないという考えですが、毎日必死に働いている方々からすれば「彼らがサボってきた結果だろう」と映ってしまうのかもしれません。

だけど、私にはどうしてもそう思えないんですよね。

たとえば、働けども、働けども、低賃金にあえぐ方々がいたとする。彼らに向かって、高所得者が「これまでサボってきた結果だろう」「もっと勉強して学歴を身につけていれば、こんな結果にはならなかったはずだ」といった言葉を浴びせたとしたら、なんだかモヤモヤしませんか。

今年4月に話題となった上野千鶴子氏の東大入学式における祝辞。賛否ありましたけど、私はとても好きでした。

がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

長いので、とても短く要約すると、「東大に入学できたのは本人の頑張りだけでなく、頑張れる環境に恵まれてきたからだと自覚しましょう」というもの。

これは核心をついた指摘だと思いますし、裏返せばホームレスとして生きる方々の中には、「頑張れる環境に恵まれなかった」「もしくは本人は努力したのに正当に評価してもらえなかった」という方も多くいるのではないかと思うのです。

そう考えると、どこまで彼らを「自業自得だ」と斬って捨てることが正当なのか私にはわからないし、誰だって家庭環境や事故や病気、障害を負うことでホームレスとなる可能性はあるのではないかと思うんです。

ずいぶんと長くなりました。

ホームレスを自己責任だというなら、あらゆる困難を抱える人も自己責任だと断罪されてしまうかもしれない。ホームレスを迷惑だというなら、あらゆる人が他者から見れば迷惑な存在に映るかもしれない。そう考えていくと、軽々しく「ここで線引きしよう」などと考えられないように思うんです。

だからこそ、「たがいの迷惑を承知の上で、全員を受け入れていこう」というAの考え方でいくしかないと思うんです。つまり、Aは一見すると綺麗事のように見えるけれど、じつはとても現実的な考え方なのかな、と。

だけどね、正直に言えば、ここまで言葉を尽くさなければいけないことが、悲しくて、そして虚しいですよ。

「ホームレスだろうが誰だろうが、すべての命が守られて当然だよね」

たったこのひと言で話が終わる社会にしていきましょうよ。

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