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二つの逃避行――スピッツの「夜を駆ける」と穂村弘の"警官"短歌

(1)はじめに

 「夜を駆ける」(スピッツ)を初めて聴いてみたら、歌詞が素敵ですぐ好きになってしまった。と同時になんとなく穂村弘の短歌(警官が出てくるようなやつ)を思い出した。なんかどっちも逃避行だな……という印象を持ったのだ。

 この記事では、両者を比較して読んでみたい。まずはそれぞれの作品を読み解いて、最後に比べてみようと思う。

(2)スピッツ「夜を駆ける」の逃避行

 歌詞を読むと、どうやら特別な関係にある二人が市街地で逃避行ごっこをしているようである。解釈は人によって何通りもあると思うが、以下自分なりに読み解いてみる。

○〈追う役〉と〈追われる役〉
 登場人物は作中主体と「君」の二人。逃避行ごっこをしているような情景が描かれる。

研がない強がり 嘘で塗りかためた部屋
抜け出して見上げた夜空
よじれた金網を いつものように飛び越えて
硬い舗道を駆けていく

似てない僕らは 細い糸で繋がっている
よくある赤いやつじゃなく
落ち合った場所は 大きな木も騒めき やんで
二人の呼吸の音だけが浸みていく

君と遊ぶ 誰もいない市街地
目と目が合うたび笑う
夜を駆けていく 今は撃たないで
遠くの灯りの方へ 駆けていく

 逃避行ごっこには〈追う役〉と〈追われる役〉があるはずである。二人は「目と目が合うたび笑う」とあるので、隣を走っているのだろうか。よってここでは二人が〈追う役〉と〈追われる役〉を分担していると考えるよりは、二人とも〈追われる役〉をしていると捉えたい。そうすると〈追う役〉は誰なのか、もしくは〈追う役〉は不在なのかという問題が浮上するが、「今は撃たないで」とあるので空想上であったとしても〈追う役〉は一応いるはずである。おそらく、「市街地」には誰もいないが想像上の〈追う役〉(警察官など?)から逃げているつもりで二人とも走っている。もしくは、市街地で実際に見かけた人やすれ違った人を二人の間だけで勝手に〈追う役〉に認定して逃げ回って遊んでいる。このどちらかだろう。
 どちらにせよ、実際に二人を追ってきて撃とうとしている人間などいないのだが、二人の間ではそういう設定が共有されていて、その設定のもとで遊んでいるということになる。架空の敵を作って逃げることで、二人だけの閉鎖された空間に没入しているのだ。

○二人だけの世界
 「撃たないで」という表現から、〈追われる役〉の自分たちが攻撃・排斥される側であることが推測できる。攻撃・排斥する側ではない。あくまでも自分たちが少数派で孤立していて、追い詰められている。社会的に正統ではなく異端で、多数派や現実社会に認めてもらえないから、二人で逃げている。社会から目を背けて二人だけの世界に没頭しようとする心の状態が巧みに描かれている。

○二人を撃とうとするのは、誰なのか
 「今は撃たないで」。今この瞬間だけは撃たないでくれ、この二人だけの空間を壊さないでくれ、と〈追う役〉に言う行為だ。
 ここで思い出したいのは〈追う役〉=作中主体たちの妄想、だということである。だから「〈追う役〉が二人を撃つ」=「二人の想像上の設定において、〈追う役〉が二人を撃つ」ことになる。二人が架空の設定において〈追う役〉に自分たちを撃たせてしまおうと決心しそれを実行した場合、彼らは撃たれる。そこでこの逃避行は終了だ。反対に、いつまでも〈追う役〉から逃げ続ける想像を能動的に続けさえすれば、撃たれずに逃げおおせているこの瞬間がずっと続く。

 自分たちが撃たれるか逃げ切るかは自分たちの想像しだい、ということだ。彼らを撃とうとしているのは、彼ら自身なのである。

 したがって作中主体たちは、「今この瞬間に現出している二人だけの世界は、二人の想像力で意識的に作り出したものにすぎない」ということを自覚していて、「今の瞬間をずっと続けたいから、自分よ、この設定をやめないでくれ」と自分の心に呼びかけているのだろう。

○滅びの予感――「今は」、撃たないで

でたらめに描いた バラ色の想像図
西に稲妻 光る
夜を駆けていく 今は撃たないで
滅びの定め破って 駆けていく
(スピッツ「夜を駆ける」より)

 作中主体らは架空の敵を設定し、それから逃げることによって二人だけの世界に没頭している。二人しかいない「バラ色」の理想世界である。だが「西に稲妻」が光り、その世界に暗雲が立ち込める予感が既にある。このどうしようもなく楽しい二人だけの瞬間は永遠には続かず、滅びてしまう運命らしい。でも、そうはわかっていても今だけは「滅びの定め」に抗うように、この瞬間をずっと続けさせようとしている。その心情が「今は撃たないで」の「今は」に込められているのだろう。


(3)穂村弘の"警官"短歌の逃避行

① 「あの警官は猿だよバナナ一本でスピード違反を見逃すなんて」
(穂村弘『ドライ ドライ アイス』)
② 警官を首尾よくまいて腸詰にかじりついてる夜の噴水
(穂村弘『シンジケート』)
※番号①、②は稿者による


 ①はカッコが付いているため、誰かに話しかけているセリフとして読むとよいのだろう。そう考えると、この短歌は一人分のセリフしかないのに二人の人物の姿が明瞭に浮かびあがってくる。この二人はバナナ一本の賄賂でスピード違反を見逃す警官(そんなものが存在するのだろうか?)を猿だと揶揄している。逃避行中に警官に呼び止められたが賄賂を渡して開放してもらったあとの場面、みたいな感じだろうか。妙にテンションが高い。深夜テンションみたいである。

 山田航は①と②の歌について次のように指摘している。

……「警察官」は自分(と恋人)だけの世界に干渉しようとする邪魔者の象徴として扱われているように思える。もちろんそのような「邪魔者」は間抜けに押し退けられ、二人だけの世界をさらに強める引き立て役になることすらある。(穂村弘・山田航『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』、新潮社、2012年)より)

 自分(と恋人)だけの世界を邪魔する存在としての「警官」。だがその存在によって二人の世界は強化される。スピッツ「夜を駆ける」の作中主体と「君」が架空の敵を作って逃避行し二人の世界に没入していたのと似たような構図だ。
 では、二つの作品に何か違いはあるだろうか。

(4)両者の違い

 違いがあるとすれば「不安への抗い方」という点ではないか。誰にも邪魔されない二人だけの世界が崩れてしまうことへの不安にどう抗っているか? という点だ。穂村弘の"警官"短歌は「戯画化→虚勢」により、スピッツ「夜を駆ける」では「意識的に一瞬一瞬を感じ取ること」により、それぞれ不安に抗っているように見える。


○仮想敵の戯画化→虚勢を張る作中主体

 穂村弘の①の短歌の作中主体たちは、仮想敵を戯画化して笑うという虚勢の張り方で、不安に抗っている。

穂村の描く自己像は「世界からの逃避者」という部分が色濃くある。逃避していくうちに現実と夢想の隙間が曖昧になっていき、追う警官ですらもアメリカ映画のキャラクターのような平面的な造形になってゆく。「バナナ一本でスピード違反を見逃す警官」は究極のカリカチュアライズされた「追跡者」像である。(同上)

 山田航が指摘しているように、①の短歌では「警官」の間抜けさ、邪魔者といったイメージが誇張され戯画化されている。自分たちだけの世界に浸りたがっている二人が、自分たち以外の登場人物を邪魔者としてキャラクター化する。こうすることにより、二人は邪魔者を笑い飛ばして(嘲笑して?)自分たちの正当性を確認し、連帯を強めることができるのだろう。本当は自分たちが逃げる側で弱いはずなのだが、不安をかき消すように強がっているのだ。

 仮想敵を設定するだけでなく、仮想敵を戯画化して笑い、虚勢を張る。そうやってこの短歌の作中主体は、二人だけの世界が崩れることへの不安に抵抗している。


○意識的に一瞬一瞬を知覚しようとする作中主体

 ではスピッツ「夜を駆ける」の二人は強がっているのだろうか。実は歌い始めの歌詞に「強がり」という言葉が入ってはいる。

研がない強がり 嘘で塗りかためた部屋
抜け出して見上げた夜空
よじれた金網を いつものように飛び越えて
硬い舗道を駆けていく

 「研がない強がり」とある。これはどういうことか難しいけれど、刃物を研いでよく切れるようにする……みたいな用例から考えるに、「強がり」があまり研磨されていなくて切れ味が鋭くないということだろうか。前述の穂村短歌ほどには仮想敵をキレイに戯画化しておらず、ハッキリと敵を笑って強がることも別にしていない、そんな状態なのかもしれない。

 その状態から歌は始まり、二人は「嘘で塗りかためた部屋」から夜の舗道へと抜け出して走り出す。

 では、部屋を抜け出した二人の「強がり」はどう変化するのだろうか。「研がない強がり」が展開されていた部屋から抜け出したから、今度は「強がり」が研磨されるのだろうか。もしかしたらそう推測してもいいかもしれないが、この問いに答えようとして正直よくわからない。「強がり」という言葉が冒頭以降もう出てこないのだ。前述の"警官"短歌のような、仮想敵を戯画化するなどの要素も特にない。

 作中主体たちが外の世界に出てからのストーリーでは「強がり」がどうこうという内容ではなく、むしろ彼らの感覚が鋭敏になっている様子に重きがおかれているように思う。

落ち合った場所は 大きな木も騒めき やんで
二人の呼吸の音だけが浸みていく(「夜を駆ける」より)
転がった背中 冷たいコンクリートの感じ
甘くて苦いベロの先 もう一度(同上)


 今この一瞬が続くかどうかは自分たちの妄想活動しだいだと彼らは自覚していて、かつこの一瞬が続かないような予感がある。だからこそ、一瞬一瞬の感覚が切ないほどにはっきりと迫ってくるのだろうし、同時に「今しかないからはっきりと感じよう、心に焼き付けよう」と意識的に知覚しているのかもしれない。「甘くて苦いベロの先」と繊細に味覚をとらえたあとそれを「もう一度」能動的に感じようとしていることからも、意識的にはっきり感じ取ろうとしている感がある。

 つまり彼らは「強がり」によって二人の世界が崩壊する不安に抗っているというよりは、自分自身の心の動きに意識を集中させ、一瞬一瞬を切に感じ取ろうとすることにより、不安に抗っているのではないだろうか。

(5)おわりに

二人の世界を邪魔しようとする登場人物を徹底的に戯画化し、笑うことにより連帯を強める……この「強がり」によって、二人の世界が永続しないことへの不安を消し飛ばそうとする、穂村弘の”警官”短歌。一方で「強がり」は鋭くないが、一瞬一瞬を焼き付けるために感覚を意識的に研ぎ澄ませている、スピッツの「夜を駆ける」。

これらの作品に惹かれたのは、いまこの瞬間の関係性、感情、感覚、そして瞬間そのものが永続しないことをなんとなく知っていて、でもそれはどうしようもないことで、それでもこれらの作品がそのどうしようもなさに向き合ってくれているからじゃないかな、と思う。



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