小説作家志望の徒然なるままに。ちょっとラノベ的創作論part1       一人称主人公の限界

さてさて、今回はちょっと最近壁を感じる一人称主人公の限界を書き綴ってみたいと思います。特にラノベ、一般文芸もわりとあるかも。

小説のスタイルってのは限られていて、一人称視点、三人称視点の基本どちらかですよね。主人公目線で感情の起伏や叙述がたっぷりなのが一人称。三人称が神の目線というやつですね。構造上どうしても一人称で書いたほうが感情移入しやすく、主人公の理論なんかを伝えやすいです。三人称は複数の人物を比較的客観的描くことができる文体です。ここまでが前知識。

一人称って結構限界があるんですよねー。やっぱり。思考や感情をダイレクトに叙述するから、雄弁になるんですよ。それでいていろんな情景を書き足さないといけないから視点も広い。結局、ハルヒのキョンだったり、なろうでよくあるヤレヤレ系男子、草食系な観察考察系に傾向が固まってしまう。
その点森見登美彦先生や成田良悟先生の一人称はかなり斬新といえます。
でも漫画みたいに思考回路がどこかイッてる人物を中心に据えて描くのは非常に難しい。チェーンソーマンなんかも主人公目線で世界観を描いてますが、アレの感覚を小説で再現するのはたぶん不可能でしょう。

っていうこともあって、ラノベでは特に似たような人物ばっかりになるんだなーって最近気づきました。三人称ラブコメなんてどんな感じなのかなーと思ってラノベをちょっと漁ってみると、『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』一応三人称ですね。どうやっているか少し読んでみると、ひたすら独り言を言っている(笑)
声に出す「」だけでなく()でメチャクチャしゃべってる。読者的には()だろうが「」だろうが、口語的に書かれるとそれはもう喋っているのと同じで、なにコイツひたすら独り言いってんの? となってしまう。
批判してるわけじゃなくて、読者はそう見えるという構造上の限界。それを文学的に面白く叙述するとなると表現の上手い超饒舌雄弁な頭でっかち野郎(ハルヒのキョンみたいな)に辿り着いてしまう。

これはもう、ちょっとどうしようもない。なんとかできるのが作家の腕なんだろうなとは思う。藤本タツキ先生の『チェーンソーマン』なんか抜群にそこが上手い。学力のない主人公の言動にイカレた一貫性があって、なおかつ物語が破綻しない。漫画にしか描けない書き方だと思う。文芸で言うと芥川賞受賞の『コンビニ人間』とかかな。参考になるようなならないような。一人称視点はキャラ造形と思考回路の表現にこそ試行錯誤と苦労が必要なんだなという感想で一人称は一区切り。

さてここで三人称の出番だ!三人称というのは完全に映画監督みたいなもので場面の描写や感情の起伏を単調にならないように上手いこと表現に落とし込まなければならないのだが、そうすると会話がやっぱり一線引いた視点なので淡白になる。油断してるとただし書きの台本みたいになる。実際そんな本も多いんだけど、ラノベ界隈は文章的面白さが評価に直結しないからよくわからないよね。ともかく三人称は叙述のセンスが問われる作家性の現れどころ。これに尽きるんだろうな。

さて、最後に三人称と一人称の合わせ技。これが個人的には結構微妙なところで、三人称の叙述を一人称で語る人物の思考と混雑してしまうんだなーこれが。作者と一人称の思考が被ってたりすると、特に混ざってしまう。()で囲ってぺらぺら話すとイキってウザいキャラになりやすい。
(ヤレヤレ、ほんとうに、小説ってどうしてこう、難しいんだろうな。ま、そこが面白さでもあるんだが)
どうだろう、ウザい鼻につく性格に感じたのではないだろうか(笑)

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