ウルトラトレイルとZen

「走ることは、心と身体に何をもたらすのか?」
「何を求めて私たちは走るのか?」

 まさに禅問答のようなお題を抱えたまま、鎌倉・建長寺で開催されたマインドフルネス国際フォーラム『Zen2.0』のイベントに参加してきたのは2017年の9月のことだ。

 そもそも、この難しいテーマを与えられたのは、雑誌「RUN + TRAIL Vol.27」の編集長からだった。『Zen2.0』は2日間にわたり30余りの講演や体験セッションがあり、小脇に抱えたお題を満たしてくれる直接的なプログラムは残念ながらなかったが、禅の深遠なる世界に浸りながら、たまたま(であろう)このnoteにたどり着いた人になんらかの“気づき”を期待して、その時の寄稿文をここで加筆・修正して再現してみる。 


ーマインドフルネスとは?
 中心テーマは『マインドフルネス』。ここしばらく耳にする人もいるだろう。今ここ!に意識を集中させることで自分を客観視し、様々な「気づき(アウェアネス)」をもたらす手法として欧米を中心に取り入れられてきた「心のストレッチ」のようなものと、ここではしておく。

 人は1日に6万回も思考すると言われ、そのほとんどが同じことを繰り返す「無意識の思考」と言われている。その無意識の思考を一旦断ち切る方法として、そして、その状態を作り出す最も効果的な方法が「瞑想」と言われている。

 元々は宗教で扱っていた東洋的な実践的な方法を、宗教性を排除して、その有効性だけを抽出し、科学的なアプローチでその効果を実証したことで人種・宗教を超えて世界に広まった。日本には近年、逆輸入されてきた。


ートレイルランニングと禅
「瞑想」と聞くといぶかしく思う人もいることだろう。しかし、マインドフルネスは雑念を含めた思考をシャットアウトする心の状態を差し、瞑想だけがその術ではない。身体で「今」を感じる集中した”いる”モードを作り出す、そう、走る行為はまさにマインドフルネスだ。

 出羽三山で山伏修行の先達を務める星野文紘氏は言う。
「日常生活において、頭で考える”する”モードに覆われている我々は、大自然の中に身を置くことで”いる”モードを感じ取ることができる」と。

 歩くという行為は「歩行禅」と呼ばれ、弓道は「立禅」と呼ばれる。書道であっても“今”に集中し、広義の意味として草むしりや窓拭きでも、一心不乱に集中した状態を作り出せる。共通しているのは、必ず身体性を伴っていることだ。

 大自然の中に身を置き、身体と五感で感じ取るトレイルランニングと禅の親和性は高い。


ートレイルランニングと共感性
 尺八奏者の工藤煉山氏の音色が本堂に響き渡った。彼は「尺八の音色は、共感性や共鳴という他者とのコミュニケーションを前提としている」と静かに語った。「音を奏でる演奏者は存在を消すんです」とも。

 かつてのウルトラトレイルの女王クリッシー・モールは雷鳴轟く土砂降りのトレイルで(彼女曰く、最悪な状況下で)「私、今ココ!ココにいる!」と内側から沸き起こった衝動の虜になった。

 圧倒的な大自然の中であるからこそ、自分の存在を確認したランナーはいることだろう。そして、たった一人で前に進むことしかできないはずの私たちの心に、走ることで得られる静謐な時間がもたらす他者との共感性が芽生えていることも。


ートレイルランニングと人工知能
 ITジャーナリスト湯川鶴章氏が「人工知能は意志を持つのか?」と問いかけた。秀逸だったのは、小難しいIT用語を使わずに。

 膨大なデータの超高速処理、自ら学習するディープラーニング。つまるところ、人工知能は過去の蓄積データを元に、狂気なまでに合理的な視点で未来予測をする。そこで私の中で問いが一つ生まれた。

 人工知能はウルトラトレイルを走るのか?

 もしくは、自分のトレーニングデータ、健康管理のログ、数値化されたギア情報に、距離や累積標高、制限時間や過去のリザルトなどできる限りのデータを入力した場合、ウルトラトレイルにGOサインを出すだろうか?

「なぜ身体を酷使する必要があるのか!」
「脚を痛めるだけだ!」
「内臓を疲弊させて何を得られるのか!」
「経済性からしても損益しかない!」
「リスクが高すぎる!」

 AIが起業家を選択しないように(by 湯川氏)、冷酷な合理性はNOと弾き出すかもしれない。でも、私たちは挑むだろう。リスク承知で、いや、だから一歩を踏み出そうとするのかもしれない。人類はそうして進化してきたじゃないか。

 1300年の歴史で2人目という偉業を成した千日回峰行者・塩沼亮潤大阿闍梨は言う。

「痛い、辛い、きつい、そういう思いをしないと、気づかないものがある。山の気づきと里の気づきとリンクして、人間的に大きくなっていくのです」リンク


ー心はコントロールできるのか?
 近年、最新の科学とテクノロジーによっていくつもの風説は覆され、未開の領域は切り開かれてきた。心の在りどころとされる脳も。

 脳の指令は絶対だ。こうしてタイプしている私の指先も、容赦のない編集長の削り技も、(きっと)読んで頂けているあなたのその行為も絶対君主たる脳が司っている。

 ハーバード大の教授は言う。脳は有酸素運動によって鍛えることが出来ると。死んだ脳細胞が復活することはないが、周囲のシナプスが発達・補完し合うことで脳はスパークし続けるのだと。

名著「BORN TO RUN 走るために生まれた  ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族”」の如く、わざわざ持久狩猟の時代までさかのぼるまでもなく、身体を使い、他者と共感し合い、過去の憂いや未来の不安を捨て、今という瞬間への集中を重ねることのみがウルトラトレイルの唯一の推進力だ。


ー走ることの意味
 ウルトラトレイルはクリエイティブなのだろうか? 人類が獲得している“意志”はさらなる創造性を生むのだろうか? 私たちはなぜ、走るのか? 

 心身共に非日常に存在を置くと、改めて自分がよく見えてくる。さらに負荷強度を高めていくと、どうしてか、他者に対して寛容になれる。

 別に何かを求めて走るのではない。客観性と慈愛の獲得のためでもない。眼前にそびえる大きな山を前にして“今ココ”にある小さな一歩を繰り返した結果、心の中に‘愛’があったと気がつくだけだ。

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