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日記hibi/ 2018/12/10〜12/14

12月10日(月)
朝、普段よりも早めに事務所に行くとすでに車が待っており、「あのー、2階の、本の……」と声を掛けると、「あ、どうも。いやいや、いいですよ。10時以降の指定だったんですけど早く着いちゃって。どうも」と朗らかに応じてくださったドライバーさんとともに、新刊が搬入された。それをエレベーターで二人で運んでいるとあっというまに終わり、すぐさま結束された本のタワーが積み上がった。いつもHABは階段で4階まで運ぶので、とても楽すぎて拍子抜けした。それで積み上がったタワーをひと山崩し、中を開け、本をあらためる。見る。表紙、背表紙、小口。開く。扉、目次、本文、奥付。ぱらぱらとする。見る。離す。遠目から見る。確度を替える。また見る。よろこび。この圧倒的なよろこび。この本はぼくはまったく編集に関わっていないので、こういう本がこんな感じででます、という情報しかなかったのだけれど、それでもやはり、新しい本がはいってくることには、大きな喜びがある。おそらく、この事務所への搬入が最初の到着であることが想像されたため、いくつか、本の状況がわかる写真を取って関係者みなさまへシェアした。そうして、よし、と気持ちを切り替えて、そそくさと封筒や文房具を引き寄せて、仕様のチェックや関係各所への見本提供、発送の準備へ取り掛かることにした。編集と違って、ひとまず本ができたあとはとにかく地味に、勤勉に情報を流通させ、本を箱詰めして、請求書を発行して納品、という作業の繰り返しになるし、できて最初というのはもっともそうで、刊行イベントが決まっていたり、発売日の設定が複雑だったりするとてきめん、今日はここに数冊、明日はここへ、で、発売日がこの日で、という、スケジュールに基づいて淡々と作業していくことになり、今回もそうで、準備していたスケジュールの通りに本を仕分けていった。勤勉さを発揮する。ただただ、真面目に、順序よく作業をこなしていく。
事務所に来る前の電車の中で、シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』を読み始めた。どうにも、最近は労働者の記憶、記録を読みたい気持ちが高まっていて、『あるノルウェー大工の日記』も、毎月収録している本屋ラジオの課題本として僕が選出したものだったのだけれど、最初は『工場日記』が読みたくて、それでしかし、これをみんなで読んで読書会にしてラジオ収録するのはちょっとハードルが高いかもしれない? と、ぼくも未読であったのにずいぶん勝手に、ぼくひとりの中でそのように思われ、それで大工の日記にしていたので、それが読み終わったので、今度は工場、工場日記だと、息巻いていた。それで……

午前の終り、ロベールの重いプレスで、金属棒から座金をつくる。
午後ーープレス。〇.五六パーセントの割で、部品を置くのだけでもたいへんむつかしい。(二時半から五時一五分までに六〇〇個。機械の修理に三〇分。わたしが、部品を一つ、機械の中へ落としてしまったので、調子がくるったのだ)。疲れて、胸がむかむかする。
 二四時間、自由な存在であった(日曜日)のに、また奴隷的な条件に屈従しなくてはならないという感じ。少しでも、のろのろしたり、仕損じたりしたら、怒鳴りつけられることはわかりきっているので、むりをして緊張し、へとへとに疲れなければならない。それもみな、このわずか五六サンチームのためだと思うと、いやになる。……しかも、自分は両親の食客になっていると思うと、いっそう嫌悪感がつのるーー奴隷の感情。ーー
『工場日記』(シモーヌ・ヴェイユ、筑摩書房) P.33
ひどい疲れのために、わたしがなぜこうして工場の中に身をおいているのかという本当の理由をつい忘れてしまうことがある。こういう生活がもたらすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、ほとんどうちかつことができないようになった。それは、もはや考えることをしないという誘惑である。それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ。ただ土曜日の午後と日曜日にだけ、わたしにも思い出や、思考の断片がもどってくる。このわたしもまた、考える存在であったことを思い出す。わたしは、自分がどんなにか外的な事情に左右される者であるかを見てとると、ほんとうにぞっとする。そういう事情のためにある日、週一回の休みも与えられない仕事に従事しなければならない境遇につきおとされれば、それでもうおしまいなのだーーそしてこのことは、とにかくいつでも起こりうることなのであるーーそうしたら、わたしは、おとなしい、じっと苦痛をこらえる(少なくとも、自分ひとりのためなら)、牛馬同然の人間になりさがってしまうであろう。ただ、あたたかい友愛の心と、ほかの人に対して加えられる不正への怒りだけは、そのまま手をつけられずに残って行くであろうーーだが、そういう感情も、果たしてこの先どこまで持ちこたえることができるであろうか。
『工場日記』(シモーヌ・ヴェイユ、筑摩書房) P.58

とてもいい、これはいいものを読んでいる。いま出会えてよかった、と思ったのだった。それがあって、いま僕はこうして淡々と、新刊の発売のための作業をこなしている。機械的ではあり、なにも考えずにどんどんすすめる要素もある、だが喜びもある。この違いはなんなのか、主体性だろうか、意思?

と、電話がかかってきて、とると「あの、先日ご案内いただいた本の取引のことで」と書店さんからのものであった。先日ご案内した本というのは『ニューQ』のことで、それはいつもの通り八木書店経由で取次流通をお願いしているものだったので、「基本買切ですが、了解の確認を頂ければほぼ了承しています」といつもどおり答えた。事前の発注前に返品について確認されるのは珍しく、丁寧な担当者さんだなと思い電話をきった。しばらくするとまた電話があり、とると「あの、先日ご案内いただいた本の取引のことで」と、また別の書店さんからの返品確認の電話であった。こんな事が起こりえるだろうか、と思ったが起こり得ており、なんでかなー、と考えて見るに、ジャンルが「人文・哲学」だからではないか? という結論を得た。人文・哲学ジャンルの出版社は八木書店やJRCを使っているところが多いし、返品についてフリーで大丈夫、というところは少なくて、不用意に仕入れると返品できない、みたいなことは多発しそう、というところが想定された。想定されたので、まぁいいかなと思ったのだったが、普段のぼくの店の仕入れにおいては、返品のしやすさみたいなものはほとんど考慮されないので、やっぱみんな返品前提で確認するんだなー、と。返品できますってライトに書いた方が注文集まるんだろうなー、と。でも、なんか、積んでみて結局ダメだったんで返しますはわかるので全然返品受けるけれども、返品ってものに、一定のハードルというか、作業量、みたいなものが付加されていないと、大変でなるべくしたくないししないつもりでやっていきたいな、みたいな気持ちがある人と商売をしたいな、という思いが強くて、それで返品了解は都度もらう、という姿勢を変えきれない。というか、変えたくないのでいまこうしている。受注が落ちたりするんだろうか、というか、落ちているんだろうけれども、なんかそこは踏ん張りたかったりするのだった。
そんなことを考えたせいなのか、夜に、買ってからしばらく置いてしまった『出版流通史』をもってきて、読み始めた。江戸とか、明治とかの出版の話をしている。まだまだ、昭和までは遠いようであった。

12月11日(火)
今日も「あの、先日ご案内いただいた本の取引のことで」という電話がかかってきたので、「基本買切ですが、了解の確認を頂ければほぼ了承しています」と答えた。本当に多い。いままで同じように案内を送って、受注ももらっていたお店であったので、本当にこれは、担当者のスタイルというか、経験によるものなのであろうなぁと思う。もちろん、わざわざ確認してまで仕入れを検討してもらえることは、たいへんありがたいことではあった。

引き続き『工場日記』。えんえんと作業内容と時間が記録されていく。たまにフォントが違う部分でヴェイユの感想が挟まるところがあり、だいたいそこで高まる。しかし、当時のフランの金額感がぜんぜんわからず、実際にどのくらいのお給料で働いているのかが想像つかない。いまのレートをGoogleで調べてみたところ、1フラン=130円と出たが、実際のイメージはもっと違うのだろう。というかそうなるとヴェイユの記録だと時給が400円とかになる。が、しかし、それはそれで正しいのかもしれない。物価とかはどうなっているのだろうか。わからない。彼女が労働内容と給与を記録室受けた文章を、そのままなぞるように読んでいる。

チラシを作る。チラシまつりはすでに4週間目に突入していた。これで最後、なのではないかと思う。昨日搬入した本の刊行直前用のもので、イベント情報や取材情報などをまとめて記載する。
日が落ちて、作業に集中できるようになったあたりで、通帳とにらめっこしながら、入金のチェックをしている。あの請求書が、この入金で、これは? これはこっちで、それが漏れている? 漏れているから催促しないと? みたいなことをやっている。Amazonのマーケットプレイスで、HAB取扱本を出品しているのだけれど、けっこうそこからの注文が多く、入金もある。が、新刊だし送料も考えるとそんなに儲かっていない。お客さんも送料を多めに払っていて、その双方の「多め」はAmazonに手数料として徴収されていた。システムを使わせてもらっている以上、手数料はお渡しするのが筋だとは思いつつ、不毛だなー、と思っていて、それで、どうか、どういう感じがみんなハッピーに買い物できるだろうか、と思っていて、なんだか、これは? これはいいんじゃない? という案が思い浮かび、それやったらどういう感じになるのか、というのをエクセルで数字を入力して検証した。ぼくは儲からないけれども、システムとしてはみんなそこそこ、すくなくともいまよりかはハッピーになれそうな予感があった。ありかもしれないなぁ、とおもって、だとしたら、だれに、どうしてもらうのが良いか、と楽しくなって考えていた。ぼくは儲からない、ということはあまり考慮されていないが、ないよりはマシ、くらいにはなりそうだった。

12月12日(水)
懸案だった雑誌の入稿がなされた。とはいえ、この段階ではなにをどうするというところではなく、すでに出来る範囲でできるところまでやったあとであったので、入稿しました、という報告を受けて、入稿されたなと思ったくらいで、あっけなくそれは終わった。

夜から新刊の刊行記念イベントが予定されていたためその準備を、お釣りとか袋とかPOPとかそういったたぐいのものを準備して、どのくらい売れるのか、わかんないよね、でも売り損じ怖いからなるべくもっていこうねといった相談が行われ、80冊ほど2人で担いで銀座の会場に赴くことになった。フリー入場のイベントであったため、実際にどのくらいの人が来て、そしてどのくらい本が売れるのかまったく読めなかったが、会場と内容的に、出入りがありつつ100名くらいは流動するのではないか、今日が初売りなので購入率は通常のイベントよりもよっぽど高いのではないか、50%で見て50冊ほどか、だとして多少余裕はもっておきたいので2人で持って行けるだけ行こうか、80冊。みたいな結論の産物で、どうか、頼むぜ、どうなのか、と祈りながら店番をしていたら結果50冊近い販売数となった。おー想定通りよかったね、よかったと思ったが、じゃあなんで80冊もってきたみたいな話で、60冊くらいでよかったと、自分の貧乏臭さを反省したが、どのイベントでも、どの出店でも、こわいからたくさん本を持ち出してしまう癖があるので、なんだかしょうがないのかもしれない。本が売れてよかったのには変わりないので、よかった。

12月13日(木)
今日も返品の確認電話がくる。すごい割合で、世の中の書店の人文書売り場では、新規版元の返品条件は確認してから発注すること、というのが徹底されている様が想定できた。できたし、仕組み上それは正しい行為のようにも思えた。前もって知っていたほうが何かと便利ではある。あるが、なかなか、うーん、返品。したくもないし、されたくもないよな、とは思っている。

その『ニューQ』の搬入日であったため、早めに事務所を出て、HABまで戻ってきた。届いた荷物を今度は階段で、4階まで運ぶ。そこそこの大変さがあり、そうそう、搬入ってこういう感じですよ、となにか、勝手知ったる感じが戻ってきた。が、もちろんエレベーターがあったほうがいい。八木書店などには必要数を直接納品してくださることになっていたので、HABに届く数はそこまで多くはなく、数百部単位は楽だなぁと思っていた。楽なわけはなかった。発売日と発送開始日は少し先だったため、出来る範囲の荷造りをして、先週末までだった展示の撤収作業を終えるとひとまず店の作業は落ち着いたので、家に帰り事務作業に明け暮れた。イベント販売以外の書店への初回受注、これは『ニューQ 』ではなく、ほかの新刊の方だけれど、締め切り時間以降に取りまとめて送り、それからは入金のチェックを引き続き行っていた。

昨日思いついたハッピーなアイデアは「やろう」ということに、ぼくの中ではなったので、お願いしたい方への依頼メールを書きたかったが、それは成し遂げられず眠ってしまった。

12月14日(金)
朝メールを見ると、それはAmazonからのもので、マーケットプレイスに出店していた本が売れたので発送しなさいよ、というものだった。とくに珍しくはなく、たんたんと作業しようとしたところ、その本は伽鹿舎の本で、その注文場所は福岡の六本松であった。伽鹿舎は九州限定で本を売っている出版社で、重版すると全国解禁する、という仕組みで本を売っていて、つまり、ということは、買えよ! 福岡市内で。なんなら六本松の蔦屋書店で! ということだった。これは、今回始めてのパターンで、なんというか本当に、これは、意思への冒涜だよなぁというか、や、具体的にだれが冒涜している、ということではないのだけれども、買う方はその仕組みや九州で本を売ってやるぞ、という出版元の意思を知らずに購入しようとしているわけで、だとして、近隣の本屋になぜ行かなかったのだろうか、この本は既に1年前から全国解禁していて、つまり九州ではかなり、2年以上前から陳列してあるはずで、それは見つけられなかったか、最初から本屋を信頼していないから行かないかで、だとすれば、本屋の価値的なものが低くなってしまっているというか、もちろんすべての本をすべて目につくように陳列するのは不可能であるので、だから良くないということでもまったくないのだけれども、なにか釈然としないものもあり、そして、だとして、この方は、ただ、いつものようにwebのAmazonというシステムを使って、マケプレで送料がかかるけれども、まぁ、どこかに探しに行くよりかは便利だし、届くし、それでだから、楽だからと、ぽちっと買われたわけで、それがAmazonの価値だし、ぜんぜん、超便利で良い世の中になったとぼくも思うけれども、なんだか、なんか、全体の無関心というか、ちょっと気を使えばいいものを、誰から何を買っているかを考えれば防げたかもしれないそれ、が無関心によりすれ違った結果、起きているものであった。あるいは、Amazonに貢献するのがいちばん本の未来に貢献できると思って積極的にAmazonで購入している方かもしれないわけで、それを否定する権利もぼくにはなく、いや、本当に? それ本当にそれで大丈夫? もちろん、ぼくが、もうお客さんからも出版社からもAmazonで欠品なく売るのってどうすればいいの? みたいな問い合わせをたくさん受けるし、実際にAmazonでないと買えない環境にいる人もいるのだから、聞かれたらほかの、個人でちゃんと扱ってくれるお店のwebショップを紹介するけれども、それでは、わざわざ「聞く」というところに至らない多くの方にも、なるべく買ってほしいなぁと思った結果、Amazonのマケプレに“ぼくが”商品登録しているわけで、いま本を包んで発送しようとしているぼくも、何がしかの無安心、冒涜に貢献しているのは間違いなかった。こんなことはもうやめたかった。何も考えずに作業していれば楽でいられた。ヴェイユは、そのほうが楽であることを認識しながら、なるべくそうならないように努めた。そうするべきときが来ている気がした。

夜は再び刊行記念イベントがあり、いつもたのしくお付き合いさせていただいている、リーディンライティンブックストアが会場であったため、今度は30冊ほど手持ちで、陳列して、それからは、慣れたお店でもあったので、普通に受付とレジ会計の手伝いをカウンターの中でしていた。中盤から終わりがけにかけて、会う人会う人に、「あ、版元の方なんですね。お店のお手伝いの方かと思っていました!」と言われたし、言われて当然というような立ち位置で働いていた。もちろんそう言われることは嫌ではなかったし、ただあいさつをして横からイベントを見ているよりかはよっぽど楽しく過ごした。なるべく、そういう、仲介の少ない形で、直接に近い形で本が売れることに、楽しさがあった。

12月15日(土)
土曜日。既に店の営業は終えられ、ぼくは双子のライオン堂で開催される「野球本読書会」に向かっていた。課題本は『スローカーブをもう一球』。

店を開けてからは、来店、知り合いやお話される方の来店が多い日で、このへんで物件を探していて、デザイン事務所兼、本屋、雑貨屋というような場所を開きたいんですよ、というかたに周辺の地理情報をご案内し、新聞で見たんですけど、と取次の方で、過去にぼくが書誌情報登録の確認でお電話したときに電話口にいました、という方が来てくださり、また、印刷所にお勤めの方と久しぶりにお会いし、その方が嬉しそうに「文字」の本を買っていかれた。その本は展示の図録的な意味も果たしていた本で、以前に買われた方も、その展示行けなかったんですよねーととてもうれしそうに買っていかれたことを覚えていたので、その話をした。富山から、東京に来た折にわざわざ寄ってくださった方は、以前ブBOOKDAYとやまに出典した際にリトルプレスをぼくがその場で仕入れた方で、ずっと来たかったと言ってくださり、とても喜び、リトルプレスも最新刊がでているとのことだったので、送っていただくことにした。それで、その喜びの合間に、先日からペンディングしていたご依頼のメールを方々にお送りした。総じて喜びのあふれる店番であった。

そこから間髪入れずに移動した。している、その双子のライオン堂で、野球本の読書会で山際淳司が読まれ、そこは本と野球の話を半々くらいでする楽しい場で、ぼくが自己紹介の際に、松井祐輔です、と言うと、「あー、松井ですか!」とおっしゃるので、すかさず「そう、秀喜とか稼頭央とかね、でも…」といいかけると、「佑介がね、いいですよね!」みたいなお返事と反応を頂き、これはなかなか珍しいケースで、秀喜、稼頭央の話から佑介にもっていくのが定番だったぼくは一瞬言葉につまり、つまりながらもそのまま「そうなんですよね。あの、大商大堺のころに知ったんですけど、や、東農大に入ったときはもうプロはないかなとも思ったんですけどね。なんか、ほんと、好きな中日に入ってくれて、それで、決して大活躍とかしてないんですけど、10年近くもプロでやってくれるなんて、もうね、嬉しくてね」というようなことを早口で話し、さりとてその話は全員に「さもありなん」という雰囲気で共有されたため、ひどく浮かれていたのだった。

読書会のあとに、先日入稿した雑誌の色校が出ていたため、デザイナーの方もいらっしゃってみんなで確認し、共有したのち一段落した。その落ち着いた雰囲気の中で、ちょっと時間あるから話題の「文喫」に行こうか、ということになり、三人で連れ立って六本木に行くことにした。赤坂のライオン堂からは15分くらいの道のりで、ABCの場所だから、たしかー、このへんー、と歩いていくとそこにはシンプルな「文喫」のロゴがあった。

入って、ここってこんなに広かったっけ? とまず思う。天井が高いし、入り口からストレートに階段まで続く通路幅がなんだかとても広い。本がないからだろうし、本がないからなのだけれど、それがまた多色ではないというか、背表紙の多様さとは真逆の白がドーンと迫ってくる感じがあって、一瞬たじろいだ。たじろいだが、展示するにはいい感じであろうなとも思う。左手にあった雑誌ラックは、ぱかぱかあけると楽しい、ということがTwitterで知られていたため、ぱかぱかあける。たのしい。たのしいなこれ。たのしい。オープンしてすぐの、さりとて、初日ではない、というタイミングで、一番棚が荒れたり在庫の補充が間に合わなかったりという時期であって、ぱかぱかした中はだいたいガラガラだった。ある一定の場所ではみっしり詰まっているものもあり、人気度がなんとなく伺えたが、それは考えすぎというかたまたまだろうと思う。雑誌の特集にも合わせて中の本を選んでいるということも知られていたため、あらためて大変だろうなと思ったが、しかしやるのだろうな毎月、とも思っており、そこにそれなりに信頼があるのは、選書を担当している方のうちお一人を見知っていたからで、その方ならやるんだろうなという方だったからで、そう思っていたら、中からその方がいらっしゃったので、驚いた、が、まぁいるだろう店なのだし。それでなんとお話を伺いながら中を案内していただけるとのことで、もろもろ見て回ることになった。中に入って、あー、いい、これいい、となって、なったというのも、そこに本屋があったからで、なんか、なんと言っていいかわからないのだけれども、本屋か本棚か、はなんとなくわかる部分があって、ここは本屋だなと思った。分類で仕分けられた棚に関連付けて本が入れられており、面と指しのバランスが購入を誘っていた。それで左上から右下まで本をみて楽しむ、というモードになってしまい、キッチンとかスペースの説明は本に視線をやりながら聞いていたが、うん、ごはんあるのはいいな過ごせるなー、と思ったし、ちょっとした調度品や陳列の仕掛けはそうとう尖っていた。尖っているのは、その案内してくださった方のセンスの部分も大きいのだけれども、入場料を取っているからだと思うし、そこに金銭が発生していれば本、本棚自体はアートとして鑑賞の対象にもできるのだろう。というか、できるという余裕が生まれるんだろう。それは喜ぶべきことだったし、だからといって、この本棚は本が買えない本棚じゃなかった。この線引がぜんぜん人に説明できないんだけど、ぼくは買いたくなって、それで『人間という仕事』(未來社)と『ゆたかな社会 決定版』(岩波書店)が手に取られた。棚に収まった本も、きっとこれは入場料のおかげというか、ここまで振り切って棚は作れないだろうなというものだった。もうちょっと売れそうな本を入れたり積んだり目立たせたりする本来の売り場を、そこから一歩深めにしている印象で、普通の本屋でこれをやると敷居が高すぎて必要な売上、坪単価を確保できないんだろうなと、多くの本好きや専門家が「こういう棚いいよねー、やっぱ本屋はこうでなくっちゃ」という棚のレベル感でそのままやると大抵の本屋は潰れてしまうのだけれども、なんかここではそれが入場料という仕組みによって担保されている、だからといって「専門!」というものでもなく、それは当たり前でガチ専門向けならもうwebでピンポイントに1000人に届ける時代だし、だからこれ絶妙! と楽しんだ。楽しんだあとで、で、これぼくは、ぼくはめっちゃ買うけど、ぼくみたいな人の方が少数派っていうか、「入るのにお金払ったんだからタダで好きに読んで好きに扱っていいんじゃね?」みたいな人が来ないともかぎらないというか、実際に何冊も積み上げて、勉強? 資料作成? 的なことをしている方もおり、そういうのどうしていこうか、と勝手に不安がったが、しかしこれもうリテラシーの醸成というか、買う前の本を丁寧に扱うのは当たり前、みたいな気持ちが僕にはあるけれどもそれは全人類に共有されるべきマナーで、だからこう、本を丁寧に扱う人の総和が、たとえばこういう、六本木でめっちゃ店の作りもしっかりしていて、きっと相対的に丁寧に扱ってくれる人が多い、というか多くなっていってほしい場所が指標的に、「ここはこういうマナーなんで」みたいな雰囲気をばらまいてほしい、そうじゃないやつは白い目であつかわれて居づらい、みたいな環境に育ってほしいし、ぼくもその一端を担いたい所存、というあらたな決意みたいなものを勝手に芽生えさせた。
楽しい。

12月16日(日)
楽しい気分で昨日を過ごし、文喫でいただいた案内パンフレットを嬉々として店のフリペ置き場に置いて、店は開かれた。が、今日は寒すぎるせいなのか、ぜんぜん人がこないなぁという前半。おひとり来てはお帰りになり、しばらく時間があいておひとり来てはお帰りになる、という状況で、入場料。いまなら入場料0円で居放題、楽しみ放題ですよ! と思ったが、そんなに時間を過ごせる立て付けの店ではなかったし、むしろ4階まであがって入ってきてくださる方には全力で尊敬の眼差しを送っている。それで再び時間を置いて、おひとり入って来られた方が、ドアを開けると右側にいたぼくを見るなり、「あの、本を作りまして」とお声がけくださった。まぁそれ自体ぜんぜんOKで来てくださる方への尊敬! の眼差しなのだけれども、おそらく始めて来られたのだろうし、店を見てから声かけてほしいなぁ、あなたの本はこの店のどこにどう置かれるとハッピーなのか考えてから声かけてほしいなぁと思って、その旨をお伝えした。実際のところ、あまりテンションの上がる本ではなかったため、ちょっとお断りせざるを得ないかな、というもので、その旨もお伝えしたところ、「委託でいいので置いてほしい」とおっしゃり、その「委託でいいので置いてほしい」はかなり嫌いなことばであったので、なんというか、店も見ないで、ご自身でもどこにどう置くかを考えないまま、とりあえず請求しないから置いてみてみたいな、謙虚っていうより傲慢に近い物言いは、店にも本にも、そう、なにかっていうとあなたがいまもっているご自身の本にも失礼ですよ。ぼくは精算が伸びるなら委託で、という考えはありますけど、返品の可能性があるから委託で、みたいなことを考えて仕入れるなんてことはしたくないです、という旨をお伝えした。人に、お断りはもちろん、注意や否定の言葉を投げかけるのはとても苦手で、常に心拍数が上がってしまったり、動悸で手足がしびれてしまって、うまくいかない。今回もうまくいかない、けれども、その旨お伝えするのはしなければならなかったし、残念だった。
そのあと、閉店間際になって、別の方がいらっしゃり、それで本を作っていてとおっしゃるので、なんかさきほどの反動で最初の受け答えが冷たくなってしまって、あぁいけない、この方には関係がないコミュニケーションなのに、となんとか声を明るく張れるように、接客マニュアルを読んですぐの始めてのレジのように、ぎこちなく途中から明るい声を出した。お話を聞くとそれは、見知った、すでに何冊か仕入れて好意的に思っていた本の出版元さんで、事務所が両国にあるとこのとで、詳細を伺うとぼくの自宅から最寄り駅にいく道すがらの場所で、あー、そのへん毎日通ってますよ、という位置で、それからは明るい声を自然に出すことができた。本は仕入れるお約束をした。救われた気持ちになる。日々簡単に、沈んだり救われたりしている。

#READING 『工場日記』シモーヌ・ヴェイユ、筑摩書房

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