2015/10/04

カネゴンが誕生日に自分の子どもからいただいた「宇宙が始まる前には何があったのか」(ローレンス・クラウス)を読み終わる【老いても子にはおれカネゴン】。

カネゴンもご多分に漏れず、「宇宙の膨張が加速している」なら「宇宙の曲率は正」(=宇宙は開いている) のかとカジュアルに思い込んでいたのだけど、同書によって「宇宙の膨張が加速している」からこそ「宇宙の曲率は0」(=宇宙はツルペタ) であることをやっと知ることができた【ツルペタのみをおれカネゴン】。

しかしそれよりも気になったのは、本書で使われている「神」という言葉の出現回数だった。ちゃんと数えたわけではないけど、少なくとも500回は超えていると思われる。客受けを狙っているにしては多すぎる。

なぜに神がそんなに気になるのか。口ではdisっていながら、実は好きでたまらないのではないか。未練たらたらなのではないか。本当はお尻をペンペンしてもらいたいのではないのか【そっと差し出すおれカネゴン】。

カネゴン自身は、神を「自分」もしくは「自分の中にあって自分を上から見ている何か」と定めているので何の問題もないのだけど、旧約聖書から出発した科学はなかなか神という概念をなかったことにしてものを考えられないらしい。

ついでにもう一つ不思議なのが、こういう理論物理学における中国系サイエンティストの少なさだったりする。他の科学分野における中国系はかなりの人数であるにもかかわらず、である。

もしあの日あの時蒋介石が毛沢東に勝利していれば、神とかそういうのときっぱり無縁な宇宙物理学が誕生していたのかもしれない。

あるいは、神や根源的なものに対する情熱と未練がどこかにないと、理論物理をきわめるのは難しいのだろうか。

カネゴンとしては、大栗先生が「超弦理論入門」の最後で触れていた「空間は、実は幻想かもしれない」という主張の方がはるかに重大だと思う。宇宙物理学の突破口は、たぶんここにあるとカネゴン予言しておきます【脊髄予言のおれカネゴン】。

大栗先生の同書を改めてカネゴンアイでざっとスキャンしたところ、「神」という人によって意味付けのぜんぜん違う言葉はどこにも使われていない様子。神の名前をみだりに唱えるとカネゴンの概念が混乱します。

それでいて、「超弦理論が9次元でなければならない理由」をカネゴンにもわかる数式で説明するなど、並々ならぬ力量を感じさせる。よくぞこれほどの内容を新書サイズに収めたと思う。クラウス氏は白人待遇でそのうちノーベル賞のひとつももらえるかもしれないけど、大栗先生の方がカネゴンの中では確実に上に位置している。

長嶋茂雄が「かっこよく三振する練習」を大真面目に行っていたように、トップクラスの科学者は間違える時ですらセンスよく間違える。アインシュタインが一般相対性理論にそっと宇宙項を追加して後に自ら恥じて撤回したのが、死後50年を経て今や完全に復活している。

科学におけるセンスとは「ついうっかりと、本質を衝き、鷲掴みにし、引きずり出す」経絡秘孔的な必殺技であって、「計算を間違えないこと」ではない。

正直、最近の米国由来のサイエンス翻訳ハードカバー本は、せっかくのよい内容に対して文章の水増しがひどく、図の使い方も下手なのが多くて閉口している。図を上手に使って主張を要約すれば30ページで済むのが明らかなのに、原稿料稼ぎのためにごってり盛り込まれた笑えないアメリカンジョークや長い前書き後書きに加え、とどめの「妻に捧げる」などの一言に1ページを使った本に金を払うのは実に業腹【もらった本におれカネゴン】。日本語版に参考文献のページもないのはよくあること。

もっともっと純度の高いのでないとカネゴンは満足できません【静脈注射とおれカネゴン】。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?