努力の本質ってなんだろねって話。
ネトフリのサンクチュアリ、けっこう話題になりましたね。
相撲作品おもしろいよね。
というわけで今回は未完の名作相撲マンガの一節をもとに語っていきたいと思います。
その作品は、「鮫島 最後の十五日」。
バチバチという作品からスタートする不朽の名作相撲漫画です。
一連の作品の集大成となる「鮫島 最後の十五日」は最終回目前で作者の死によって完結を見ることなく終了となりました。
いやー、ホントいい作品なんだよなぁ。。。
終わりも逆に切りがいいくらいの感じだし。
で、今回取り上げる一節なんだけど主人公のライバル・王虎が自身の部屋の先輩にあたる猛虎のことを語る一幕に出てきます。
努力っていうものを話すとき、いつも感じていた違和感がなんか晴れたような気がしたセリフでしたね。
努力って大事なものではあるんだけど、なんかどうにも辛くて面倒なものを乗り越えたからこそ称賛される、みたいな雰囲気をどこかに感じていて、努力というよりは我慢という意味合いのほうを色濃く感じてたんですよね。
特に日本では努力が称賛されがちだけど、それって実はこういう我慢の姿勢が評価されてきただけなんじゃないのかな、と。だから報われなくても尊いものみたいに言われていたんじゃなかろうか。
その一方で、成功したスポーツ選手とか専門家とか芸術家とかって努力をしていないっていう人がいっぱいいるように思います。
実際のところ、凡人じゃ考えられないようなトレーニングをしているんですけどね。彼らはそれを世間で言われている努力とは思っていないのです。
いわゆる天才って言われる人たちって、息を吸うように自然と自分を高める行動ができているってことなんですよね。
それが好きなものに対して一番になりたいっていうエゴイズムなんだとしたら非常に納得がいくと僕は思います。
なにかのために努力するっていうよりも、自分が成長していくことを実感する喜びに突き動かされている感じ?とにかく楽しいんだよ、きっと。
自分に当てはめて考えたとしても、やらざるを得なくてなにかを覚えようと勉強や努力を目的になにかをはじめるとたいてい長続きはしなかったな。
それに比べてやりたいことについて調べたり学んだりしてきたことって、苦に感じたことはないし、ずっと血肉になって残っている。
結局、そういうことなんだよね。
いやいややらされるものなんかに大した効果はないんですよ。
納得せずにやらされるものなんかに大した効果はないんですよ。
努力を良しとする美徳って、
我慢を良しとする美徳って、
結局のところ、教える側が扱いやすいようにしたいっていう事情があるんじゃないかなって思うんですよね。
教える側は本来、それがどんな役に立つのか、それがどれだけ楽しいことにつながるのか、結果を提示して導くべきなんだと思うんですよ。
まずは興味を持たせること。ここを省いて教えなきゃいけない事実だけを教えようとするから努力というものがネガティブなものになる。
今は時代も進んで、これまでのネガティブさのつきまとう努力の薄っぺらさはもうみんなにバレているんだと思うんですよ。だから、「俺の若かったころは…」話は響かないし、ウザがられるわけで。努力を苦労話にして話している時点で三流って感じちゃうんだろうね。
と、いうわけで努力をポジティブに語れるように生きていきたいし、子供や後輩には努力を楽しんでできるように導いていきたいもんですね。
それがたぶん、かっこいい大人ってやつだと僕は思います。
以上、ご清聴ありがとうございました。
あ、ちなみに「鮫島 最後の十五日」はこちらから。
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