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瀬村みき、裸足の若者ホームレスと会う③

「さすがにその足では家に上がってほしくないな…うーん、どうしよっか」

「水場があれば自分で洗うけど」

「ちょっとそこに正座して」

 僕は言われるとおりにした。瀬村みきは、庭の園芸用ホースを延ばしてきて、僕の足裏に放水した。くすぐったかった。

「頑固な汚れ…全然落ちないよ…申し訳ないけど、デッキブラシ使っていい?痛かったら言ってね」

 断れるはずがない。路上を裸足で歩いて真っ黒に汚れた足裏で他人様のきれいなお宅に上がるわけにはいかない。そのくらいの常識は僕だって持ち合わせている。いくら裸足が好きだから、貧しく靴がないからといっても、マナーとして許されることではない。みきもそう思っていたようで、彼女は僕の返答を待たずに、デッキブラシを足裏の指先部分に当てた。針金のようなブラシの毛先がじりじりとむきだしの足裏に突き刺さる。やがて、力仕事などやったことがないような白く、華奢な腕が出せる精一杯の力で、擦った。

「どう?痛い?」

 激しい痛みが足裏の指先から頭のてっぺんまで突き抜けた。僕は反射的に飛び上がりそうになるくらい背中をピンと張り、「あぅあ…あっ!!」という悲鳴が、真夜中の閑静な住宅街に響き渡らないよう、声を噛み殺し呻いた。OLのパンプスのヒールに踏まれた指の裏は潰れた葡萄みたいに黒々とした紫色に腫れており、そこを擦られたので、傷が開いて滲みたのだ。

 瀬村みきは、強迫観念に駆られた潔癖症患者のように、「まだよ、まだ汚れてる…きったない裸足。大体なんで裸足なの?きったない…不潔…もっときれいにしなきゃ…そうしないと雑菌がO君の足裏の傷口に入って感染症を引き起こしちゃう。そうしたら最悪、足を切断しなくちゃいけなくなる…そんなの嫌、絶対に嫌。嫌、嫌、嫌、イヤー!!」

 後ろを振り向くと、今まで見たことがない異常な形相をした瀬村みきがいた。僕はあまりの痛さに逃げ出そうと、レンガの敷石に膝を突き、足掻いた。足裏を見ると血だらけだった。子供のときから裸足で、大人になった今も路上を歩いてきた裸足。しかも空手で鍛えた足裏には自信があった。足裏の皮は何度も傷つき、怪我をして…それを繰り返しているうちに角質が体積して分厚くなり、今では釘を踏んでもチクンと痛む程度だと思っていた。それなのに僕の自慢の足裏は今、OLたちのヒールでめちゃくちゃに踏まれて破れた肉と皮がくっつかないうちに、傷口にこびりついた乾いた血と汚れの塊ごと角質を削り取られ、悲鳴を上げている。悔しい。涙が込み上げてきて、僕は泣いた。僕は完全に瀬村みきという女性に敗北した。瀬村みきのヒステリーが止むまで、僕の足裏は擦り続けられた。僕は涙を浮かべながら痛みにただひたすら耐えた。泣いているのは痛いからではなかった。どんな悪意を持ったいじめや仕打ちにも負けなかったこの裸足、足裏、つまり僕という童貞である男の唯一の勲章が、「もっときれいにしなきゃ」という、僕を心配する女性のエスカレートした善意によっていとも簡単に挫かれたからだ。

 瀬村みきは過呼吸を繰り返しながら、ようやくヒステリーを収めた。デッキブラシは僕の足裏から離された。みきは血だらけになった素足の足裏をタオルで拭き、絆創膏を貼ってくれた。裸足で路上を何年も過ごした足裏は、「真っ黒」から「薄汚い」に変わっていた。

「うーん、ちょっと汚れてるけど、これ以上やっても落ちなさそうだし。家に入ってもいいよ」

 僕はひりひり痛む絆創膏だらけの素足で玄関からフローリングに足を踏み入れた。木のぬくもりが足裏に優しい。しかし、驚いたことに、瀬村みきは玄関でスニーカーを脱ぐと、学校で履くようなバレーシューズタイプの上履きに履き替えた。

「えっ、上履き?家の中で上履きを履くの?」

 僕には理解できなかった。家の中では素足かスリッパが普通ではないのか。

「わたし、素足が苦手なんだ。足裏にぺたぺたくっつく感じが嫌なの。でも、靴下だと滑るし、スリッパは歩きにくいし。結局、上履きが一番好き。ほら見て、上履き専用のシュークローゼット。可愛いの見つけたら欲しくなってつい買っちゃうから、こんなに増えちゃった」

 みきが開けたシュークローゼットなる棚には、色んな形や色をした上履きがところせましと並べられていた。まるで宝石やお菓子のコレクションのようだった。爪先部分が赤や青、黄、緑、ピンクなどの固いカラーゴムで覆われているタイプ。小学校のとき皆が履いているのがこのタイプだった。何度これで裸足を踏まれたことか。靴底のギザギザが鋭く、裸足を踏まれるとものすごく痛い。それから、学校の先生が校内で履くような、ヒールの低いエナメルのストラップシューズ。無地の体育館シューズ。爪先部分にリボンが付いた晴れの舞台で履くシューズ。入学式やピアノ発表会で女の子が履くタイプだ。そういう日でも僕は一人だけ裸足だったけど。

 バレーシューズタイプの上履きを履いた瀬村みきの後ろをぺたぺた素足で歩く僕。小学校のときと同じだ。リビングに入ると、みきは上履きを履いたままソファーにダイブしてクッションに顔を埋めた。そしてちらりと僕を振り返り、いたずらっぽい目をした。

「ねえ、わたしを襲ってみてよ」

 今まで女性を襲ったことなんてない。どうすればいいのだろう。路上生活をしていてどうしようもなく性欲が高まったとき、目の前を通りすぎる女性を見て頭の中で妄想し、毛布の中でこっそり射精したことはある。しかし、いざ女性を前にして、僕はどうしたらいいかわからなかった。わからないなりに瀬村みきの両肩に手を触れた。すると、華奢だと思っていた瀬村みきは、意外と肩幅が広いことに驚いた。次に腿と腰、ふくらはぎ、足首を順番に触ってみた。女性の腰の骨盤がこんなに大きいとは知らなかった。僕は少し恐怖した。さらに、透き通るような肌白さの腿とふくらはぎも僕より太いようだ。触っていると滑らかで気持ちがよく、安らぎを得られる。ずっとこうしていたい。しかし、僕の好奇心は、ふくらはぎに這わせた手を、シルクの靴下と上履きを履いた足に伸ばすように差し向けた。僕はみきの足から上履きを脱がした。そしてあらわになったシルクの靴下の爪先と土踏まずに鼻を押し当て匂いを嗅いだ。少し悪くなりかけている、かぶの漬け物のような匂いがした。シルクの靴下を脱がすと、透き通るような素肌にほんのり薄いピンク色が差した素足があらわになった。鼻を押し当て匂いを嗅ぐ。かぶの漬け物のような匂いがより濃く、より強くなったのを感じた。

「そんなとこ嗅いだら、くさいよ?」

 瀬村みきはクッションを顔に埋めたまま、恥ずかしそうに言った。

 僕は罪悪感に苛まれることとなった。女性の足の匂いを嗅ぐという行為が、この上なく卑劣なことに思われたのだ。しかも、僕はいつも裸足で、女性のように靴を履いて足が蒸れるということがない。「裸足のくせに」と僕は自分を罵った。靴を買う余裕もなく、裸足で路上を歩くような男が、一日履いた靴と靴下を脱いだ女性の素足を拝むだけでも罪だというのに、匂いを嗅ぐなどということは身のほど知らずもいいところであり、万死に値する行為だと思った。

「ねえ、どうしたの?」

 僕は瀬村みきの身体から手と鼻を離した。そして、彼女に向かって正座をして絆創膏だらけの薄汚い足裏を晒した。

「僕には…みきに触る資格はない。やっぱりこれがお似合いだ」

 しばらく沈黙が続いた後で、みきの声がした。

「童貞を貫こうとするO君の気持ちを否定しない。だけど、大人になるということは、ある瞬間にどのような振る舞いをしたらよいかを心得ることだと思うの。ずっと裸足にこだわり続け、どんなに辛くても裸足を貫く人生を望むのはO君の自由。それなら、女性に愛されたいなんて望まないことね」

つづく

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