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まなざす、そして聴く

ピラティス行って伯母と伯父の顔見て、のんびりカフェタイムして夕方はイベントへ、そんな1日を思い浮かべていたら昼呑みのお誘いが舞い込んだクリスマス・イヴのお話。

いつだってしゃべりたい私

2時間ほどの昼呑みタイム中、三分の一くらいはしゃべっていたのではないか、私。年下の友人たちに、私の経験や思いを伝えたくてつい夢中になってしまう。
でも、それは私が「話したい」ことで、友人たちが「聞きたい」ことかどうかは別な話。
「こんな話をしたいと思っているけれど、どう?」
みたいなことをうまく短い時間でできるようになりたい。

開始時間しか記載がないってそういうことだったのかw

ワインとパスタと、めっちゃ近くまでぐいぐいくる配膳ロボット?で温まった昼呑みタイム後、「沖縄で/から 語ること」という上原沙也加さんの写真集出版記念トークイベントへ。

イベント冒頭、コーディネータ役の林さんが「開始は16時~と記載がありますが、終了時間は書いていません。休憩を挟みながら、1部、2部、3部、21時くらいまで」とおっしゃるのでびっくり。一緒に参加していた友人と「ワインでも買ってくる?」と話した。正直、そこまで集中力続くかなとそのときは思った。でも、終了したのは22時!だったけれど、あっという間だった。ものすごく。思い出に残るクリスマス・イヴになった気がする。

私もしちゃってた

30歳くらいの沖縄ルーツの表現者たちのトークは、それゆえに受け取る側が作品を通して受け取りたいメッセージを、予め持ってしまっていることへの窮屈さ、あるいはそれが「消費される」という感覚とつながることを、それぞれのことばで、それぞれの経験を通して、時間をかけて教えてくれるものだった、と、私は受け取った。

沖縄出身の俳人なら、基地や平和についての発信があるのだろう
沖縄出身・女性小説家という帯文はもう受け入れている
どうしてオスプレイの写真がないの
もっとはっきり基地反対を言え、そういう映像作品の方がウケる
若い人来た!一番前で横断幕持って

そういうトークを聞きながら、ワインを飲みながら友人たちの話を聴くよりも、しゃべってばかりいたさっきまでの時間を思い出していた。

作品が、表現者から離れて、受け取る側の手に渡ったときは、受け取る側が自由に受け取っていい時間だと思う。でも、その作品をどう世に出したいかの打ち合わせの場、同じ時間を共有しようと表現者が近づいてきたとき、そういう場で、表現者の思いを聴かずに、この作品を通してこういう沖縄が伝わると絶対いいからこうしよう、みたいなコミュニケーションがダメなのだけれど、私はちょっと前までそうだったかもしれない。

まなざされてきた作り手たちが生み出すこと

写真家の上原沙也加さんは大学で写真を学んだとき、沖縄を撮る写真家の多さに気づき、日本中で一番撮られてきた地域ではないか、「こんなにまなざされてきたのか」と話された。さらに「たくさんある沖縄の写真の中に、私の知っている沖縄がない。そういう沖縄を私が撮れたらおもしろい」、そんな風にお話しくださった。

上原さんの写真は、“ひっかかり”をくれるなと思う。俳人の安里さんは「方法としての写真ではなくて、糾弾されたり何かの答えを求めない」写真という受け止め方を話されていた。わかりやすい“記号”ではなく、「この暗号解いて」と言われている感じ。暗号を解いた先にあるものをどう受け取るかはあなたの自由。でも解いてはほしいな。そんな風。

私は上原さんの写真集が届いたら、沖縄を知りたいと思っている友人たちと一緒に、1枚1枚に仕掛けられた暗号を見ていきたいと思う。

上原さんが「モヤモヤや違和感、その人の行動の変化を手渡すことができたら、それは消費されなかったということになるのじゃないか」というお話を最後にしていて、私にはそれが印象に残ったし希望だと思った。ずっと答えを勝手に決められてきた、思いを聴かれずにきた、まなざされてきた「沖縄出身の、若い、表現者」たちが、まなざす側になることの希望を、とても感じる夜だった。

沖縄での写真展は12月29日まで。私も改めてまた見に行きたい。

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