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全部つながってる

澤地さんと藤原さん

昨夜この番組を見た。92歳の澤地さんの声の何と力強いことか。戦争を全否定する思いの強さそのものに思えた。琉大生だったとき、聴講生(2年目は講義もされた)の澤地さんと直接ことばを交わしたが、そのときに気づかなかった何か、まだ私の中にはっきり表れていなかった何かを、引き出される感じがした。戦争を二度と始めさせない。澤地さんが90歳を超えても発信し続ける目的がはっきり伝わって、「あなたもそれを目指しているでしょ」とあの強い声で言われたような気持ちになったのだ。

実は昨日の昼間、戦争を二度と始めさせないために「あなたは何をするの?」という問いを強く受け取っていた。
毎日新聞社で長くお仕事をされ、お連れ合いがひめゆり学徒の娘さんである藤原健さんのお話しを伺った。首里城公園内に「留魂壕」跡という戦争遺構がある。この中で「沖縄新報」という新聞が作られていた。毎日新聞など日本の他の新聞社が大本営の広報機関だったように、沖縄戦の最高司令部であった32軍の広報機関として1945年3月~5月、発行されたが32軍の首里撤退に伴い廃刊になる。那覇市若狭にある「戦没新聞人の碑」は、この沖縄新報記者として亡くなった12人と、朝日1人、毎日1人の14人を弔うものだが、藤原さんは「安全な場所にいるここから当時の新聞のあり方を批判するのではなく、今ここにいる自分は何ができるのか、何をするのか」を投げかけながら紹介された。

何を守り何を失うのか

藤原さんのお話しの中に、当時の新聞人にも戦争に疑問を呈する記者がいて「竹やりなんぞで勝てるか」と書いたら前線に送られたという話があった。まるで小学生が悪口を言われて翌日から無視をした、と同様のこのやり口に唖然とした。前線に送る、命を危険にさらす。そこに命の尊厳は全く感じられない。
それが澤地さんが調査し、明らかになったミッドウェー海戦で亡くなった兵士たちの扱われ方に共通している。ミッドウェー海戦前に輸送船(タンカー)が撃沈され11人が亡くなったが、遺族はほとんどその最期を知らされていなかったという。

他にも平和教育、戦争教育を考える機会がある。小さな違和感が積もって最近私の中に言語化されてきたのが、日本の学校で教えられているのは戦争の最後のところだけ。日本は原子爆弾を広島と長崎に落とされました、東京大空襲がありました、沖縄は日本で唯一の地上戦が行われ県民の4人に1人が亡くなりました、というここだけ。被害が大きかったですね、たくさんの命が失われましたね、だから戦争はダメなんです。それだけだと、「じゃあ被害を小さくするには、やられないように力を付けなきゃ。自衛隊、軍備増強、日米安保大事」そういうロジックに安易に結びついてしまう。実際そうなりかけている。

本来学びが必要なのは、なぜ戦争を起こしたのか。戦争で大日本帝国はどういう加害をしたのか。その上で、私たちはどうしたら戦争を起こさないことができるのか。そのための具体的な手立てを学ぶことだろう。それをやろうとすると現体制への批判、もっと言うと天皇制への批判につながるからやってくることができなかった。その結果、何に縛られて何を守ろうとしているのかわからないが相変わらず「公の立場の私が言えることは限られているが」という枕詞で目を逸らし続けることがまかり通っている。

自分が出世できないことが怖い?そのような発言で家族に迷惑がかかるのが怖い?でもその延長で戦争になり、誰かの子どもであり誰かの大切な人である一人ひとりの命が軽んじられる戦争になって失われたら、今守ろうとしているものだって何も残らないはずだ。

今どこにいて何ができるのか

入管法を平気で改悪してしまう政権与党の姿は、先の大戦で人の命を軽んじた大日本帝国の大本営とそのままぴったり重なる。天皇制というものに触れないようにした結果、同じ間違いを間違いと思えずに繰り返そうとする入口まで、私たちは来てしまっている。

もう引き返せないのか。自分にできることは何があるのか。何もできないと思っている家族や友人と話すことは怖いだろうか。何気なく見ているテレビや新聞の情報を鵜呑みにしていいのだろうか。生活のあちこちに考える種は転がっている。それらから目を逸らさず、無意識に戦争を始める意思決定に加わらないように生きたい

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