【色街探訪】玉ノ井①〜サケに見せかけてアッチも売っていた街〜

今や「玉ノ井」といえば、真っ先に頭に浮かぶのはお相撲の「玉ノ井部屋」ですが、この街には実はこんな過去がありました。まず玉ノ井が色街になる過程から。

※用語集はこちら

https://note.mu/hagoromotennyo/n/n0835bce1792d

起源は1918年(大正7年)ぐらいの浅草

玉ノ井は浅草と密接な関係があるので、まず大正時代の浅草の話からしなくてはならないのですが、当時の玉ノ井を描いた永井荷風の代表作「濹東綺譚」にこんなくだりがあります。

'大正七八年頃、浅草観音堂裏手の境内が狭められ、広い道路が開かれるに際して、むかしから其処に櫛比していた楊弓場銘酒屋のたぐいが悉く取払いを命ぜられ・・・'

これによって、楊弓場や銘酒屋が移転せざるを得なくなります。これが第一段階。そしてこの楊弓場や銘酒屋というのが、勘の良い方ならもうお気づきかもしれませんが、非公認の売春をする店でした。ちなみに、売春をする場所に関する言葉は時代によって様々に変化するので、これからもちょいちょい解説を挟んでいきます。

さて楊弓場というのが中国が起源の弓を射って遊ぶ場所だったようで、そこで矢を拾う女が裏で春を鬻いでいたのだそう。ちなみに、現代の「やばい・やばめ(矢場女)」というのがここが語源だそうで、矢を拾う女は私娼ですので性病検査なんかを受けていない娼婦も沢山いたらしく、それを買うのは「やばい」ですよね。そこからだそうです。

一方の銘酒屋、こちらは一見酒を売る店と見せかけて女が春を売る店だったそうです。ハート型の飾り窓に酒瓶を飾って酒屋に見せかけていたそうですが、瓶の中身は水だったそうです。

だいぶ話がそれましたが、その第一段階を経て、当時浅草寺の側にあった大正道路の脇にそれらの店は移転します。その後、客引きの過激化に伴い警察の取締が厳しくなってゆき、やがて路地裏へと身を隠すように再び場所を変えてゆくのですが、その浅草での商売にとどめを刺したのが関東大震災、これが移転の第二段階です。街が壊滅状態となり、業者たちは玉ノ井へと移ってきます。

※浅草寺の側にある古いお宅。

浅草〜吉原に関しては歴史が深い街なので、また別のページを設けて改めて書きます。玉ノ井の説明を続けます。

浅草からの移転組が玉ノ井にて銘酒屋を始める

さて、ここで初めて本題の玉ノ井へと場所が移ります(進行が非常に遅くて済みません!!)。まず、玉ノ井の場所は現在で言う東武伊勢崎線の東向島駅が最寄りの駅です。以前は駅名も玉ノ井でしたが、1987年に改称されて東向島駅となりました。

そして町名も変遷しており、現在は東向島や墨田といった町名になっていますがそれは1932年(昭和7年)以降で、それ以前は「寺島町」という町名でした。そして寺島町自体も戦前と戦後で少し位置が違うので少し整理。

【戦前】

【戦後】

と、こんなかんじにちょこっとだけ移動しています。大正時代から移動しまくりです。遊郭の吉原が公娼を扱っていたのに対して、こちらは私娼だったので、このような変化はその性質ゆえだったのでしょうか。

-玉ノ井②へつづく-