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一緒に居るのにさみしいね

言葉に詰まってあの子は眠るただそれだけの日常が、もう無い。
『Eve / Worlds end girlfriend, Smany』



眠る。 
春が来る。
薄目を開ける、幾つもの皮膜を押し寄せて、思ったよりもずうっと遠くへ歩いていたことを思い返す。

夕立が降っていた真夏の午後だった。
湿り気、照り返し、夏の声が部屋を包む、玉みたいな汗、きらきらと涙みたいにかがやいた、宝石。
祖母のしわくちゃの手でかがやいた緑色の指輪の艶。
丁寧にカットされた光の粒がちらちらと、夕日のさみしさを吸い込んで、何倍にも膨張する。

『寂しさは、鳴る』
綿矢りさは私の耳元で、大人になる音を教えてくれた。
まだ早い春の日差しを瞼に受けた日であった。


思ったよりもずうっと遠くへ歩いてきたみたい。
午後の音、チャイムの音が耳から抜けた先、走り出した春、まっさらなスニーカーを跳ねた砂埃、記憶は不確かな一昨日になり、いつかの本で見た景色と綯い交ぜに、カオスへ導かれた、扉。
開けばもう、何が本当なのか分からないね。
微かな苦しみ。微細な望遠鏡から見えた白銀の世界。
小さな宝物、壊したくなくて柔らかく包む、庇の様な睫毛の形、生きていることはいつも居心地が悪く、泣いてしまいそうで涙の味が鼻を抜ける。

私は知らない。
真夏のコンビニの前のしゃがんだ鬱屈さと、まだ早い煙の匂いを。
私は知らない。
初めてを憂いだ瞳と、熱い体温がぶつかる青春の熱を。
私は知らない。
揺れたスカーフ、解けるヒダ。
片田舎の冷えきったドラッグストア、長い爪で剥がしたマスカラ、複数人で灯したテスターの彩り、私は知らない。

全て本で読んだ。全て本で知った。
知らなかった。記憶はこんなに曖昧で、いつしか記憶は完全に誰かの世界と融合して、もうどっちが本物なのか、分からなくなってしまったこと。
そして、本物は、過ぎ去ったものに対してはひどく緩慢で、来るもの一つ拒まないということ。

囚われている。
捕らわれている。
記憶の隅っこ、狭い教室、息を塞いだ幼いわたくしのちっぽけな陽炎、揺れた教室、ぬるい水槽、本の世界に行きたい。
もう全部、何が本物なのか分からないの。
過去は継ぎ接ぎ、付け足した幻想、夢と同一。

走り出した貴方が、例え片っぽ靴が脱げてしまっても、いつだって戻れるよ。
白線の上、何度だって振り返られるよ。そう信じさせて。
鼻を掠める夏の芝生の香り。


水が浸った真夜中の教室、窓から見える、爪で薄く薄く薄く食い込ませた三日月、反射した水面、煌びやかな夜の宝石と静寂。
透明で、それはもう透明に光を屈託して尾ひれをひらめく黄金の金魚、さみしいと音が止まない、さみしいと音が止まない、さみしいと音が止まない、さみしいと音が止まない。

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