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写真ってなんだっけ。流行りの写真を模倣しつつ考える。

最近ツイッター上で、雨の日や都会において、「青と赤(橙)だけ」で色が構成された写真が増えてきている気がします。

この方の写真のような。

個人的にはこういった写真のレタッチはあまり行うことがないのでどこか敬遠しがちなのですが、LUTを使うと、微妙に近づくことはできるのかなぁと思います。

これを

こうして

こう。

みたいなやつ。

で、それはまぁどうでも良いのですが、最近のSNS映えする写真の傾向って、どうも自然ではない傾向が強く、写真ってなんだっけ、どこからが画像なんだろう、と考える事が多いです。

ここ数年、ハードとソフトが段違いに進化し、ちょっと齧っただけの素人でも、明らかに目で見えない色の世界を簡単に作り出すことができるようになりました。なんならVSCOやInstagramといったソフトは、それっぽい色を簡単に付加してくれます。

VSCOで1タッチ。

こうなってくると、フィルム時代にあった色味の問題に比べて、非常に多くの人々が、写真の色味と編集の問題に参与してきます。写真をネガから焼いてもらっていた時代には、一部の愛好家の人々と写真屋さんを除いては関わることのなかった写真のレタッチに、スマホを持ったすべての人が関わるためです。

こうした中で、「誰が」「どうやって」写真を定義するのかが曖昧になる状況は、現代芸術の、「誰が」「どうやって」芸術を定義するのかが曖昧になる状況とよく似ている気がします。デュシャンはトイレの便器を逆さまにしたものを芸術作品と呼びましたが、東京カメラ部の合成写真は、500pxのHDR写真は、誰が写真だと定義していくのでしょうか。芸術系の写真の流行すら見えない日本で、大衆の写真を定義するのは、非常に難しい問題です。

かつて、デジタル写真が徐々に世間に浸透しだした頃、飯沢氏は「デジグラフィ」という書籍を出しました。結局、この言葉はあまり流行ることもなく廃れてしまいましたが、フィルム写真とデジタル写真を明確に切り分けようとする姿勢は、15年以上前から当然ありました。飯村氏は巻頭でこう語ります。

ーだが、本当にそうなのだろうか。もしかするとデジタル・イメージは写真とそっくりではあるが、まったく別種の存在なのではないかという疑問が、実際にデジタルカメラやプリンターを使っているうちに芽生えてきた。
ー数値化されたデータの非連続的な集積ことが[デジグラフィ]の本質であり(…)[デジグラフィ]のプリントは(…)[フォトグラフィ]のようなどっしりとした存在感に乏しく、どんな精密なプリントでも、どこかふっと消えてしまいそうな儚さを感じさせる。

今となれば、デジタルプリントと銀塩からのプリントという切り分け方は明らかに弱まり、そもそもプリントをするか、しないか、と言ったところまでに議論は後退しているようにも思えます。それくらい、プリントをする人々自体が少なくなったためです。ネガでさえ、データ化はするけど、プリントはたまにしかしないといった人々が増えているくらいですし。

なんなら、儚さの概念も、デジタルではなく、フィルムの方に与えられているように個人的には感じます。若い人が、「撮り直しが効かないし、現像するまでわかんないからいい」というような。

ただ、飯村氏の感じた疑問は、今の時代には沿わないにしても、そのスタンスは大いに見習うべきものがあると思います。こうした姿勢と同じように、デジタル写真とデジタル画像を切り分ける、または、その間をつなぐ言葉を探してみることが、これから、もう少し活発になっていけばいいなぁ。

サポートして頂けた分は、写真に対する活動全てに充てさせて頂きます。缶コーヒー1本分からの善意への期待を、ここにこっそり記します。