例えば焦げてもいいから焼いてるホットケーキを見つめながら君との電話をまだ切らない時間。

 トモフスキーに「GOGOGO」という曲がある。出だしの歌詞はこうだ。「そんなコトは気にしてたら何もしないまま冬になってんだ 有意義とか無意味とかわかるのはずっとサイゴだ」

 モテギスミスに「そういうことだ」という曲がある。2番のサビの歌詞はこうだ。「そういうことば 知らないことば そういうことだ 帰り道だとかテキトー言って バイト先みちゃうよ バイト先みちゃうよ」

 それぞれ、前回の『時に想像しあった人たち』の3場そして2場を書いていた時によく聴いていた、そして台本作業に影響を受けた歌詞だ。

 曲から影響を受けて、その曲を聴きながら台本を書くなんて苦笑交じりの青臭い感じなのだが、なんだかそーいう事って大事だよなって思ってる。「そーいうのやるのは若い時まで」なんて愚を煮込んだバッドオールドアドバイス(悪い年上の教え)も口に出さない様にしようって思ってる。青臭いって植物の嫌な臭いでも、人の青臭さはその未熟さが、それでも、失っていくものと、得ていくものを同時に想像させることがある。未熟ってだからこそいいよなって思う。未熟はグッドヤングアドバイス(良い年下の教え)だしデンジャラスアスレチックレポート(危険な遊具通信)でもある。

 毎度の事の様に台本作業が上手くいかないこの時期に、けれども毎度の事なので慣れ切っているのだが、途方もない可能性の広さと、現実的な可能性の狭さに振り回される。私たちは二十億光年の時を又にかけるスペースロックオペラをやれるポテンシャルと、四畳半の若者たちの繰り返し書かれてきた安いエモーショナルに沈殿する惰性を持ち合わせている。もしも、その四畳半の押入れが二十億光年の孤独と繋がっていたとしても、現実、金と欲望、詐欺師とスニーカー、売春、オーバードーズ、リーン、ハリボー、インスタグラム、ケミカルトリップ、ストロングゼロ、などによって言い換えられてししまう。

 飽くなき闘争を繰り広げたところで待っているのがクーポン狙いのメンズエステだとしても、それを快楽として享受できる仕組みに満足してしまう昨今の崩れた夜遊び。なんにしても酩酊を繰り返し、見える自傷と見ない自傷で討論する様をフィルムカメラで撮影する業者が私たちなのである。

 随分前だが、たまたまインターネットで見つけた『純猥談』という漫画を起き抜けの寝ぼけまなこで読んでいた時に、もしかしたら私が忘れてしまった忘却への抵抗はこの『純猥談』に詰まっているのではないかと思った。
くだらなさと性愛は実は全く同じなのではないのではないか。そうして私は下記の様なnoteを書いたのだ。

 『純猥談』にあるような全ての性愛の美化、苦しみ、悲しみ、軽薄、虚勢、下品、消費、蒙昧はエモーショナルとして表される。そしてそれらを希釈したものは私の経験にも、貴方の経験にも、私の現在にも、貴方の現在にも、多くの本当に多く見つける出来る。当然だが手淫に費やした時間の中にも。

 清廉潔白を求め求められる今日において、私達はいくらそこに言葉を費やしても私刑に加担しているvs具体的な定義の更新と革新によって乗り越えられるの対立が立場をハッキリさせろと迫る。君はどっち?貴方はどっち?って訊ねる全ての顔が醜い好奇心で充ちているのはどちらの立場においても共通しているのが現生人類の限界を表す哀しい象徴として初恋の彼女の鍵付き日記帳にラメペンで書きつけられる夜だけを信じる。みたいな酩酊であやふやに逃げる。

 夕方に起きて、顔を洗って、散らばった机に、酒を置いて、そうして飲み始める。そんな時に、視力は当然濁っている。誰もいないガランとしたリビングが夕暮れの赤に染まる。酒も赤くなる。それを持っている手も赤くなって、私の全身も赤く染まる。燃え上がる様な赤に少し怖くなるけど、そーいうものかって可笑しくなる。酒を飲む。視力は当然濁っている。いつか漫画で見た世界の終わりの直前みたいな美しさ。いつか漫画を貸した事のある人の名前を思い出す。その人は制服をどんな風に着ていたのだろうって考える。その人は言葉を、ゲロを吐いてしまった直後、飲み過ぎて、ゲロを吐いてしまった直後に、なんて言うんだろうって考える。どんな風に照れて、どんな言い訳をするのだろうって考える。最初にどんな風に顔色が悪くなるのだろう。何か嫌な事があったから今日はそんな飲むのだろうか?それとも単に今日は飲みたい気分なのだろうか?そんな事も考えている。

 飲み過ぎて吐いた君のゲロの中に言葉が入っていて、それが全ての夜の「おやすみなさい」であったなら。今夜、君はもうこれ以上苦しまずにゲロを吐き続けられるのに。私はずっと背中をさすってあげられるのに。

 全ての二日酔いと全ての後悔に見えない花束を。

 


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