時間の検索2

失われた時間の検索


 私の季節は故障している。うまく移り変わってくれないのだ。最近では過去の夏を何度も繰り返すばかりになってしまった。現実の季節と連動していない。私の周囲にだけ過去の夏が停滞している。
 つまりこれは、私の個人的な季節だ。
 今は人類にとって最新の夏。だけど私の体には過ぎ去ったおんぼろの夏がまとわりついている。冬になろうが春になろうが変わらない。
 私だって多少は人の目を気にする。だからコートの時期に半袖で過ごすわけにはいかないし、落ち葉を眺めるような目つきでソメイヨシノを見上げるわけにもいかない。でもまあ、たいした苦労ではないし、それほど不思議な話でもないだろう。世界には少しずつ綻びが見え始めている。30年前に始まったゆるやかな崩壊が、近ごろ一気に加速しているようだ。気づいている人間がどれだけいるだろう? 終わりの日は近い。

◆◆
 蕎麦屋のカウンターでざる蕎麦を食べていると、へらへらした空気をまとった客が隣に座った。いちいち見なくても誰だかわかる。
 同僚のサカシマだ。
「ミドリさん、ま~た蕎麦食ってんすか」
 案の定へらへら話しかけてきた。
「またって何だよ」私は蕎麦をすする。「おまえもまた来てるだろ」
「いやあ、ほんと、この店って何なんすかね」「蕎麦屋だよ」「いやいや、そういう意味じゃなくて。味、普通じゃないすか?」「普通以下だね」「でしょ。かといって落ち着く味だとか、毎日食っても飽きない味っていうのでもない」「まあね。2日で飽きる」「なのに毎日食ってる」「私だけがね。なにしろ2000日ぐらい連続で食べてるから」「えっ、そんなに?」「うんそんなに」「のわりに、あんまここで鉢合わせしないっすね」「あなたが2000日連続で来てないからでしょ」「や、僕も650日ぐらい連続で来てんすよ」「来てんのかよ」「あっ!」「何だよ、うるさいな」「時間帯のせいだ。この時間に来るようになったの、最近なんですよ。僕もともとは朝に来てて。でも今は家で朝メシ食うようになったから。僕、2か月前から彼女と同棲してんすよ。4つ下の。ピアノ教師やってる子なんですけど。ポーランド生まれで。5歳の頃に父親の故郷の千葉に戻って来たらしくて。あ、5歳じゃないか、3歳の頃って言ってたかな。だから、ポーランド語はほとんど喋れないんですけど。あ、『ネズミ』はポーランド語で言えるらしいです。千葉だから知ってたのかな? あの辺、昔でっかいネズミの国があったらしいっすからね。それで、その彼女が僕に毎日弁当を作りたいとか古風なこと言うんですけど。気持ちは嬉しいと思いつつも、僕、お昼はここで蕎麦食いたいじゃないですか? それでね……あれ、どうかしました?」「何も。黙ってほしいだけ」「えっ、ミドリさんが聞くから」「聞いてない。お前が勝手に喋り始めた」「そうでしたっけ」「早く注文しろよ」「あ、大将、いつものやつ」「生意気な言い方だな。ロボットに通じるの?」「へへ。通じたみたい。にしても2000日かあ。すげえな」「2000日も650日も同じでしょ。異常な数字だよ」「ヘヘッ、違げえねえっす」「何そのしゃべり方」「ザコの喋り方っす。にしても不思議ですね。こういう店の魅力を何と表現すべきなんすかね?」「何の魅力もないから来てるんだよ」「ははは。違げえねえっす。違げえねえでげす」「ザコめ」
 サカシマはへらへら笑いながら月見蕎麦を食べはじめる。こいつは月見蕎麦しか食べない。月見うどんも、月見バーガーも、月見カレーも、月見アヒージョも、月見ストロガノフも好きだと言っていた。『月見』という言葉が好きなのだ。そしてサカシマは本物の月を見たことがない。私とサカシマは年齢が6つ違う。私の世代は、まだぎりぎり月を見たことがあるのだが。

◆◆◆
 月が消失して今年で30年だという。とくに感慨はない。ニュースの扱いも小さい。今どきそんなことを気にしているのは、ネタ切れの作家か、スピリチュアル狂いの大金持ちぐらいだろう。あと私。要するに奇人変人の類と言って良い。
 30年前に月は消えた。その状態から復帰しなくなった。それだけの話だ。
 月はなくなったわけではない。今も変わらず存在していて、昔と同じ挙動を繰り返している。同じ動きを繰り返すおもちゃみたいに。
 ただ、姿が見えなくなっただけ。
 誰の目にも。
 どのようなテクノロジーを用いても。
「今、ここに月がある」という事実だけが観測可能な状態だ。たしかにそこに月はある。それに合わせて「今、ここに月がありますよ」という精巧な映像を上書きすることも可能だろう。というか、実際にそういったサービスは存在する。NASAだってやってるし、中学生の作ったようなアプリだって無数にある。
 しかし30年をかけて、わざわざ月の姿を見たがるような人間はいなくなってしまった。先に述べた一部の変人を除いて。あと私とか。
 月の位置や満ち欠けなんて、文字情報で事足りる。

 神様が月を消したのだとしたら、きっとそのとき、人類の月への思慕、みたいなものも、きれいさっぱり消してくれたんだと思う。
 思えば長いあいだ、人類は月にあまりに多くのものを託してきた。政治、経済、戦争、恋愛、健康、心にうつりゆくよしなしごと。あらゆる運命の行く末を、月の動向から読み取ろうとしていた。依存しきっていた。
 月は人類から何ひとつ受け取っていないというのに。
 一度顔を踏まれたりしただけで。
「月が見えなくなると、人の心にはのような変化が起こるのだろう?」という実験を、神様が軽い気持ちで行っているとしか思えない。神様は退屈なのだ。無理もない。人類の本質は大昔から少しも変わらない。それこそ同じ動きを繰り返すおもちゃの兵隊みたいなものだ。神様は人類の挙動にすっかり飽きて、放り出す寸前の幼児の心境なのかもしれない。

 結局、月が空に浮かんでいないことに、人間は慣れてしまった。サカシマのような若い世代にとっては、もっとどうでもいい話だろう。
 私はそうじゃない。
 なぜなら私は、30年前に月が消失したあの瞬間に、恋人を失ったからだ。
 月と共に消えた私のファム・ファタル。
 まだ幼かった私たち二人の精神は、共有結合した原子のように強く結びついていた。
 神様は、月の姿をこの世から抹消した。人類の月に対する特別な思いも抹消した。私の恋人も抹消した。だけど、私の運命的な恋愛感情だけは抹消し損ねたのだ。

 だから私の周囲には、彼女が存在していた過去の夏がぐるぐる回転し続けているんだと思う。
 私は彼女がいた夏を検索し続け、彼女を探し回っているのだ。
 それこそ、人類がかつて月に対して抱いていたような、巨大なロマンティシズムそのもの。
 恥ずかしい。

◆◆◆◆
 さっさと蕎麦を平らげると、私は1人で職場に戻る。理論上、もう人間は働く必要はない。少なくとも、一か所に集まって単純な事務作業をこなす必要はまるでない。なのに私たちは四角いフロアにひしめき合って、自分のデスクで黙々と作業をする。中世の絵画のような光景だ。

 仕事を終えてビルを出る。真夏の熱気が停滞している。同じ夏でも、私を包む穏やかな夏とは明確に違う。人類を拒むかのような夏。

 どこかで小規模の災害が起こったらしく、電車が止まっていた。タクシーでの帰宅に切り替える。自宅の住所を告げると、見たこともない道を通って無人タクシーは走る。そもそも家までの道なんてひとつも知らないことに気づく。知る必要もないけど。

「知っておいたほうがいいんじゃない? どんなことだって。機械が知っていることを人間は知らなくていいと思うのは、どうせ脱ぐから服を着ない、と言ってるのと同じだよ」

 タクシーの後部座席。私の隣に座った白いワンピースの女の子がそう言った。いつものように顔はよく見えない。年齢も日によって変わる。今日は10歳くらいだろうか。私の周囲にたちこめる過去の夏の無数の断片。そこから偶然に生成された女の子。気づくといつも私の横にいる。
「道なんて覚える必要はない」私は言う。「道を覚えるのは大変なんだ。死にかけのお婆さんがプロのテニス選手を目指すようなものだよ」
「あなたは死にかけのお婆さんなんかじゃない。あなたはあなただし、道は道。それに、死にかけのお婆さんがテニスプレイヤーや総合格闘家を目指すのも、べつに変じゃないと思う。普通のことだよ」

 私の住むアパートの外観は、蔦や、葉っぱや、使い捨てカイロや、切り取られたドレスなんかでめちゃくちゃに覆われている。最近ではどこもかしこもこんな感じだ。
 いつからこんな有り様なんだっけ。
 思い出そうとしても、まったく何も引っかからない。
 時間はどこから始まって、どこで終わるのだろう?
 そもそも時間って、始まりから終わりに向かって流れているのだろうか?
 ありふれた疑問だと思う。
 ありふれた夏の、ありふれた謎。
 月は今も地球の周りをぐるぐる回っている。見えなくなっただけで。私は職場と蕎麦屋と自宅をぐるぐる回っていて、その私の周囲を過去の夏がぐるぐる回る。
 そうこうしているうちに何もかもが終わる。
 月も、地球も、レコードも、血液も、回転するものはいずれ終わるのだ。

 私の部屋は私が見たこともないもので溢れていた。半分くらいは私のものではないはずだ。明日にはまた違うものと入れ替わっているだろう。座標の計算が狂っているのだ。
 あらゆるサービスが崩壊している。人類が大いなる【共有】の選択をしたせいだ。部屋も、言語も、音楽も、家族も、感情も、お金も、風習も、思想も、何もかも共有してしまうから、こんな馬鹿みたいなことになる。
 見慣れたバスルームでシャワーを浴び、見たこともない美しいベッドで眠る。花のような香りがする。
 あの女の子の声が聞こえたので目を開ける。彼女はベッドサイドに立ってきょろきょろしていた。
「ここってどこ? あなたの部屋?」「私の部屋だよ。見たことあるだろ」「こんな感じだったっけ? 昨日まで」「こんな感じじゃなかった。昨日までは」「ジャミロクワイが踊ってた部屋に似てるね」「そうかな? 宇多田ヒカルが踊ってた部屋に似てるよ」
 どちらも、だいたい30年前に存在した部屋だ。
 というか、その2つは随分違う。
 ひょっとして私たちにはぜんぜん違うものが見えているのだろうか。
「同じものも見えてるし、違うものも見えてるんじゃない? 常に。そういうものでしょ。目に映るものって」と女の子は生意気な口をきいた。
「人は自分の見たいものしか見ない……って話?」
「そんな馬鹿みたいな話はしてない。『目に見えるものだけが真実とは限らない』とか『目に見えるものしか信じない』でもない。レトリックは嫌いなの。もっと単純な話。私たちは同じものを見ているし、同時に違うものも見ている。そしてそれらのすべては、実在しているし、実在していない。すべてはもう終わったことだし、すべてはまだ起こっていない」
「それこそレトリックでしょ」
「違う。それ以下。たわごとだよ。どこかでこれと同じようなたわごとを聞いたことがない? それと同じたわごとを繰り返しているの。私が。今。私は過去に起こったことを適当に繋げて喋ることしかできない。過去に作られた歌を歌うことしかできない」
 そう言って女の子は美しい声で歌いはじめる。
 とても古めかしい歌。
 メロドラマみたいに陳腐で、問答無用に心をかき乱すメロディ。
 いつのまにか私は眠っている。そして翌朝、見たこともないみすぼらしいベッドの上で目を覚ます。見たこともないバスルームでシャワーを浴び、見たこともないキッチンで朝食を作る。

◆◆◆
 最寄りの駅は消失していた。月と同じように、本当は存在しているのに、見えなくなっているだけかもしれない。でも、目に見えない駅には入ることが出来ないし、目に見えない電車には乗ることが出来ない。
 こんな状況で仕事に行く必要があるだろうか?
 私はタクシーで会社に向かう。それ以外の行動が取れない単純なロボットみたいだ。

 オフィスには知らない人ばかりが働いていた。私は自分のデスクでいつも通りの作業をこなす。昼食を蕎麦屋で取る。ざる蕎麦を食べていると、サカシマがやってくる。へらへらした調子で私の隣に座る。
「ミドリさん、ま~たここの蕎麦食ってんすか」「おまえも来てるだろ」「いやーほんと、この店って何なんすかね」「蕎麦屋だよ」
 同じ会話が繰り返され、サカシマは月見蕎麦を食べはじめる。
 こいつはどこから湧いて出たんだ?
 オフィスでこいつを見かけたことがあったか?
 サカシマとはここでしか会ったことがないような気がしてくる。
 私の周囲で過去の夏が回転している。
 終わった夏の終わった風景。
 今はもうない、美しい雑木林の奥。
 白木のベンチに座って、あの子が歌っている。
 何の歌だ?
 夢の中に響くようなメロディ。麗しい鼻声。何万回も聴いたような気がするのに、なぜか思い出せない曲。

「顔色悪いっすよ」
 サカシマの声で我に返る。
「何でもない。頭痛。あとで薬を飲む」
「熱は」サカシマは私の額にそっと手を当てた。そして私の顔をのぞき込む。
「何してるの」私は彼の手を払いのけた。
「もうそんな夏、見るのやめたらどうですか?」とサカシマは言う。
 私ははっとする。
「気づいてたの」「そりゃ気づきますよ。僕たちの夏とはぜんぜん違う夏だから」「私にしか影響しない夏だよ。迷惑はかけない」「みんな笑ってますよ」「笑われてたのか。それは知らなかった」「そもそも具体的には何をやってるんですか?」「終わった時間を検索してるんだよ。隅から隅まで」「何のために」「愛のために」「ぷは」「笑うなよ」「消えた恋人っすか?」「そんな話、おまえにしたことあったっけ?」「忘れたほうがいいですよ。僕がいるでしょう」「口説いてるの? ポーランド人の彼女はどうした」「ポーランド生まれってだけです。もういませんよ。何万年前の話してんすか? 最近のミドリさん、見てられないんですよ」「見なくて良い」「昔の恋人って言っても、ほんの子供の頃の話でしょ?」「そんなことまで言ったの、私?」「子供の頃の恋愛の約束に今も縛られてるなんて不気味ですよ。アニメの設定じゃないんだから。むなしいと思いませんか?」「不気味なのは知ってる。むなしいとも思ってる」「そもそも先月まで彼氏いませんでしたっけ?」「もういない。それこそ何万年前の話だ」「僕で良くないですか? 同じ蕎麦屋を愛する者同士」「おまえは駄目だ」「どうして」「男だから」「男と付きあってたのに? 数万年前に」「男と付きあったから男は駄目だとわかった。数万年前に」「一例で男全体を判断しないでくださいよ。それに、分け方はたったの二つですか? それこそ何万年前の思想ですか?」「人は女からしか致命的なことを学べない」「幼稚な思い込みだな。女を神聖視するなんて。それに、恋人に何から何まで導いてもらおうとするのも古代の考え方です。自立していない」「自立。馬鹿馬鹿しいね。性別も本当はどうでもいいんだ。あの子じゃないとだめなんだ」「病気ですね」「それは正しい。病気なんだよ」「僕の恋人になってください。ここの蕎麦と同じくらい好きなんです。あと650日くらいは愛せます」「正直者め」
 私は少し笑ってしまう。サカシマは笑っていない。もうめちゃくちゃだ。サカシマを置いて蕎麦屋を出る。追ってこなかった。私は誰もいない暗いオフィスで、何万回も繰り返してきた作業を再開する。

 7歳だった。私は毒のごった煮のような家を毎晩抜け出し、月の光の射す庭で、9歳の恋人と清新な世界を組み立てるのに夢中だった。雑木林の奥のひらけた空間。白木のベンチと大きなテーブル。水筒の中身は冷たい紅茶。湿った夏の夜気。理不尽な泥沼から区切られた理想的な国で、私たちは神秘的な相思相愛の関係にあった。2つ年上の恋人から、私はありとあらゆるロマンティックな妄想を引き出し続けていた。まさに月と人類の関係に似ている。
 月が消え、人類と月との関係が終わったのなら、あの奇跡のような時間が削除されたのも、自然の流れだと、どこかで思う。



◆◆
 会社を出るともう夜だ。私の周囲には細かく砕かれたあの夏がいつものように高速で回転している。街にはひとけが無く、車もなければ駅もない。私は歩いて帰ることにする。自分の家なんてものが、まだ存在していればの話だが。
 隣にはいつもの女の子がいる。今日は高校生くらいに見える。顔ははっきりとはわからない。
「月がグレイですね」と彼女が言った。
「月が見えるの?」「見えない。今のは愛の告白だよ」「へえ」「家までどれくらいの距離?」「さあ。月と地球よりは近い。歩くのをやめたところが家だと思う」「私を連れ込もうってわけだ」「勝手に付いてきてるんでしょ。消えて」「そういうわけにはいかない。あなたの夏はなかなか居心地が良い」「勝手に住まないでくれる?」「あなたの夏から私は生まれたんだよ。つまり、あなたの記憶だけを材料にして私は作られている。一晩ごとの慰みものだよ」

 街の明かりがどんどん消えていく。遠くから地響きのようなものが聞こえる。細かい振動が皮膚を揺らす。
「歩いてる暇はなさそうだね」女の子が私の手をつかむ。「走ろう」
 私は彼女に手を引かれて走る。走るのなんて何年ぶりだろう。
 私の背後には爆発音のようなものが連続で響いている。
 正確に、私の歩調に合わせて、地面が崩壊しているのだ。大昔の子供向けのアニメみたいに。私の後ろにもう道はない。少しでも走るスピードを緩めたら、私たちは奈落の底に消えてしまう。

 何かに追われて、二人で逃げる。
 恋愛感情を盛り上げるための、最も幼稚で単純な演出。

 私たちは無言で走る。なつかしい雑木林を抜ける。私のマンションが見えた。走って飛び込む。エレベータの階数表示が、蔦や、葉っぱや、お菓子の包みで隠れて見えない。
 扉が開くと、そこはいきなり私の部屋だ。
 森のような部屋。
 真ん中に白木のベンチと大きなテーブル。
 冷たい紅茶。
 蛍光灯の弱い光。
 ベンチにそっと座る。紙コップに紅茶を注ぐ。いつのまにか女の子の姿がない。
 私は急に不安になった。
「どこにいるの」「ここ」「見えない」「隠れてるの。いま、裸だから」「服を着なよ」「まだ設定されてないみたい。何か取ってよ。その辺に落ちているでしょう」
 私は足もとを見る。土のうえに、私のものではない衣類が重なっている。
「Tシャツがある。大きめの。あと、スカートと……ショートパンツみたいなのがあるけど。どっちにする?」
「スカート」
「オレンジと緑がある」
「オレンジ色のスカート」
 私はそれらの衣類を、声のする方向に放り投げてやる。
 黒い影のようなものが動く。
 影は少しずつ服を身につけているようだ。
「進化の過程をすごいスピードで再現してるみたい」はしゃいだ調子で影は言った。
「服着てるだけでしょ」私の声は期待と感動に震えている。
 影は見る間に美しい女性の姿になった。
 30年ぶりの月光がこの部屋に降り注ぐ。
「月がグレイですね」彼女が言った。「やっと追いついた。あなたの日数に。大変だった。2000日どころじゃなかったから」
 目の前に立っているのは、大人になった私の恋人。
 私の中に、たしかに存在していたはずなのに、見えていなかった30年。そのせいで私の季節は狂っていた。彼女がいた短い夏を、何度も何度も繰り返すしかなかったから。
「ありがとう。気持ち悪いくらい単純化されたあなたの脳の中で、私はすくすく成長できた」彼女はいたずらっぽく笑った。「私の名前、覚えてる?」
「月夜」私は30年ぶりにその名を口にする。舌が火傷したように熱い。
「嘘くさい名前」と月夜は笑った。
「素敵な女性になったね」私はもう気持ちの悪いことしか言えない。
「女性じゃない」と月夜は言う。
「え?」
「私は厳密には存在しない。存在しないものに性別はない」
「そうなの?」
「そうなの」月夜は微笑んだ。「昔みたいに、あなたを致命的な言葉で導くこともない。ただの、女のような形をした、影にすぎない」
 夏の夜風が私たちの髪を平等に揺らした。
「あなたは私の神様だったんだと思う」私はかすれた声で言う。「また二人きりで過ごせるの?」
「私は神様じゃない。ロマンティックな期待を持たないで。本物の神様はもう世界を終わらせようとしている。すっかり全てに飽きている。いろいろなものを大急ぎで片付けている最中なの。そのどさくさで、私たちはまた会えた。それで充分でしょう?」
「神様って何なの」
「神様は単純なシステムに過ぎない。月の満ち欠けのような。同じ動きを繰り返すだけのおもちゃのような。あなたや私と同じだよ。少しずつ壊れていってる。いつか動かなくなる。それだけのこと。電化製品が壊れるときだって、何らかの予兆があるものでしょう。30年前、月の見た目に関するデータが損傷した。神様にそれを修正する力は無い」
「だったら、この月の光は?」私は空を見上げる。天井があるはずの場所に夜空が広がっていて、30年ぶりの月光がしんしんと降り注いでいる。
「これは、私とあなたの記憶の夏。古い土台に残された月だよ」
 月夜の声は、月夜の口からではなく、私の周囲に張り巡らされた個人的な夏のループから聞こえている。記憶の中の女の子。彼女はかつて地上に存在していた。そのあとは私の個人的な夏にだけ存在していて、今はたぶん、その両方に重なって見えている。幻。
「こっちの月は、とてもきれい」月夜は私とは違う空を見上げて言った。
「こっちの月もきれいだよ」と私は言い返す。
 目には見えないけどね。
 月も、月夜も、見えなくても、ただそこにあったのだ。
 記憶の中に。ずっと。
 本当はそれだけで良かったはずなのに。
 頭の中で音楽が鳴る。
 いつも聞こえていたメロディ。
「エンゲルベルト・フンパーディンク」呪文のように月夜は言った。「思い出せない? ラストワルツという曲だよ」
「……?」
「エンゲルベルト・フンパーディンク。100年前のポップシンガー。その更に100年近く前には、同名のドイツ人の作曲家が存在する。どちらも私の祖父のレコードに記録されていた音楽。あの頃、真夜中の森で聴いたでしょう? 毎晩毎晩。ラストワルツを。2人で踊った。月の下で。あれは本当に起こったことかしら? おとぎ話みたいに嘘くさくて綺麗な思い出」
 私は黙って月夜に見とれている。あなたの記憶が繰り返されている。あなたのいた夏が分解され、再構築されている。とてつもないスピードで。あなたの髪は夜露の匂い。あなたのシャツは土の匂い。あなたの髪で揺れる光。私はそれらを引用する。あなたのすべてを引用したい。頭の中で音楽が鳴る。むかし流行った恋の歌。メロドラマみたいに暑苦しいのに、吐き気がするほど美しい。三拍子に乗る破滅のハミング。たぶん私の脳裏で1秒も休まず鳴り続けていた。1秒も聞こえてなかったけど。検索して、検索して、検索して、検索して、ようやく見つけた、私だけのきらめく光。

 ほんの一瞬の夏。

 世界が終わる。
 辺りは真っ暗。この世界に二人きり。もうこれだけでいい。本当に。このまま終わってしまうのなら。姿なんて見えなくても。
「本当にいいの?」と月夜が笑う。「これだけで?」
「これだけが欲しかった」
「ただの妄想が?」
「自分で自分を騙すのが恋でしょう?」
「たわごとだね」
「そうかも」
「私はそこにあるだけで、目には見えないただの影。あなたを導く致命的な言葉なんて、もう二度と吐き出せない。ぼんやり夢を見てるだけ。それでもいいなら、最後に一緒にいてあげる」
 すべての過去が終わる音。検索結果のいちばん最後。目には見えない月夜の笑顔。フンパーディンクの甘い声。これより先には、もう何もない。


#小説