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終わりに

 あなたが深淵をミュートするとき、深淵もまたあなたをミュートしている。
 誰の言葉だったろう?
 誰の言葉でもないかもしれない。たいていの言葉は誰のものでもなくて、どこか遠くから飛来した流れ矢にすぎないのだから。
 嘘だと思うなら自分に刺さっている矢を抜いて、しっかり観察してみると良い。そこに刻んである名前は、高名な哲学者のものであったり、時代を変えたエンジニアのものであったり、ナイーブな音楽家のものであったりするはずだ。でなければ夭逝した俳優、気難しい詩人、いんちき占い師、スポーツ選手、歴史家、歯科医、ストリッパー、映画監督、コピーライター、あるいはコピーライターを名乗る虚言癖の男であったりもするだろう。もしくはハンバーガーショップにたまたま居合わせた女子学生とか。架空の上司とか。妄想の配偶者とか。リトルミィとか。
 ほとんどの言葉は誰のものでもない。あるいはほとんど誰かのものだ。
 自分だけの言葉なんていう胡散臭いものを本当に所持していた人物は、僕の観測できる範囲においてはたったのひとりしか存在しなかった。ティエラだ。しかし彼女はもうどこにもいない。少なくとも表面的には。人が言うように、彼女が本当に死んだのだとすれば。
 だが、そもそも死とはいったいどんな状態のことだろう?
 自分に関するすべての情報をシークレットモードで運営している、という程度の意味ではないだろうか?
 だとすれば彼女が今でも1日に2分間だけ蘇るのも、あながち僕の見ているまぼろしとも言い切れない。彼女は毎日蘇る。1日に2分間だけ。僕の前にだけ。あの部屋にだけ。
 そして2分のあいだ休むことなく【本物の】言葉を乱射して唐突に消える。
 彼女は本当に死んだのだろうか?
 僕が思うにティエラはすべてをミュートしたのだ。
 その結果すべてからミュートされた。
 いまや彼女は透明だ。
 そして二度と戻ることはない。
 もちろん、とある思想家の語録にあるように、『死と太陽は直視できない』というだけの話なのかもしれない。
 彼女の死も、この街の太陽も、僕には直視できない。
 僕は身のほど知らずにも彼女に恋をしていた。
 今になってようやく、そういった当たり前のことがわかる。
 当時の僕はそんなことも理解できないほど錯乱していたのだ。恋とは錯乱の最も適切な言い換えだ。そして錯乱とは、水銀を飲んで永遠の命を得ようとするような精神状態のことだ。
 僕はうんざりする現実からの逃避先として彼女に恋をして、その恋がもたらした新たな現実からも逃避している。
 今でもずっと。
「ホテルって、部屋より廊下のほうが好きかも」
 と彼女は言った。かつて。この世界の任意の時点で。
 僕に。
「部屋じゃなくて廊下?」と僕は返す。僕の言葉はいつも壁の役割しか果たさない。
「というかこの世で最も好きな場所ね、ホテルの廊下は。深夜に限るけど」「どこがいいの?」「だって、ほら……あのカーペットを踏みしめるときの囁くような音 / 詩的な照明 / 思わせぶりな空調 / 他人行儀な気配 / 理路整然と並ぶドア / その隙間から少しずつ漏れ出すのは / 神聖で / 下劣で / 悪辣な秘密の匂い……神秘的だと思わない? 謎めいたループミュージックみたいだと思わない? 自分が深海魚になったような気分にならない?」「そういうふうに言われると」「わかる気もする?」「少し」「私なんて永遠にホテルの廊下を歩いていたいくらい」「それはまるでわからない」「永遠にホテルの廊下を歩いていれば、うっとりした予感だけがそこにあって、現実には何も起こらない。そういう人生が理想だったの」「なるほど。どうせなら予感だけで、何も起こらないほうが良い」「でしょう?」ティエラは目を少しだけ細める。「どうせ滅ぶのなら。あるいはとっくに滅んでいるのなら」

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 また朝が来た。
 毎日きちんとした食事を取り、適度な運動をして、充分に日光を浴び、清潔なベッドでたっぷり眠る。
 そして目が覚めた瞬間に死にたくなる。毎日毎日。
 といっても、僕の死にたさは微弱。口から漏れてしまったら「どうせ本気で死のうなんて思ってないくせに」とかって手早く片付けられてしまう類いの。
 だけどこれは本物なのだ。
 本物の材料だけを使用してつくられた、本物の死にたさ。
 精巧なミニチュアであるというだけで。
 本物なんだよ。
 致死量には遙かに遠いこの死にたさによって、僕がじっさいに命を落とす危険性はきわめて低いだろう。ミニチュアの銃で人は殺せないように。でもこの希死念慮は僕の日常だ。誰にも見られることのない僕の内装だ。僕の中にある唯一の偽物ではないものだ。
 新しい朝。新しい日射し。新しい風。毎日すべてが刷新される。毎日すべてが過去になる。
 そのことで僕は死にたくなる。
 馬鹿みたいだと思う。
 新しい毎日に対抗して、僕は毎日同じ本を開いている。同じことばかり勉強している。同じ作業を繰り返している。
 誰かが書いた古い文章。誰かが残した古い知識。
 そんなものを積み重ねて、浅ましくも過去にしがみつこうとしている。
 過去に良いことなんてひとつもなかったのに。
 僕が固執する過去に詰まっているのものは、

まっすぐに親の愛を受けられなかった記憶であったり、
長いあいだ集団の一員として何らかの能力を発揮することができなかった記憶であったり、
つらい恋の記憶であったりする。

 ありふれた話だろうか?
 でも言葉にすればなんだって陳腐だ。言葉にした瞬間にすべてが類型化され、すべてが言い訳めいて聞こえる。
 そしてそんな凡庸さの波打ち際に佇んでいると、
 決まって / 不意打ちのように / 悪夢のような / あの言葉が蘇るのだ。
 ティエラの言葉。
 その膨大なコレクションの中でも、とりわけ致命的なあのフレーズ。
「直感でわからないことは一生かけてもわからない」
 まったく違うと思う。だけど本当はそうなんじゃないかって恐れてもいる。この世のすべては直感でしか理解できない。なぜなら毎回すべてが新しいから。過去と同じ一瞬は二度と訪れないから。

 身体によくなじんだベッドから起き上がり、カーテンを開け、朝の陽射しを取り入れる。それからシャワーを浴びて、いつもと同じ形而上学的な食事を済ませた。
 暗い気持ちで明るい街へ出る。
 ティエラが消えてから僕は海辺の街で暮らすようになった。
 1年を通して暑い夏であるせいか、人々はいつでも楽観的で、ものごとをあまり深刻にとらえない傾向にあるようだ。
 この街の明朗で開放的な空気は僕に似合わない。でもそこが気に入っている。華やかなドレスをむりやり着せられているような居心地の悪さ。何もかもが自分にそぐわないようにセッティングされているのであれば、自分自身の奇妙さをいちいち気に病む必要もないのだ。

 職場は港にほど近い場所にある。僕の自宅からも歩いて行ける距離だ。石造りの大きな建造物で、内部は明るく清潔だけど、なぜか洞窟のような印象しか持てない。
 その建物の隅っこの部屋をあてがわれ、僕はひとりで仕事をしている。
 業務内容は、古い紙束に記された手書きの文字をコンピュータに手作業で打ち込むという、抽象的な、あるいは哲学的な、もしくは幻想的なものだ。僕が日々格闘する相手である紙束は、壁一面を覆う本棚を埋め尽くしている。
 朝から晩まで、空調の効いた部屋で、海辺の街に特有の派手な陽射しと鈍重な潮風を窓の外に感じながら、変色した紙に書かれた癖のある文字を、古めかしく馬鹿でかいクリーム色のコンピュータに黙々と入力する。
 意味も目的もわからない。
 どうしてこんなことを続けているのだろう?
 誰に言われたわけでもなく、いつのまにかこの職業に就いていた気がする。
 望み通りの職場という気もするし、
 死にたさを増幅させる機構という気もする。
 ずいぶん無駄なことをしているとは思う。

「ずいぶん無駄なことをしているね」とティエラが言った。
 僕の目の前で
 
「無駄かな?」と僕は顔を上げて聞く。
 腕組みをしたティエラが意地悪そうな薄笑いを浮かべて言う。
「無駄。そして無意味。気まぐれに虫を逃したりするのと同じような行為ね」「虫を逃がす?」「そう。たとえば今この部屋に虫が出たら、あなたはどうする?」「虫にもよるけど……邪魔だと思ったら殺すかな」「私もそうする」「これ何の話?」「あなたの質問に答えているだけよ。虫が出たら殺す。それが正解。でも虫をわざわざ窓から逃す人もいるでしょう? 小さな虫にも命があるから……とか言ってね」「僕も蝶なんかは逃すと思うよ」「それが無駄だと言っているの」「どうして?」「虫に命があるなんて誤解だもの。虫には命がない。虫は生き物じゃない。虫は何も思考していない。生きていないし、死なない。倫理の対象ではない。虫はただのシステムにすぎないの。この世界を運用するための。本来は目に見えてはいけないもの。要するにバグなのよ、文字通りね」「システム? バグ? どういうこと?」「なんでもない」「気になるよ」「でまかせだから。気にしないで」「要するに、虫が嫌いって話?」
「大っ……嫌い」ティエラは眉間に可愛い皺を寄せる。「って話」

 言い終えた瞬間、彼女は虹のようにすうっと姿を消した。
 2分間が経過したのだ。
 僕はまた死にたくなる。
 彼女はこの部屋で毎日2分間だけ僕の前に姿を現す。その2分間だけは僕の死にたさが薄まる。
 おそらくこれは過去の残像。2分間の虚しいまぼろし。だけどそれは永遠みたいに完璧な2分間だ。この2分間のためだけに、僕は23時間58分の死にたさに耐え続けることができる。

 昼食をとるために一度職場を出た。
 嘘みたいに公明正大な真夏の日射しが僕を灼く。
 視界のすべてが無粋なくらい明確に照らされていて、どこにも隠れる場所がない。隙間なく充満する潮風と海の匂い。
 いつまでも慣れない。

 船乗りたちが利用する港の食堂を通りすぎ、小さなパン屋でハムとチーズのサンドイッチをふたつ、それと冷たいカフェオレを買った。
 紙袋を受け取ると、少し歩いて堤防に腰かける。この時間だけ灯台の影になっている場所があるのだ。
 紙袋を開けようとしたそのとき、
「お客さあん」
 と呼ぶ声がした。自分のことだとは思わないままそちらを向くと、女の子がこちらに向かって走っている。さっき見かけたパン屋の店員だ。
「よかった! まだ食べてない!」
 僕の前まで来ると、その子は膝に手を置いて荒い呼吸を整えた。
 鈍い金髪が太陽の光を受けて小刻みに揺れている。
「食べてはいけないの?」と僕は聞いた。
「中身を間違えたんスよ」軽い調子で言って彼女は顔を上げる。明るい緑色の瞳が無遠慮に僕を射抜く。「それはサンドイッチではなくて、ルリジューズ」
「ルリジューズ?」
 袋を開けて中を覗くと、たしかにサンドイッチではなく、宮殿のミニチュアみたいな可愛らしいお菓子がいくつか並んでいる。
「あの店にルリジューズなんて置いてた?」
「新商品っす」
「おいしそう」
「その通り。おいしいんですよ」
「これも貰うよ。幾ら?」
「そんなに食べられますか? 半分は私がいただきますね。ルリジューズのお代はいらないので、いま私が持ってきた、本来あなたが食べるはずだったサンドイッチをひとつずつ分けましょう。へっへっへ……そっちのほうがイイっすよね?」
 勝手なことを言いながら、身軽な動作でその子は僕の隣に腰かけた。
「店に戻らなくていいの?」
「休憩時間なので」
 にっこり笑って彼女は言う。

 僕たちは堤防に並んで座り、サンドイッチとルリジューズを分けあった。
 ふだんの僕なら、彼女のことを厚かましいと感じたはずだ。だけどこのとき僕は、たまたまそうは思わなかったようだ。言葉と同じで、感情というのも、どこか遠くの知らない場所から飛来した流れ矢にすぎない。自分の中に自然と湧き上がってくるものではないのだ。
 ちゃちな灯台の巨大な影は、僕と彼女を同じように塗りつぶしている。
「私、先週この街に来たばかりなんスけど」聞いてもいないのに、彼女はそんなことを言う。「お客さん、毎日うちでサンドイッチ買ってません? もう7日連続」
「うん。7日どころか何年も」
「そんなにお好きなんですか?」
「家からも職場からもいちばん近いパン屋ってだけのことだよ」
「なあんだ」
「あ、失礼な言い方したかも」
「ううん」彼女は勢いよくサンドイッチを頬張り、オレンジジュースをごくごく飲む。「でも、おいしいですよね」
「まあね」僕もサンドイッチを口にする。「味に不満を持ったことはないよ」
「職場から近いって、どのくらいですか?」
「あの建物」と僕は200メートルほど先の石造りの建物を指差した。
「あ、ほんとに近い。あそこで働いてるのかあ」
「うん。毎日毎日」
「私は歌手を目指しているんですよ。毎日毎日」
「うん?」
「ひと月後にこの街で大きなオーディションがあるの。それを受けに来たんですけど。私が働いてるパン屋、地下でバーの営業もやってて……ご存じですよね?」
「いや、夜は家から出ないし、知らない」
「けっこう繁盛してるんですよ。夜はそのバーで好きなときに歌っても良いという許可をもらえたんです」
「ふうん」
「オーディションまでのトレーニングに最適だし、バイトとはいえ、お金をもらって歌えるチャンスなんてそうそうないから。ラッキーだったな」
「あの、なぜ僕にそんな話をするの?」
「え? だって……」
「だって、何?」
「お客さんにも夢があるんですよね?」
「夢?」僕は考え込む。そんなことは今まで考えたこともなかった。「子供の頃はあったと思うけど……」
「あ、待って! 当てても良い? 子供の頃の夢!」
 急に目をきらきらさせて彼女が言う。
 僕は黙って頷く。
「お姫様!」彼女は自信たっぷりに人差し指を立てる。
「お姫様? 僕が?」
「当たりでしょう?」
「一度も思ったことないよ」
「あれ? だったら何になりたかったんですか?」
「何だっけ……お花屋さんとか?」
 言いながら自分で吹き出してしまった。そんな牧歌的な夢を抱いていた時代が、僕にもたしかにあったのだ。
「かわいい」と彼女も笑っている。「今はなりたくないの?」
「なりたくないよ。夢もないし」
「おかしいな。なんか私と同じ匂いがしたんだけどな」
「匂い?」
「何か大きな目標に向かって、少しずつ少しずつ進んでる人……たとえば、何年もかけて山にひとりでトンネルを掘るみたいな。そういう人の匂い」
「なにそれ。パンの匂いじゃない? きみが来るずっと前からあの店に通っているんだから」
「ふふふ」と彼女は今度は抑えめに笑う。彼女の笑い方はどれも湿り気がなく軽やかで、この街の空気にとてもよく似合う。「いつもここで食べてるんですか?」
「うん。普段は本を読みながら」
 僕は傍らに置いていた大きな本を見せる。
「本って……紙の本?」
「そう」
「珍しい。持ち方とか難しそう」
「紙を扱うのには慣れてるんだ」
「へえ……私お邪魔だったかな。読書の」
「べつに。本なんて読みたくて読んでるわけじゃないし」
「読みたくないのに読んでるの? 変な人」
「僕もそう思う」
 彼女はまた笑った。というか彼女はずっと笑っている。僕とはまるで違う生き物みたいだ。
「明日もここにいるなら、私もご一緒して良いですか?」
「うーん。僕に断る権利はないよ。この場所、僕の土地ではないし」
「だったら明日も来ます。私、ソルという名前です」
「僕はマリー」
「マリー」とすぐに言って、ソルは立ち上がり、軽やかな動作で堤防から飛び降りた。「じゃあね、また明日」
  こうして僕はソルに出会った。

 ソルとの会話はなかなか心地良いものだったけれど、職場に戻って作業を再開すると、すっかり彼女のことなど忘れてしまった。
 大きなクリーム色のコンピュータに向かって文字を入力し続け、今日も1日が終わる。紙束をほんの少し減らすことができたはずだ。
 見た目は少しも変わらないけど。
「何か意味があるの?」とティエラの鼻で笑う声が聞こえた気がする。

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 翌日は雨だった。
 雨の日は僕は昼食を取らない。職場でコーヒーを淹れ、砂糖をいつもより多めに溶かして、それでなんとなく済ませてしまう。
「男女のあいだに友情って成立すると思う?」
 いつの間にか目の前に顕現していたティエラが言う。黒い髪と白い肌のコントラストがいつもより際立って見える。
「男女の友情? そんなの考えたこともないな」と僕は言う。
「まあ、とても古めかしい話題だしね。でも、/ 男女間に友情は成立しない / と結論づける人が未だに後を絶たないのは、少し不思議だと思わない?」「そんな気はする」「そしてその意見はたいてい性欲を根拠としている。というかその一点張りね。笑っちゃう」「まあね」「異性にほんのわずかでも性的な魅力を感じたら、もう友情というものは成立しなくなるの? そんな馬鹿な話ってある? そもそも愛って、恋 / 友情 / 家族愛 / 師弟愛 / 尊敬 / 庇護欲 / 性欲……とかって、ケーキみたいに明確に切り分けられるものなの? 性的な感情が一滴でも混じれば、他の愛は濁るの?」「僕に言われても……」「あと、よくあるのが無人島の話ね」「無人島?」「どんなに興味を持てない異性が相手でも、無人島で一生ふたりきりで暮らさなきゃならないってことになったら、最終的には体の関係を持ってしまう可能性が高い。だから男女間に友情は存在しない、とする説」「ああ、なるほど」「この極端な例と、友情が成立するかどうかって問題がまず対応していないし、無性愛者の存在を無視してもいるし、無人島で一生ふたりきりなのだったら、自分のことを完全な異性愛者と思い込んでいる男同士や女同士にだって、恋愛感情が芽生える可能性もあるんじゃない? だとしたら、そもそも同性間にすら友情は存在しないということになる。というか性的な関係を持った相手とだって、友情は成立すると思うし。そもそも友情って何なの? 本当に存在するものなの? 幽霊と同じようなものじゃない? 科学的に証明できる? 人間をデータ化するときにどのように扱うの? 誰がそれを決めるの? 政治家? 芸術家? 宗教家? フットボールの得点王?」「待って、これ、何の話をしてるの?」「さあね」彼女は小さくため息をついた。「ちょっと苛々しているのかも」
 言い終わると同時にティエラは消えた。
 窓の外は灰色。
 雨の音がやけに大きく聞こえる。
「マリー? だよね?」
 静寂を破って、僕を呼ぶ小さな疑問形。驚いてそちらを見ると、ドア付近に見覚えのある金色の髪がちらついている。
 ソルだ。
「あ、やっぱりマリーだ」ソルはぱっと表情を輝かせた。「この部屋、暗すぎない? 電気つけなよ」
 言いながらソルは壁のスイッチを押した。部屋は一瞬で人工の光に満たされる。ソルは熱帯魚のようにきょろきょろしている。
「どうしてここに?」とようやく僕は聞いた。
「え? ここで働いてるって昨日言ってたでしょ? 受付の人に聞いたらこの部屋を教えてくれたよ」
 この職場に自分以外の職員が何人も存在していて、彼らにも名前や感情がある、という当たり前のことを、僕は久しぶりに思い出した気がした。
「何か用?」と僕は聞く。冷たい言い方だな、と自分でも思った。
「お昼どうしてるのかなあと思って」ソルはにやにやしている。「おいしいサンドイッチを持ってきたよ。お菓子も。飲み物も。へっへっへ……嬉しい? あっ、お代はきちんといただきますよ。マリーのぶんはね」
「雨の日は食べないことにしてるんだ」
「どうして?」
「え? だって濡れたくないし……」
「あはは、なんで濡れちゃだめなの?」ソルは軽く吹き出す。「お腹は減ってるんだよね?」
「まあ、いつもと同じくらいには」
「だったら、雨に濡れないし、お腹もいっぱいになるんだから、問題解決ね。あそこに置いてあるのはラジオ?」
「ラジオ?」
 ソルが素早く僕の前を横切る。彼女の髪から、オレンジに似た立体的な良い香りがした。
 ソルはもう部屋の隅まで移動して、黒い箱を触っている。
「やっぱりラジオだ。ずいぶん古い型だな……壊れてないよね?」
「そんなところにラジオがあるなんて知らなかった」
「こんな目立つのに?」
「この部屋のほとんどのものには興味がないんだ」
「これに気づかないんだったら、血まみれのチェーンソーが捨ててあっても気づかなそう……お、動いた」
 黒いラジオから咳き込むような音が流れ出す。
 ソルがつまみを細かく操作すると、音の解像度が少しだけ上昇した。
 沼地みたいに重たいピアノと、レースから漏れる光のようなヴァイオリン。
 トゥーランドット。
 音に合わせてソルはハミングする。

    誰も寝てはならぬ
    誰も寝てはならぬ
    姫様、あなたも
    冷たい部屋で
    愛と希望に震える星を見上げて

 空気に色がついたような、だなんて、そんな凡庸なクリシェが一瞬よぎる。ソルは少しも気負った様子もなく、そもそも自分が歌っていることにすら気づいていないような自然な動作で、机にパンと飲み物を並べている。サンドイッチとカフェオレ。小綺麗なルリジューズ。歌。
 音楽を聴くなんて、とても久しぶりのことだ。

 僕たちは作業机に向かい合って食事をとった。
「すっごい大きな機械だね」ソルが日に焼けた腕を勢いよく伸ばしながら言う。クリーム色のコンピュータを指差している。
「仕事道具だよ」
「なんの仕事?」
「この紙束に書かれた文字を、コンピュータに打ち込むって仕事」
 僕は部屋中を取り囲む棚にぎっしり詰まった紙束を指し示しながら言った。
「これを? ぜんぶ?」ソルは目を丸くしている。「何年もかかるんじゃない?」
「何年かけても少しも減らないんだ。たぶん僕が生きているあいだには終わらない」
 だからこの仕事をしているんだな、と僕ははじめて気がついた。
 この仕事は終わらない。
 この仕事には進展がない。
 この仕事には変化がない。
 この仕事は周囲の時間経過と一切関係がないのだ。
「他の人は手伝ってくれないの?」
「この部署に配属されたのは僕ひとりなんだよ。他の人たちはべつの仕事をしてる。たぶん、もっと意味のある仕事を」
「マリーの仕事には意味がないの?」
「ないよ。仕事だけじゃない。僕の生活じたいに意味がないんだ。もうずっと前から」
「そんなことないんじゃないっすかねえ?」オレンジジュースを飲みながらソルは気楽に言う。「この仕事が終わったら、きっとすごいことが起こるんだよ」
「すごいこと?」
「世界が滅亡するとか」ソルは笑いながら言う。
「だといいけど」
「だといいの?」
「僕にとってはね」
「あのさあ」ソルは少しためらってから言う。「さっきの人は幽霊?」
「さっきの人って?」
「無人島がどうとか言ってた女の人」
 ティエラのことだ。
 僕は驚いてすぐには言葉を返せなかった。
「ソルにも見えるものなの?」
「私には見えないものなの?」
「いや、そうか……検証したことがない」
「知り合い?」
「うん。ティエラといって……まあ、かつて存在していた女性だよ」
「幽霊ってことでしょ?」
「わからないんだ。1日に2分間だけ現れる。僕が見ているまぼろしだと思ってた」
「私にも見えたってことは、やっぱり幽霊っすね」
「ソルだって、僕が見ているまぼろしなのかも」
「おいおい」ソルは笑った。「このサンドイッチもまぼろし?」
「ごめん、なんだか混乱してる」
「幽霊でもまぼろしでも、ゾンビでも蜃気楼でも、なんだっていいんじゃない? 目に見えて、話ができるなら。私はちゃんと生きてるけどね」そこまで言って、ソルは急に口もとを手で押さえる。「あ、もしかして恋人だったとか?」
「ティエラと? まさか。憧れていただけだよ。とても僕なんかと釣り合わない」
「へえ」とソルは珍しそうに僕を見る。「私、自分が誰かと『釣り合うかどうか』なんて、考えたことがないかも」
「きみはそうだろうね」
「どういう意味?」ソルは微笑んだまま僕を軽く睨んだ。
「良い意味だよ」
「まあいいや」ソルは頬杖をついて姿勢を崩す。「明日はまた堤防でお昼を食べるの?」
「晴れたらね」
「私も行って良い?」
「昨日も言ったでしょ、いちいち許可を取る必要はないよ」
「そうだった」
「僕だって、ソルの歌を聴きたいと思ったら、べつに許可なんてもらわずに勝手に聴きに行くよ」
「聴きたいと思ったの?」
「少し思った」
「嬉しいな」ソルは意外にもそっけなく返事をして窓を眺めた。「あ、蝶々」
 ソルの視線の先を見ると、たしかに黒い蝶が天井付近でひらひらしている。
「きれいな蝶だな」言いながらソルは機敏な動作で立ち上がった。「私と一緒にこの建物に入ってきたのかも」
「虫は生きてないんだよ」と僕は言う。
「ん?」
 僕はティエラから聞いた虫の話を披露する。虫は生きていないし、死にもしない。ただのシステムだという話。改めて自分の口で語ってみると、なんだかとりとめもない話だ。
「おもしろい人なんだね、ティエラさんって」ソルは鼻から息を漏らすように笑った。「少し残酷だけど」
 ソルは静かに窓を開けて、灰色の空に蝶を逃がした。
 雨は小降りになっている。

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 ある晴れた日に、僕たちはいつものように堤防に腰掛け、そこにパンやら飲み物やら焼き菓子やらといったものを、ルールを知らない子供のチェスみたいに思い思いに並べていた。
 ソルは鼻歌を歌っている。
 ソルの何気ない歌を聴くのがいつのまにか楽しみになっている。
 ソルの歌は毎日新しい。
 ソルの歌を聴いているあいだは死にたい気持ちが薄れている。ティエラと話している2分間と同じように。不思議と。不思議なことに。ソルの歌は僕を怯えさせる【新しいもの】のひとつなのに。
「明日、休みなんだけど」僕は自分でも何を言おうとしているのかわからない。
「ん?」とソルが手を止めて僕を見た。
「毎晩、地下のバーで歌ってるんだよね? 明日も?」
「いつでも好きなときに歌っていいことになってるんだ。単なる余興だし。見に来てくれるの?」
 僕は頷いた。昔からこの瞬間が運命づけられていたみたいに。
「だったら歌うよ。ちゃんと来てよね」

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 そして僕は休みの日にはいつもソルの歌を聴きに行くようになる。
 本当に久しぶりにできた新しい習慣だ。
 僕は同じ生活ばかり繰り返しているべきなのに。
 船乗りたちが大騒ぎするための地上の酒場とは趣が異なり、地下のバーは静かだ。口の悪い船乗りたちには「墓場」と揶揄されてもいたけど、まあ当たらずとも遠からず。
 暗い照明、陰気な談笑、囁くような音楽。老人のピアニストがいつもか細い音を奏でていて、若いサックスと弱々しいヴァイオリンがひとりずつ、いたりいなかったりする。
 ソルはいつも、バーではちょっとしたドレスを着ていた。たいていスタンダードナンバーを3曲ほど歌って、それで出番は終わりだった。
 ソルの歌は、いつもの鼻歌や、彼女自身の快活な印象とはまるで違っていて、とても陰鬱で艶やかだ。暗く湿り気を帯びた美しい声と表情。そういった要素はすべて歌に集約されているから、普段のソル自身からは感じられないのだろうか。
 歌うソルと歌わないソル。
 ソルがもし歌うことを禁じられてしまったら、彼女の本質的な暗さは行き場を失って、今みたいな陽気な性格ではいられなくなるのかもしれない。
 少なくともこの場所でのソルは鬱的なエレガンスの生成装置と言ったところだった。歌っているあいだだけは。

 歌が終わるとソルはテーブルを回って客と談笑したりした。ソルはどこにいたって人気者だ。いつも最後に僕のテーブルにきてくれて、一緒に少しだけ酒を飲んだ。歌っていないときのソルの瞳はいつものようにただ明るく、この街の太陽みたいに屈託がない。
 僕はソルが身の上話を語るのに相槌をうち続ける。オーディションに向けて調子が上向いていること。幼い頃父と行ったミュージカルを観て歌手になりたいと思ったこと。走るのは速いけど、歩くのは遅いこと。視力が良いこと。犬を飼いたいこと。コーヒーを飲める日と飲めない日があること。
 ソルといると、ティエラと話しているときと同じように心が安らいだ。2分間よりずっと長い時間だったし、ソルの言葉はとても平凡なものだったけれど。

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「恐竜が絶滅してしまったという事実は、ときどき私を不安にさせる」とティエラが言った。唇を軽く噛んでいる。
「どうして不安になるの?」と僕。
「あんな強大なものがすっかり絶滅してしまったというのに、私たちみたいな弱々しい生き物がいつまでものうのうと暮らしてゆけるがはずがないでしょう。それでなくても私たちは簡単に滅亡できるのに。隕石の落下、火山の爆発、未知のウイルス、氷河期、戦争、宇宙人の襲来、AIの暴走、SNSの仕様変更、失恋、海水面の上昇、ガンマ線バースト、染色体異常、虫たちの反乱……じつにさまざまな原因で私たちは絶滅できてしまう。何の前触れもなく、何の抵抗もできず」「それは、そうだけど」「だから私たちは何をしたって有意義だし、何をしたって無意味なの。1秒後には滅亡しているという可能性を常に抱えているんだから。成功も失敗も意味がない。勝敗なんて存在しない。それに、ものごとを勝ち負けでしか考えられないやつは、結局のところ最終的には負けてしまう。もれなく / 全員 / ひとり残らず」「最後には負けるんだったら、勝敗は存在するってことにならない?」「ならない。勝敗なんてものが存在すると思い込んだ愚かな人間の中にだけ、それに似たかたちのものが見えることはある。でもそれは敗北の幻影でしかない。敗北ですらない。勝利など存在しない。すべての勝負事は悪趣味な馬鹿騒ぎにすぎない。そしてそれらはすべて意味がない」

 いつもより少し早口だったティエラは、いつも通り余韻も残さず消えた。

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 そのうち僕はソルと会うのが苦痛になった。
 ソルが僕に失望するのではないか? という、よくわからない不安に打ちのめされるようになったからだ。
 ソルはこの街にいるあいだの単なる暇つぶしの相手として僕を選んだだけではないだろうか?
 かつて、『生きていた頃』のティエラは、僕と話していても、本当には僕と話していなかった。
 あれと同じように。
 つまり僕はソルに対して、ティエラに対するときと同じような感情を抱いている。
 つまり僕は錯乱している可能性が高い。
 つまり僕は恋をしている可能性が高い。
 恋というのも、どこか遠くから飛来して、偶然僕に突き刺さった流れ矢にすぎない。
 どんなに歴史の手垢まみれようとも、永遠にキュートさを失わない【恋の矢】なんていう表現を目の当たりにして鼻白んでいる場合ではない。
 その矢じりには世界を滅ぼすほどの毒が塗ってあるのだ。
 恋の毒は血液に混じって全身に行き渡る。細胞の色をすべて塗り替えてしまう。おなじみの死にたさに拍車がかかる。なのにどこかに浅ましい希望が見え隠れしている。そのせいで気持ちが不安定だ。四六時中血を吐きたい。一瞬で粉々になってしまいたい。だけど矢を抜く勇気はない。

 いくら自分が恋などしていないふうを装ってみても、ソルが他の客と楽しそうに話しているのを見るだけで胸がざわつく。自分を特別な目で見てほしいなどとという、厚かましくも幼稚で意味不明な感情に支配されてしまう。
 つまり僕は安全な過去から足を踏み出している可能性が高い。
 つまり僕は過去の失敗を繰り返す可能性が高い。

 最近ではソルの姿が以前よりくっきり見えるようになった気がする。
 髪の一本一本の細かさや、夏の太陽を反射してきらきらと輝くうぶ毛、そこからこぼれた光がしばらく胸もとで滞空している魔法のような感じ。動きのかるさ、まつ毛の重さ、水を含んだような涼しい声、視線の熱、潮風とは別のレイヤーに乗って運ばれてくる彼女の匂い。
 僕は毎日彼女に会うのが怖い。毎日新しくなる彼女が、過去に依存している僕を見限ってしまうことが怖い。それ以前に、自分が彼女のことばかり考えてしまうことが怖い。毎日刷新される世界と同じように。彼女が怖い。
 ソルのことを考えると、この街のあらゆるものにそぐわない自分のことが恥ずかしくなる。
 恋をするということは、自分を直視しなければならないということだ。
 自分を直視するということは、時間を経過させるということだ。

「明日いよいよオーディションなんだよ」
 そう言ってソルはサンドイッチに勢いよく噛みつく。
「受かると良いね」と僕は言った。心にもないことを言っていると思った。
 オーディションに受かればソルはこの街を出て行ってしまう。
 落ちたら?
 もともとオーディションを受けるためだけにここに来ていたはずだ。
 受かろうが落ちようがソルはこの街には残らないだろう。
 ヒロインとの別れのときが迫っている。
 そのとき僕はどんな行動をとる?
 思わず失笑しそうになる陳腐なストーリー。
 だけど装飾を剥がせばどんなストーリーだって手垢まみれだ。
 すべてのストーリーは自動的に進行する。
 すべてのストーリーは止めることができない。
 すべてのストーリーは終了後にしか正しく解釈できない。
 ストーリーに飲み込まれた者は、最後まで泳ぎ切るか、おとなしく溺れ死ぬしかないのだ。
 なのに僕は、ストーリーを停滞させる、あるいは循環させる方法ばかり考えている。
 つまりは自分のことばかり考えている。
 ずっと昔から。
 どんなに取り繕っても、僕は最低な臆病者であり、純粋な卑怯者でしかないのだ。
「受かると思う?」とソルが言った。
「怖いの?」と僕は聞く。
「わからない」ソルの声は少し震えている。「でも、これが最後のチャンスだとは思う」
「まだ若いのに」
「もう新人としてはぎりぎりなんだよ。今まですべてのオーディションに、まったく、ちっとも、かすりもせずに落ちてきたもの。潮時だって、何年も前から思ってる。ここらへんですっぱり諦めないと……一生諦めきれないまま、何にもなれずに終わってしまう」
 僕は黙っている。
 こんなときに適切な言葉ひとつ思いつかない。
 本ばかり読んでいるくせに。
 ソルの視線を頬の当たりに感じる。
 僕はただ足もとの海を見ている。魚の影が踊るの見ている。波の音を聞いている。遠くに向かう船の汽笛を聞いている。カモメの鳴く声を聞いている。
 ソルの歌を聴くようになってからというもの、僕は今まで見たり聞いたりすることのできなかった、この街のさまざまなディテールを感知することができるようになった。
 以前の僕は、1枚の絵の中に住んでいるような気分でいたのに。
「マリー、耳のかたちがきれい」ソルが急にそんなことを言った。
「僕の耳?」
「人の耳って気にならない?」
「ならない」
「私は気になるな。歌っていうのは、耳にしか届かないから」
「そんなことないんじゃない?」
 皮膚にも、骨にも、血液にも音楽は響くし、耳が聞こえない人にとっても、歌は歌だと思う。誰かがそこで歌っているのなら。
 というようなことを言おうとして、僕は口をつぐむ。
 どこかで聞きかじったような言葉だとしか思えなかったから。
「マリーの耳は、私の歌を聴くのに適した耳のかたちをしてる」
「そんなのがわかるの?」
「私の歌のことだから、わかる」
 ソルは何気ない感じに手を伸ばして、僕の耳を触った。
 ソルに触れられたのは初めてのことだった。
 僕の耳とソルの指しかこの世にはないみたいだ。
 指に徐々に力が込められる。
 ソルの表情は妙に真面目だ。
 指の力はどんどん強くなる。
「痛いよ」僕はついに耐えきれなくなり、ソルの手を振り払う。「引きちぎりでもするつもり?」
「そのつもり」ソルはまだ僕の耳を睨んでいる。「耳なんてこの世からなくなればいい」
「思い切った意見だね」
「この世から耳がなくなれば、誰も歌わなくてすむもの」
「ソルも歌わなくなるの?」
「……冗談だよ」
 ソルは立ち上がった。
 かと思うと、座っている僕の頭を両手で掴んだ。
「今度は何?」と僕は言う。
 明らかにソルの様子がいつもと違う。行動に脈絡がない。きっと彼女の体には、目には見えない無数の矢が刺さり続けている。血が噴き出し続けている。
「目がきれいね、マリー」僕の顔をのぞき込みながらソルが言う。
「そうかな」
「とくに左の目が」
「そんなに違いがある?」
「左のほうが透明度が高い」
「そう?」
「もっとよく見せて」
 ソルは僕の頭を抱えたまま僕に少し顔を近づけた。
 ほんの少しだけ。
 しばらく動かない。
「死にたい」とソルが言った。「こんな気持ちになるのは初めて」
「おかしな矢が刺さっただけだよ」と僕は言う。「その矢を抜けば良い」
「抜いてよ」ソルは僕の左目を見ている。「早く。死んじゃう」
「自分の力で抜くしかないんだ」
「なにそれ」
 ソルの指から力が抜ける。
 その手が僕から離れる。
 だらんと腕を下げると、ソルは堤防から降りた。
「さっき、キスしても良かったのに」ソルは地面を見たまま言う。
「ソル、その矢ではきみは死ねないと思う。だって……」
「ぜんぶ冗談っすよ」ソルは僕の言葉さえぎった。「でもありがとう。おかげで明日歌えそう」

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「私たちは本当はとっくに滅亡しているのかもしれない」とティエラが言った。自分の人差し指の爪をじっと見つめながら。瞳は漆黒、爪は水色だ。
「そうなの?」僕は言う。
「この世界はぜんぶ自分の見た夢だ、とか思ったことはない?」「ありふれた妄想じゃない?」「あなたの知っている知識だけが本当に存在している知識で、あなたの知らない知識は、『あなたの知らない知識が存在する』という設定だけが存在しているのであって、本当は存在しない。あなたの視線が動くたび、あなたの視界に映るぶんだけこの世界は生成されて、あなたが見ていない範囲は、その都度こまかく抹消されている……そういうふうに考えたことはない?」「この世界には僕しか存在しないってこと?」「この世界には私しか存在しないってこと」「だったら、僕って何?」「私の一部。私が世界。次々と刷新される私の表面をただ眺めるだけの虫みたいなあなたたち。過去と現在は同時に存在している。未来だけがどこにもない」ティエラは消えながら目を細める。「だって、すべては私だから」

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 翌日はひとりで昼食をとった。
 ソルはオーディションを受けているはずだ。
 ソルの不在は、ソルの歌を思い出させる。
 何気なくハミングした明るい声を。
 麗しくも憂鬱なメロディを。
 いつでも完璧に再生できる。
 目の前に。
 彼女の姿と共に。

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 オーディションの翌日、僕はパン屋に寄る。そこにソルの姿はなかった。
 恰幅の良い店主に聞いてみると、「ソルならおととい故郷に帰ったよ」という言葉が返ってきた。「いや、昨日だったかな?」
「昨日?」僕は驚く。「昨日はオーディションの日ですよね?」
「ああ、歌の? 落ちたみたいだよ」店主はパンを並べる手を止めない。「といっても、もうひと月も前の話だけど」
 ショーケースには美しいルリジューズ。整然と隊列を組んでいる。

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 ソルのオーディションは先月すでに終わっていたのだ。
 僕と出会った頃のソルは、人生最後と決めたオーディションに落ちた直後の、打ちひしがれた状態だったということになる。
 僕と過ごしたひと月は、希望に満ちた野心と輝きの季節などではなく、故郷に帰るのをだらだらと引き延ばし、未練がましくバーで歌わせてもらったりしていた失意の日々だったのだ。
 どういうつもりだったのだろう。
 最後の1か月を2回も繰り返したところで、落選という結末を変えることなんてできないのに。
 それこそ、幽霊みたいな気持ちで過ごしていたのかもしれない。
 2分間だけしか現れないティエラを幽霊だというのなら、ソルだって昼食のときにしか現れない幽霊みたいなものだ。
 ソルはいつか、僕に『自分と同じ匂いがする』と言った。『何か大きな目標に向かって、少しずつ進んでる人の匂い』がすると。
 ソルは本当は、自分と同じ、過去にしがみつく憐れな亡霊の匂い嗅ぎ取っていただけなのだ。
 僕たちは敗残者のような気持ちで、残り少ない時間を共有していた。
 とても小さな、だけど本物の死にたさを隠し持ったまま。
 あの日々を永遠に繰り返すことができたら良かったのに。
 いつまでもふたりでサンドイッチを分け合ったり、歌を聴いたり、言った端から忘れてしまうような平凡な会話を積み重ねたりしていたかった。
 ただ予感だけが存在して、実際にはなにも起こらない日々。
 いつまでも現実を直視せず。
 いつまでも現実から逃げ続けていたかった。
 僕は常に錯乱していて、大きなラジオにも、血まみれのチェーンソーにも気づくことができない。
 自分たちが無数の矢に撃たれて、とうに絶命していることにすら。

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「直感でわからないことは一生かけてもわからない」とティエラが言う。
「本当にそう?」僕は疑問を投げかける。
「本当にそう。学ぶ必要などない。なにしろ産まれた直後の赤子というものが私たちのもっとも完成された姿なのだから。その後は時間をかけて少しずつ堕落しているだけよ」「違うよ」「違わない。人間は少しも成長しない。赤子の頃の記憶は消えてしまっているでしょう? 赤子の頃に所持していた高度な思想を、すっかり馬鹿になった今の頭では理解できないからよ。人間は勉強して何かを学んでいるわけではない。勉強して、必死で思い出そうとしているだけ。もともと知っていたことを。そして結局、ほんの少ししか思い出すことができず、寿命が尽きて死んでしまう。そもそも設計が破綻している」
 ティエラは窓の外を見た。窓は開いている。港の微風が黒い髪を少しだけ揺らしている。白い喉がちらちら見え隠れする。頬に落ちかかる髪を指で払って、彼女は僕を見た。
「直感で分からないことは一生かけても分からない」
 決めゼリフみたいに、再び彼女はそう言った。
「ソルがいなくなったんだ」僕は関係ないことを口走る。
「私は【自分だけの言葉】なんて持っていないのよ」ティエラもまるで関係ないことを返す。「私の言葉だって本物なんかじゃない。他の人の言葉とまったく同じ、まったくの偽物。あなたは私の目鼻や、耳や、その配置や、声や、匂いが好きなだけ。それを特別なものと勘違いしてしまった。だから私の言葉が特別な響きを持って聞こえる。人の優劣なんて、すべて、ただのまぼろしなのよ。だって私たちは」
 喋っている途中でティエラの姿は不自然に消失した。
 床を這う色とりどりのケーブルを僕がすべて切断したからだ。
 チェーンソーで。
 ケーブルはすべてクリーム色のコンピュータに繋がれていたものだ。
 僕はチェーンソーを電源も落とさず打ち捨てる。
 世界を破滅させるような凶悪な音を立てて、チェーンソーは床の上をのたうち回っている。
 僕はコンピュータを両手に抱えた。
 大きなアラームが鳴る。
 さまざまな言語で警告が繰り返される。
 かまわず部屋を出て、誰もいない廊下を歩く。
 ここが深夜のホテルなら、永遠に廊下を歩いていられたのに。
 外へ出る。
 夜の港には夜の潮風。
 僕の前髪は湿って額に貼りついて、
 僕の左目は右目より少し透明だ。
 ソルと過ごした堤防にたどり着くと、
 目の前の黒い海に、
 大きなクリーム色のコンピュータを、
 僕はゆっくりと沈めた。
 脳内で高速に時間を経過させ、
 水底で朽ちてゆくコンピュータをイメージする。

 それ以来ティエラを見ない。
 永遠に。

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 ソルもティエラもいない世界はずっと曇り。
 謎の爆発音が止まない。
 瓦礫がどんどん積み重なってゆく。
 人々の表情は暗く翳り、船乗りたちの姿は消え、パン屋も潰れた。
 僕は街を出た。
 だけど僕は風景を以前より生々しく感じられるようになる。日射しは僕を邪魔者扱いしないし、風を吸い込んでも疎外感を覚えない。
 僕はラジオを持ち歩くようになった。あんなに大きなラジオだったけれど、音楽を聴くのに必要な部分は、切り出せば手のひらよりも小さかった。
 なんだってほとんどは装飾だ。
 中心の構造はシンプルにできている。
 どんなものでも。どんな感情でも。
 僕は旅をしている。
 街を壊して旅に出るなんて、それこそ陳腐なストーリーだ。
 失笑と諦めと可能性の日々。
 僕は旅をしながら、白紙を文字で埋めている。
 職場の棚からスーツケースに詰め込んだ大量の白紙。あの紙束は、ほとんどが白紙だったのだ。何か文字が書いてあったはずなのに。今となっては、クリーム色のコンピュータに自分が何を打ち込んでいたのか少しも思い出せない。
 僕は毎晩違う場所で眠り、毎晩白紙を文字で埋める。
 書くことで世界を再構築しようとしている。僕が世界の果てでいくら傷つき、うつむいていても、誰かにとってはたったの2分間を割く価値もない。
 僕はソルと再会するだろう。僕のことを待っていたソルと。僕のことを忘れていたソルと。僕に初めて会うソルと。どこかの場所で。どこかの時代で。あらゆる年齢で。無数の流れ矢が突き刺さった状態で。
 傷ついたソルは言うかもしれない。「直感でわからないことは一生かけてもわからない」とか「人間は少しも成長しない」とか「学ぶ必要なんてない」とか。
 たとえば戦場の野営地で。
 たとえばピアノリサイタルの楽屋裏で。
 たとえば教室の片隅で。
 呆れてはてた僕は「試験勉強くらいしたほうがいいんじゃない?」ぐらいのことは言うだろう。放課後の空気を感じながら。
 睨み合う僕たち。吹き出す僕たち。愛し合う僕たち。目も合わせない僕たち。どんな一瞬も二度とない。すべてはまぼろし。だけどそれは、いつも新しいまぼろしだ。誰かの夢が醒めただけで、僕たちは絶滅してしまうのかもしれない。すでに絶滅しているのかもしれない。1秒ごとに世界はつくりかえられている。僕たちは死にたいと思いながら笑い続け、成長したいと願いながら堕落し続け、逃げ回りながら、追い続けてもいるんだと思う。
 矢傷で血まみれの姿で。
 僕は白紙を埋め続ける。
 最後の紙に到達したら、その最初の1行目に僕はこう書くだろう。

 終わりに

 終わりに、と題された最後の1枚を、きっとソルは読むはずだ。
 僕の目の前で。あるいは僕のいないところで。僕が死んだあとで。僕が生まれる前に。どこかの国で。どこかの星で。どこかの暗闇で。新しい悲しみを抱えたままで。あいまいな鼻歌で。個性的なシャツを着て。いちばん新しい笑い声をあげるのだ。




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