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彼女が逝った日。

“サポート期間が終わっても、お互い成長し合いながら一生お付き合いできる関係性でいること”

私が、
お母さんの生き方とビジネスのサポートをする時にいつも大切にしている事です。


一生のお付き合い…



でも、
その彼女の一生は短かすぎて、
ちゃんと書き記すまでに1年かかりました。

12月7日の早朝に彼女が逝ったあの日。

もう1年。
まだ1年。


全くもって勝手ながらだけれど、
ようやく私自身、今日で喪があけた感覚でいます。

勝手に喪に服して
勝手にあけちゃう
ワガママな私だけども、
きっと彼女は目を細めて笑ってくれてるはず。


さて、
彼女の死から1年。


今まで書けなかった、
あの日感じたことをここに記録しておこうと思います。


彼女は、
小学2年と年長さんの2人の子育てをしながら、
将来有望とされ業界でも注目を浴びる鍼灸師さんでした。

私のところには、
ちょうどコロナで事業をオンライン化したい、
とのご相談で訪れてくださいました。

いくつものタスクをこなし、
有名ショップとのオリジナル商品を手掛けたり
医療業界からもお声がかかっていたり、
とにかく

“自分の使命にまっしぐら”

だった彼女。

彼女の活躍ぶりが分かるこちらの記事↓



そんな彼女から、
「脇が腫れてるのがちょっと気になるから婦人科行ってきまーす!」

とメッセージが来たのが昨年の5月のこと。


その後、
すぐに精密検査で乳ガンが見つかり、
翌週には抗がん剤が始まりました。

「祥子さん、なんと私、乳ガンでした!」
って絵文字たっぷりで元気に報告してくれたけど、

そこから目まぐるしく闘病生活へ。

体調崩しながら8クールの抗がん剤治療をやり切り、10月には手術。


予定通りに手術を終え、
退院後は日常生活に戻っていて
11月最終日にはSNSラジオも元気な声で配信していました。

抗がん剤も乗り越えて、
手術も成功した。

あとは良くなるばかり、
と誰もが思っていました。

ところが、
そこから急変したのが12月に入ってすぐのこと。

急に頭が痛み出して、
救急車で運ばれた時には意識はなく。

一週間経たず
そのまま帰らぬ人となってしまいました。

後から聞いた話しによると、
ガンが脳転移していたそうです。

倒れてすぐに、

ご主人からご連絡がありましたが、
その時はもう、
「お別れの時間が近づいてきたようです」
と書いてあって、

1年経っても、
あの時感じた、自分の体が沈んでいく感覚は今でも忘れられません。


葬儀は親族だけで、
ということでしたが、
ご主人がお声がけくださり、
親族の皆さんに混じって
私もちゃんとお顔を見てお別れすることができました。


で、
ここからが一番残しておきたい大切なところなのですが、

その葬儀の時、
お供えしてあるお花が、通常の葬儀に比べてとても少ないなぁと失礼ながら感じて。

でもその反面、
周りを取り囲む友人や知人から贈られてきたであろうお花はすごい数で。

本当に彼女のお人柄だなぁ、、、、と思ったんですが、余計に真ん中にあるお供えが小さく見えてしまって。

何でだろうなぁ…

って思っていたら、
後日、ご主人から聞いたお話で謎が解けたんです。


「元気な時から、あーして欲しいこうして欲しいという意思表示があったし、エンディングノートにも細かく書いてあったのでその通りにしたんです。」

と。

何て書いてあったんですか?

と尋ねると、

「葬儀にかけるお金はなるべく節約して、その分、子どもたちに残して欲しいって」


なるほど、
だからか…


お供えのお花がちょっと寂しいな、、、と思ってしまった自分が恥ずかしくなりましたよね(^^;

ホント最後の最後まで
尊敬する彼女の在り方を見せてもらいました。


あの日から1年。

あの時の
自分の体が沈んでいく感覚を払拭すべく
もがいて足掻いた1年だったと思います。

使命があっても人は死ぬ…

ならば何のために生まれてくるのか?

そんなやりようがない怒りのような疑問を探求すべく、自分の枠を超えて学びまくった1年。


ようやく動き始められる体感になってきました。


まずは、意思を伝えることから。


【わたしを伝えることを惜しまない在り方は、
命が途絶えてもなお、伝わり続けられる】
ことを彼女が教えてくれたから。



ありがとう。
またいっぱいお話しましょう。

追伸
訃報を聞いた日、
彼女の大好きなヒマワリを求めて何軒もお花屋さんを探しまわりながら、
「ヒマワリがない季節に逝くとか反則やん!」
って嘆いてましたが、
今年はたくさんヒマワリが店頭に並んでました。
お花屋さんが覚えてくれてたのかな?

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