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地図を見るということは最高のロマン巡りである

地図を見ながら飯を喰らう。それが私の休日の朝である。そしてあてのない旅行計画を練る。前々からではあるが、北海道は根室近くの春国岱に足を運んでみたいと思っているのである。
衛星写真からは本州では見られない独特の地形が見られ、またそれに付随した現地の写真も美しく、これはまさしく恋だと思うくらいにはずうっと見ていられる。

さてタイトルの話である。ロマン巡りとはどういうことなのか。
見たこともない地形を地図で眺め胸躍らせていると、どうしても付近の土地にも目が行く。「ああ、そういえばこの近所に昔行ったことがあるな」という感想が自ずと出てくる。そして当時足を運んだところがどんな地形であったか、周りには訪れていないいい場所はないか、と色々と地図の中で探してしまうのである。

春国岱を地図で見ているとどうしてもその北へと目が移る。そして思い出すのだ。網走・知床の記憶を。

当時、私はまだ高校生であった。6月に女満別空港に降り立ちそこからバスで網走市内に向かった。その道中では私が見たこともないくらの青々と高い空と、鬱蒼と生い茂る木々を目にしたのだ。反対側には大きな網走湖が見え、到着して30分以内にその北の大地の自然のあまりの大きさに驚きを隠せなかった。
網走から知床に向かう道も真っすぐで、両脇には牧場だろうか、畑であろうか、広大な農地がただただ広がり、遠くまで永遠と続く緩やかな傾斜を目で感じた。そう、これは私が生まれて初めて見た地平線というものであった。
同じ日本とは思えないほど穏やかな風景がそこに広がっていたのである。

知床半島を通る道はオホーツク海に面していた。左手にはオホーツク海、そして右手には雄大な知床の自然があり、道中で鉢合わせた子熊も可愛らしかった。だがそれ以上に印象深かったのは夕焼けがオホーツク海を照らしている風景であった。海に突き出した背の高い蝋燭のような岩を背に海へ沈みゆく太陽。海は穏やかで黄金色にてらてらと輝いている。当時はそこまで心揺さぶられてはいなかったが、今私が同じ景色を見ると涙せずにはいられないだろう。
もうあの時と同じ景色に巡り合うことはないのかもしれないが、また北海道に出向きたいのだ。そんじょそこらのテーマパークよりも心を揺さぶってくるあの大地へ降り立ちたいのである。

ただただ思い出に入り浸っているだけではならない。自分の目で見たくなってしまう。そうなるとむやみな計画を立て始めざるを得なくなる。
私の中で北海道へ再度降り立つ際のプランには「作戦:北への逃避行」という名をつけている。地図で見ている根室に赴き、春国岱を記憶に焼き付け、車などで北を目指す。辿り着きたるは約束の地、「知床」。ただの旅行プランであるが、逃避行とつけたのは詩性を協調するためだ。ただただお遊びで北海道に行くのではない。もっとハードコアな旅を私の体は求めている。文化的ではあるが熱く。これがモットーである。
本当に出来るのか、それは分からない。北の大地は本州の人間が思い描くよりも遥かに広大である。砂上の楼閣、杞憂、絵に描いた餅、机上の空論、など言われるかもしれないが、妄想に妄想を塗り重ねた計画―というより小説のワンシーンめいた何か―を立て、いずれは実行したく思っている。

ただ、ここで問題が発生する。出不精を極めている私はどうも実行に移すということが出来ない。この計画が果たされ、無事、北へ逃避行できる日はいつになることやら。

それはそうと、私は水辺の風景に弱い。今でも覚えているが、幼かったころ旅行で四国に連れていかれたことがあった。とうとう旅行の最終日に車で大阪に戻る途中、瀬戸内海に面した道路を通った。そこで見た景色は、本当に美しかった。
水面は穏やかでほとんど凪いている。そこに西へ沈みゆく夕日が温かい日差しを瀬戸内の海へ投げかけている。瀬戸内の海は優しくそれを反射し、キラキラと橙色に輝いている。あの風景ももう一度、いや何度でも見に行きたくなる。
そしてその景色を地図を見て思い出すのだ。

やはり地図はロマンの塊である。

また、手軽に見ることのできる地図は新たな欲求を私に与えてくれる。まだ目にしたことのない、美しい景色がこの世界には広がっているということに気付かされるのだ。だからこそ早く出不精を脱却せねばならないのだが、「寒い」だの「暑い」だの「遠い」だの「金がない」だの、ありふれた馬鹿げた理由をかこつけて、結局は家から出ない。
これだけなら第三者の介入によってまだ克服できた可能性はある。しかしもう一つ、難解な私の性質があるのだ。
実は家の窓から見える景色も美しいのだ。なんてことはない住宅街ではあるが、私が昔生まれ育った場所とは違った景色が広がっている。冬の弱い日差しが刺す玄関前も、残雪が凍り付いたアスファルトの道路もそれはそれで良いのだ。温かい部屋から見えるそれらの景色を、もちゃもちゃとみかんを食べながら見るのもなかなかに「乙なものだ」と思ってしまう。全く持って良い暮らしをしていないのに「良い暮らしをしている」と思ってしまう。

恐ろしいことである。所謂「心まで年をとってしまった状態」ということであろうか。だが、そうして過ごす日々もそれはそれで贅沢なのかもしれない。そうしてまた好みの音楽を再生しながら地図を見るのだ。ああ、今度は山陰地方にも行きたいなあ…

果たしてどうなるのであろうか。さらなる地形と巡り合うことは出来るのであろうか。ううむ、自分でも自分の行く末が見えないというのは何とも謎な現象ではあるが、あまり期待せずにこの寒い2月を過ごしたいと思う。

#日記 #地図 #地理

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