エロと哲学的思考①

第一回「導入〜「えっちさ」の正体~」

久々の投稿でこの題名はいかがなものかと、私自身戸惑いを隠せない。そしてこの題名をご覧になられた方々は「なにやら危険な語句が並んでいるな」なんて思ったはず…
冒頭から謝罪調となり、非常に申し訳なく思うがこのページには決して年齢制限を設けるような画像は登場しない。期待された諸兄方には本当に申し訳ない。言い訳がましくなってしまうが、このページを誰もがアクセスできるコンテンツとしたかったのである。
そしてもう一つの謝罪がある。これはあくまで私の今までの経験、知識を基に思考したものである。そのため、間違った部分も多少なりと出現するに違いない。だからこそ真に受けず、1つのジョーク記事フィクションとして受け取っていただきたい。

なぜこの題名なのか
かの有名なハーバード大学の教授であるマイケル・サンデルは「哲学はごく身近な設問から深めることができる」と仰っており、彼はそれを体現するかのような授業を展開している(マイケル・サンデル『ハーバード白熱教室』より)。
彼の言葉に感化された私は、全国健全青少年たちの夢を具現化させた映像作品の数々から、数多くのことを学べるのではないかと思ったのである。
本当にマイケル・サンデル氏が正しいのであれば、健全な日本男児たちの股間に疼く本能という、理性とはあまりにもかけ離れた場所から生まれたそれらも、きっと論理的説明という理性の塊のようなものに昇華できるはずなのである。

ちなみに私は至って真剣である。この文章を書いている私の表情に笑みは一切ない。
この議題は、一人の男というもの、そして生物的なオスというものの限界点への壮大な冒険〈Journey〉だと私は考えている。
何故なら、男、もといオスの本能の欲望の具現化である『アダルトコンテンツ』を一つの論理的教材にしようとしているのだ。本能とは本来、理性とは真逆の立場にあってしかるべきものである。それをどうにかして理性によって説明し、展開しようというのである。

話は少しそれるが、皆さまはあの伝説的テレビ番組である『藤岡弘、探検隊』をご存じだろうか。遠い熱帯のジャングルの中、どんな些細な物音にも真剣な男くさい鬼気迫る表情と、全てに濁点が付いているような声でリアクションを取る、「漢、藤岡弘、」。
今、私の表情もあの時の彼と同種のものになっているのだ。
文章で伝わるかは分からぬが、それほどまでに私は真剣なのである。

(まさしくこの表情である)

さあ、大きく出てしまった。果たして"オチ"はあるのか、続きはあるのか、心配は尽きないが、お付き合い頂けると大変うれしく思う。

「アダルトコンテンツ」と「えっちだ」という認識

■ここでの定義
聡明な皆さまにとっては必要のない作業を強いて済まないと思うが、ここではまず、今回の教材である「アダルトコンテンツ」の辞書的な意味を見てみよう。

アダルトコンテンツとは、成人向けのメディア (媒体)コンテンツを指し、暴力的・性(アダルト)的要素を含んだコンテンツのことを言う。広く一般的には、Web上の性的要素を持つアダルトサイトを示す。通常、「18禁」もしくは「20禁」に指定される。 パチンコ・競馬などのギャンブルもアダルトコンテンツとみなされることがある。(Wikipediaより)

ここで扱う「アダルトコンテンツ」とは引用文上部にあるものを指して展開したいと思う。つまり「えっちな内容が存在するもの」である。それ以外については述べるつもりはない。
これから先、私は「えっちなもの」を「論理的な問いかけ」に還元していく。皆さんの中に今の宣言を耳にして、胸躍る方がいらっしゃれば私の同士である。今後とも末永くよろしく。

■「性的(えっちな)要素」の正体
 ・キワドいグラビア本の陳列問題
さて、議論する内容についての定義を決定したところで一つの疑問が生まれてしまった。それは「性的(えっちな)」という形容詞がどのような状態を指し示すのかというものである。

「そんなもの簡単ではないか」と思われる方が多数かも知れないが、よく考えて頂きたきたいと思い、以下に問題を提示する。

問①あなたは幼稚園、小学校、中学校、高校に囲まれたところに位置する巨大書店の店長だとしよう。もちろんこの書店には日々多くの学生や親子連れが訪れる。さらに嬉しいことに18時以降になると仕事疲れのサラリーマンの方々も訪れる。そんなとても繁盛している書店の内部の陳列方法は基本的にあなたに任されている。「これは普通の本だから、店の中の皆が見える所に…これは裸の女が写っているからカーテンの奥(18歳未満立ち入り禁止のあれ)に…」そんな風に本を陳列していた。ここでとある本が出てきた。キワッキワのスリングショット型の水着を着た女性が表紙に写るグラビア本である。 さて、店長であるあなたはこの本を皆が見える位置なのか、それとも奥の18歳未満立ち入り禁止のところに隠すのか、どちらに陳列するだろうか。またそこに陳列するとすればその理由は何であろうか。

書店に訪れる人はまさに老若男女様々である。「若」どころではなく「幼」も含まれている。そんな中にキワッキワの水着グラビア。もちろん裸体があるわけではないため、18禁ではない。だが、幼い子供も訪れるこの書店。非常に困ったものである。

さて、非常に困った状態にあるあなたは部下の意見を訊いた。
するとこのように返ってきた。
まずは「皆が見える位置に陳列する」という立場の意見である。
例えば以下の理由があるだろう。

「皆が見える位置に陳列する」理由・裸体が写っている訳でもなく、18歳未満閲覧禁止でもないため手前でもよいだろう。・画集などでは平気で裸体が写っており、それらの画集は皆が目に着く位置に大概ある。それは美術品として扱われているからである。グラビア本もその1つであるとも考えることができ、別段18禁コーナーに置く必要はないのではないか。等々…

それに対し「奥の18歳未満立ち入り禁止コーナーに陳列する」立場の意見はどうであろうか。

「奥の18歳未満立ち入り禁止コーナーに陳列する」理由・18禁ではないものの、子供の教育上よろしくないので隠すべきである。・キワッキワの水着写真というものは青少年に対し多大な悪影響を及ぼす可能性があり、それを皆が見える場所に置くことは望ましくない。等々…

「皆が見える位置に陳列する」方の意見は「『決まり』の範囲内であるから」といった側面が非常に強く、逆に「奥の18歳未満立ち入り禁止コーナーに陳列する」方の意見は「教育上の問題」の側面が非常に強いことに気付く。
「決まり(18禁ではないということ)」がまかり通るのであれば、後者の意見は出現しないはずである。しかしながら、「教育上ふさわしくない」として反論している。

  ・後者意見の分析
では、後者意見の「教育上の問題」とはいったいどういうことなのだろう。恐らくそこには公共の場において言いにくい理由が多々あるであろう。
それをかみ砕くために以下にとある健全な男子中学生のお話を載せようと思う。

健全な男子中学生の話(この手の話が嫌いな人は飛ばしてください)「おい、お前、女のアソコの名前知ってるか?」それが一つ上の先輩と部活以外で話した最初の話題であった。僕は戸惑う。男のアソコについては知ってはいるけど、女のアソコの名前なんて聞いたこともない。なんなんだろう。「なんなんですか?」「お前、そんなことも知らねえのかよ!」大笑いしながら去っていく先輩。僕はそのことが気になって仕方がない。でもこんな話、お父さんやお母さんには絶対に言えない。そうだ。皆が寝静まってからパソコンで調べればいいんだ!深夜、少々の罪悪感を抱えながらパソコンで調べてみる。「『女のアソコ』っと…」なるほど。そういう名前なのか。ちょっと画像検索してみよう。このときは単なる好奇心であった。どんななのか見てみたいと少しだけ魔が差したのである。「…!!」僕は声にならない声が出そうになった。なんだこれは。女の人ってこんなんなのか…すごい…それからというもの、僕は毎晩、家族が寝静まった後にこっそりパソコンで見る様になった。いや、まだ見るだけならいい。僕は一つ「遊び」も覚えてしまった。それからというもの、狂ったように僕は親がいないときにパソコンを開き、そわそわしながらも、そういったページを見るようになっていったのである。

なんとなくお分かりいただけたであろうか。上記の文は思春期真っ盛りの健全男子中学生の話(フィクション)であるが、まあ思春期の男というものはこんなものである(時代によってメディアは変わるもの皆が通る道だと思われる)。
しかしながらこの年頃は、親としては勉学(教育の部分)に励んでほしいところであろう。そんな中に現れたる、キワドいグラビア本…親御さんとしてはさぞ心配であるだろう。そう、自分の子供が「狂って」欲しくないのだ(これは親御さんの経験主義的・感覚主義的思考から来るものである)。

つまり、「決まり(18禁ではないということ)」に対抗しているのは保護者目線の意見なのである。
保護者達も皆等しく思春期を経験しており、その経験から子供を誘惑するものを遠ざけようと思ってしまうのである。保護者の目線からすれば、このグラビア本は「性的(えっちな)要素」を含むものなのだ。だから隠してほしいのだ。

  ・前者意見の分析
では、一方の「『決まり』の範囲内であるから」どこに陳列しても良い、とする前者の根源は何であろうか。
そもそもどうしてこのグラビア本は18禁ではないのだろうか。ここから問いかけを始めよう。

理由としてはこのグラビア本は「過度な刺激がないから」18禁にしなかったというものが考えられる(参考までに「成人向けの本について」)。
これはあくまで出版社や出版業界においてなされる作業であり彼らの見解の表れなのである。
とすれば、このグラビア本を出版した出版社は少なくともこのグラビア本を「性的(えっちな)要素」のないものとしてしているのである。

真っ向から対立する意見
さて、ご覧いただいたように、前者と後者では「性的(えっち)かどうか」について真反対の意見が出ているということに気が付かされる。

1つのコンテンツを見て「これはえっちだ」という意見と「これはえっちではない」という意見の両者が存在しているのである。
当たり前と言えば、当たり前なのかも知れない。

例えば衣服を着用した女性の自撮り写真を見たとしよう。その時、どういった感想を持つだろうか。
「かわいい」「ブスじゃん」「自己アピールかよww」といったものもあるだろうし、「ふーん、えっちじゃん」「エッッッッッ」「チ◯コビンビンですよ」などといったものもあるだろう。
「かわいい」「ブスじゃん」「自己アピールかよww」というものは単純な評価である。これは女性の自撮り写真を「えっちな」ものとして認識していない。
しかしながら、「ふーん、えっちじゃん」「エッッッッッ」「チ◯コビンビンですよ」は明らかに「えっちな」ものとして認識している。
つまり、個人個人によって我々の感覚というものは大きく異なるのである。

厳格すぎる家庭の思春期男児の苦悩
「えっちだ」とする認識において差があることは散々述べたが、その差の正体とは一体何なのであろうか。ここに1つ考える材料として「あるかわいそうな少年」の例を示す。

とある少年の家は教育方針により、極端に少年の行動を制限した。門限も18時。ちょうど部活が終わって直帰する時間である。土日は常に勉強させられる。ネットもテレビもダメ。それどころか本に関しても両親の検閲をクリアしたものでないと許可が下りない。幼い頃の少年はそんな環境でも日々楽しく暮らしていたが、成長とともに息苦しさを感じていた。そう、彼に思春期が到来したのである。体の発育は残酷なもので、これまで必要としていなかった、「えっちさ」というものを求めるようになっていた。どうにかして「えっちなもの」に辿り着きたい。だが、この両親がいる限り、世間に溢れんばかりの「えっちなもの」達は少年の元には届かない。真面目な少年は絵を描いて、少年のあまりに元気すぎる下半身を鎮めようとした。だが、途中で少年は気がつく。「両親にこの絵が見つかればどうなってしまうのだろう。」あまりに恐ろしい結末を想像してしまった少年は絵を描くことを放棄した。何とか自分の頭の中でコンテンツを作り出そうとした。だが、鎮める作業のとき、その想像がどんどん曖昧になる事に少年は気づいていた。本能に身を任せている間、脳の機能は著しく低下していたのである。悩み抜いた挙句、少年は紙に2つの丸と棒線で女体のメタファーを作り上げたのである。はたから見れば、幾何学的図形にしか見えない。少年はそれを元に下半身の地鎮祭を行った。結果は成功であった。あまりに「えっちな」コンテンツに辿り着けなかった少年はこの幾何学的図形から「えっちさ」を見出したのである。

どうしてこの少年はただの図形から「えっちさ」を見出したのであろうか。それは2つの丸である。彼は単純に乳房を模して描いただけであったのだが、それが彼にとっては下半身の疼きに応える「性器」の役割を果たしていたのである。

この少年は単なる2つの丸を”性器性”のあるものに昇華させた。その結果、彼は地鎮祭に成功した。
つまり、「えっちさ」とは与えられた視覚情報から”性器性”に昇華できるかどうかがポイントとなるのではないだろうか。

問①での意見の対立や、先程の自撮りの女性像への認識の差はこの「かわいそうな少年の例」の考察が雄弁に語ってくれる。
問①においても、自撮りの女性像の例においても、与えられた情報から”性器性”を見出せたか否かが、個人個人の認識、はたまた行動に多大なる影響を与えると考えれば良いのである。
かわいそうな少年は2つの丸から、キワドいグラビア本を目につく場所に陳列することを躊躇った人々はこの本の表紙の女性から、自撮りの女性像に「ふーん、えっちじゃん」と言った人々は写る女性の何かしらのパーツから”性器性”を見出したのである。
これが「えっちさ」の認識の差である。

そして同時に「『えっちさ』=性器の発見」という等式が成り立つということが示されたのではなかろうか。

総括

ここに「えっちであること」とは「性器(性)を発見すること」であると私は結論付けた。しかしながら、同時にこれはあくまで私のこれまでの経験や持っている知識を通して思考した結果であり、「そうではない」とする人も多数存在するだろう。
そういった方は是非、今夜のオカズを選別する時に「自分は何を基準にして選んでいるのか」という素朴な疑問を持っていただきたい。そして、自身のエロ哲学を昇華していただければ私はとても嬉しく思う。

そしてもう一点、この議論の中で「えっちだ」とするポイントが人によって異なることも暴かれてしまった。この点を考えるにあたってはフロイト心理学や進化心理学(ダーウィニズム的心理学)や学習心理学分野のオペラント条件づけの観点からも探る必要があると私は考えている。

次回は「おっぱい派・尻派論争」から「アダルトビデオにおけるモザイクの功罪」についてお話しできればと思っている。
それではまた会う日まで。

#エロ #哲学 #えっち #論理 #議論 #エッセイ

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Hajime Mashita

エロと哲学:一覧

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