サザエさん症候群の「裏」には何かある。

「サザエさん症候群」という言葉は今だに使われているのでしょうか。そもそもテレビを観ない(持たない)人が増えている中、どの程度の人がリアルタイムでサザエさんを視聴しているのか…と思いますが、要は「サザエさん症候群」とは「休み終わって欲しくねえ〜仕事(学校)行きたくねえ〜」という気持ちになることです。

何故サザエさん症候群が起きるかという話になると、上記に挙げた通り「仕事(学校)に行きたくないから」ということになるのだろうけれど、これは正しくも誤りであるとも思います。本当に考えなくてはならないのは、「何故仕事(学校)に

行きたくないのか」ということであり、そこに「本当は自分はどうしたいのか」「自分はどう生きたいのか」が隠されているのだろうなと感じます。

かく言うわたしもサザエさん症候群に陥っていたのですが、それを深掘りしていくと「仕事は好き」「仕事がしたくないわけじゃない」という気持ちが出てきます。それなのに何故気分が落ち込むのかと言うと、それ以上に「意味のわからない年功序列という制度に抑圧された環境」「多様な個性を認めない環境」「人格否定がいともたやすく行われる環境」「忖度と矛盾が多い」とまあ、昔からある日本の企業には割とありがちなものではあるんですけれど、そういったものが馴染まないんだなあとわかるわけです。つまり、それがない世界で生きたいし、そうできる環境を作っていけるようになりたい。そのために何が必要なのかはまだ考え中ですが…(ただ、スキルも知識も足りてないことはわかります。足りてないことは残念ですが、足りてないことを知らないよりはマシかなあ、現時点ではそれだけできてるだけでも十分かなあという気持ちもあります)。まあ色々望むことはあるんですが、とりあえず今はせめてトイレくらい人の目を気にしないで行ける環境が欲しい…今は暗にトイレも制限されてるので…わたしの人権はどうなってるんでしょうか(笑)

と、わたしの社会でのトイレ事情はさておき。わたしは本来、人と人とは対等な立場であり、互いに尊重されることが幸せだと思っています。勿論、それを綺麗事だとか理想論だとか思われることも多いと思いますが、そうであることで誰が不幸な思いをするのか、という話です。理論上ではいないはずなんです。だってその理論だと誰もが存在意義を認められているはずだから。

多分、それによって「不幸」を感じる人というのは、自意識の中で自分を無価値だと思い、他人が自分よりも「持っている」と思い込んでしまっている人なんじゃないかなあ、と。

勿論、わたしも聖人君子ではないので、「いいなあ」「羨ましいなあ」と思うことってたくさんあります。ただ、それをどう「憎しみ」に変えないか。どうしたら相手と自分のギャップの差を埋めることができるか。努力の方向性をどう決めるか。同じように感情を何かに割くのであれば、そちらに使う方がよほど建設的だなあと感じます。

ただまあ、それを許してくれない環境が多々あるのも事実なのでフラストレーションが溜まるわけですが。わたしはそんな環境でうんうん唸っていたらおかげさまでこの2週間は1日3時間程度しか眠ることができず(せっかくの夏休みだったのに思い悩みすぎた…)、それでも精力的に活動してた結果、昨日とうとう限界がきて死んだように寝てました。食事とトイレと風呂という人間として最低限のこと以外ほぼ寝て過ごしていたらだいぶ回復しましたが。人間睡眠マジ大事…と思うのと同時に、「なんだかよくない消耗の仕方をしているなあ」とつくづく感じました。時間的にも肉体的にも精神的にも。「消費」ばかりだと削れていくばかりでいつかは脆くなって破綻してしまう予感がするので、上手いこと「肉付け」をしていって能力も肉体も精神も満足度を上げて強固にしていきたいものです。

頑張りすぎず、でも強く。お盆明けの月曜日。憂鬱かもしれませんが、一緒にやっていきましょう。




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