「言葉」が与える影響力の計り知れなさよ。

当然だけれど、「感情」は表に出しているものしか人に受け取ってもらえない。

その「感情」を表にあらわす手段の一つが「言葉」なわけだけれど、この「言葉」というのは本当に上手く使わなくてはならないよなあ、とつくづく思う。

そんなことを考えたのは、誕生日が近い父親にプレゼントを贈ったとき、生まれて初めて素直にお礼を言われたことがきっかけだった。

わたしの父親は基本的に「謝罪」と「感謝」ができない人間である。正確には、「謝罪」と「感謝」を「言葉に」できない人間、という表現が適切かもしれない。

例えば、父親は自分の思い込みや勘違いで人を怒鳴りつけることが多々あるのだけれど(まずとる手段が「怒鳴る」ということなのはどうなのかと思わないでもないけれど、それは一先ず置いておく)、その間違いを指摘すると「紛らわしいことをしているお前が悪い!だいたいお前は日頃の行いが〜」と逆上する上に関係ないことに言及し始めるので、ついこちらも「なんでじゃ!それ今関係ないやんけ!」と反論したくなってしまう。取り敢えず、自分が悪くても折れることは絶対にない。

そしてこれは「感謝」も同様で、今までは誕生日プレゼントをあげると、開口一番に「これはもう持ってる」やら「色が爺くさい」「シャツの丈が長すぎる」などと、何かと難癖をつけてきた。この前にワンクッションでも「ありがとう」とか、少しフォローの言葉が入っていればこちらもそこまでもやもやとすることもないのだけれど、いきなり否定から入ってくるので衝撃が大きい。石で頭をぶん殴られているような感覚になる。

無論、プレゼントというものはあくまでこちらの「気持ち」であり、ある種の自己満足に近いというのは重々承知しているのだけれど、それでも贈る側としては「喜ぶ顔が見たい」という気持ちが多少なりともある。それ以上の見返りを求めるつもりはない。なんなら「『贈りたいと思った』という気持ちを受け入れてもらえる」だけで十分なのだ。しかしそれを初っ端から弾き返されてしまえば、落胆するというのが通常であると思う。

そんなことを約30回ほど繰り返してきたのだけれど、今回は離れた場所にいることから人伝にプレゼントを渡したところ、「プレゼント受け取ったよ、ありがとう!大切にする」とめちゃくちゃ素直なLINEが来た。その文章を見た瞬間にわたしはつい「これ、本当に父からのLINEか?」と疑って、送信者名を三度見くらいしてしまった(なかなかひどい話なのは自覚しているが、上記の経緯を踏まえて「そうなるのも致し方ないか」と感じていただければと思う)。

あとで冷静になって、わたしは父に対して勘違いしていたのだと思った。父は「感謝」や「謝罪」ができないのではない。思っても「口に出せない」のだ。それがプライドに因るのか単純に素直じゃない性格なのかは考えるつもりもないというか考えても意味がないことなので深掘りはしないが、「謝罪の言葉が出せない」のは「気まずい」から。「感謝の言葉が言えない」のは、「照れ臭い」から。そういった気持ちがあるのではないかと推察する。

しかし、人は繰り出された言葉の「表面」しか受け取ることができない。実際、幼い頃からわたしはプレゼントを贈るたびに、父親に「拒絶」されているような気分に陥っていた(それでも何故プレゼントを贈り続けていたかというと、「家族だから、誕生日にプレゼントはあげるもの」という刷り込みもないことはないけれど、やっぱり父親に「喜んでほしい」からだったのだと思う。わたしは父親のことは「苦手」に思っているが、決して「嫌い」なわけではなかったから)。

これがまた「親」からの言葉だというのは、結構厄介だと思う。知人程度の関係なら、こちらからさっさと距離をとるなり、いっそ関係を断ち切るなりと対処することができるが、「親と子」というのはなかなか断ち切りがたい部分がある。特に「親」から「子」への言葉の威力というのは絶大で、人格形成にも大いに影響してしまう。それは一番身近に存在する人間だからだろう。特に幼少期は「親」の存在が絶対である。それは言い換えれば「親」の「言葉」が絶対なのだ。肯定的な言葉をずっとかけられれば自己肯定感は育つし、否定的な言葉を常に浴びていれば逆の結果になる。わたしは後者だったので、つい最近まで自己肯定感は異常なまでに低かった。最近一人で暮らし始め、「自分の考えで行動し、結果を出す」ということを少しずつ積み重ねてきて、漸く自己肯定感が向上してきたところである。言わば自分の「育て直し」だ。

勿論、子育てというものはとても大変なものだと思う。親だって人間なのだから、機嫌がいいときもあれば悪いときもあるし、何かしらの信念があって子どもに接するのだろう(と思いたい)。そもそもわたしは「育てる」側に回ったことがないし、諸々の事情があって恐らく「育てる」側に回ることはできないだろうと思っているので偉そうなことを言える立場にはないのだけれど、それでもやっぱり、「子ども」と接するときの「言葉」は「大切にしたい」と思うし、「大切にして欲しい」とも思ってしまう。

年齢的なこともあり、わたしの周りにも「親」になる人間が増えてきた。先日、たまたま2組の親子と同時に接する機会があったのだけれど、片方は伸び伸びとした教育をし、もう片方は割と厳格な教育方針であることが伺えた。

わたしが2組の親子に対峙して「おおっ」と思ったのは、親が「拒絶から入らない」ことがこんなにも心地よいものなのか、ということである。自由に育てる方針をとっている、というと「放置しがち」に思えるかもしれないが、そういうわけではない。その親も、悪いことをしたら当然叱る。ただ、「叱り方」が上手いというだけで、納得感が全く違うのである。

その親は、叱るときに「今、こういうことがあったよね。ママはそれを見て悲しい気持ちだったよ。○○は自分が悲しいとき、どんな風に思う?やめてって思わないかな。ママも同じ気持ちだったよ。次から気をつけようね。ところで、どうしてそんなことしたの?」と、感情的になることはなく、理論的に、子どもの気持ちにより添った「叱り方」をしていたのだ。わたしはどちらかと言えば「厳格」をモットーに育てられた側であり、「叱る=怒鳴る、押さえつける」が当たり前だと思っていたので、「こんな方法があるのか」と目から鱗だった。余談ではあるが、わたしもそんな風に育てられたかったなあと思い、思わず「ママ……」と呼びかけてしまった(普通に「お前のママじゃないからやめろ」と言われた)。

自由に育てるのも厳格に育てるのも、どちらもきっと間違いではない。前者は「子どもの自主性を尊重したい」という思いがあるのだろうし、後者は「子どもが将来苦労しないように、今からしっかりとマナーを教えたい」という気持ちがあるのだろう。どちらも「子どものことを考えている」ということに変わりはないし、その思いを抱けるということは素敵なことだなとすら感じている。ただ、威圧的な言葉を使うのではなく、気持ちに寄り添うだけで、子どもの成長は全く違うのだろうなあと思わされる出来事だった。

たまたま「親子」関係で思わされることが多かったためにそのようなエピソードが続いてしまったが、勿論これは子育てに限った話ではない。友人や同僚、目上の人、どんな人に対しても「気持ちに寄り添う」ことや「気持ちを汲む」ことは、きっと大切なのだ。そしてそれを、きちんと「言葉」にすることも。

「言葉」は強力な武器、或いは薬のようなものだ。正しく使えば自分や相手を守ることができる。使い方を誤れば、自分も他人も傷ついたり壊れたりしてしまう。なるべく自分は前者の使い方をしたいなあと、改めて気を引き締めた。

とは言え、わたしの語彙はどうも独特なようで、何か感動するとつい「お前、さては天才だな……?」とか「神が過ぎるな……」などと大仰な言葉を持ち出しがちなので、「大袈裟!」と笑われてしまい、あまり真剣に取り合ってもらえないこともあるので(本心なのに……)、もう少し「適切さ」とか「加減」みたいなものも覚えなくてはならないなと感じている。前向きな言葉をポンポン言えばいいというものでもないらしい。言葉って、本当に難しい!と、わたしの情けなさマックスなエピソードを付け加えたところで、本日はお暇させてもらおうと思う。






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