見出し画像

「性自認を尊重」する「自認尊重主義」が向かうところ。トランスイデオロギーと包括的性教育にまつわるあれこれ

空想というか考え事。主にLGBTQ+とは?から膨らませたものだ。
性自認のイデオロギーとは? ジェンダーイデオロギーとは?
社会は性自認を皮切りに、全ての自認を尊重する動きとなるのか?
いや、ならないなら性別の自認のみが可能とは不公平ではないか?
そんなこんな、なかなか馬鹿げた社会になりそうだなあ、と。


わたしはペニスフォビアだ。
それを治療すべきと思わないほどに憎悪がある。
だからペニスのある女性を同性とするなんて無理。
わたしはペニスも使った性加害で生活すら困難にあり、そうさせた致命傷をも与える武器との区別をするなと言われることに憤る。

例えば、土佐犬に噛まれ九死に一生を得たとき、他の大型犬と躊躇わず接することが、あなたには出来ますか?
可能なら危機意識の欠如を疑う。
死ぬかもしれなかった怪我を負わせた犬の一種でも、「ハスキーは陽気な子なの」と言われたら、恐怖心も消え失せますか?
ハスキーは平気? じゃあ、犬の中でも獰猛だって言われるピットブルではどうですか?

犬と人間は違う。その通りだ。
けれども、性被害のトラウマを軽視する社会に失望する。

性被害のトラウマで男性に恐怖を覚えるようになったことには、治療すべきでも、それを強いる方は当然に権利として認められる、守られるとされる、活動とは一体なんだ?

その人の死にたいほどの苦しみである、自認の性別と社会からの評価や認識との解離には思いを寄せられても、実際に自殺者もいる、性犯罪の被害者の心やトラウマは治療すれば良いだけで、苦しみそのものも軽視されているというのは、本当に解せない。

死ぬほどの苦しみを抱えているのに、どうして性被害者の苦しみより、トランスの苦しみの方が上位にあるとされているのだ?

自殺者が出るんだぞ!自殺してもいいのか!?と脅すようにして黙らせようとするのが正しいのか?
こっちだって、あなた方の押し付けで、自殺者が出るけれでもいいんですか?自殺しますけどいいですか?と対抗するのが、正しいということになるのかもしれないが、その脅しの卑劣さは知っているから、しないでいたわたしたちは馬鹿なのでしょうか?

自殺したとて、大袈裟だ、心の弱いとして嘲笑われてきた、性被害者というのは、一体何なのでしょうか?

ペニスフォビアは女性の基本と考える。
性を開放すれば、身を滅ぼしかねない女性の身体ゆえのことだ。
妊娠の恐れがあるからだで、奔放に性行為に及ぶことが如何に危険であるか。よく知りもしない男性のペニスをからだで受け入れることは、女性として健康的な暮らしすら害するのだ。
だから、見知らぬペニスを恐れる気持ちは必要な感覚である。
もし、そうでいとしたら、本当に愛する人が誰であるのかすら重要ではなくなるのではないだろうか?

ときに、愛情より性的なことを上位に置き、心的な繋がりを希薄に、性的な快楽重視で共に生きる人を選ぶのなら、人間の知性や、美徳としていた道徳や倫理すら、もはや理解できないということになるのではないだろうか。
それを進化と呼ぶなら、滅亡のための歩みとなるだろう。
誰彼構わず性行為をしない、性的な行為は愛し合う人との特別な幸福。
それをする唯一の相手を選択すること。
その概念すら全く違うものになるってしまう恐れすらある。

それを後押しするかのように、包括的性教育という教育もはじまった。
性の解放をうたうかのように、性技なども教え、肛門を使う性行為、フェラチオの仕方、そんなものばかりを教え、性的なことは恥ずかしくなんかないのだと子供たちを洗脳しようかというムーブは、性自認やLGBTQ+と同時期に広がりはじめた。
これに因果関係はないのか?

自己をどう表現し、性のことをしっかりと考え、ときに性的快楽を重視し選んだ相手を一応、愛してみようか?
いつか満足できなったら相手を変えようかな?
何人ものパートナーを持っていればいいじゃない?

そうなれば、もはや愛情なんてもの自体は尊くもない。
愛情の概念すら、愛し合うという意味や意義すら、違うものになるくらいに、赤の他人のペニスに何とも思わないことは繋がるのではないだろうか?
考え過ぎだろうか?
でも、わたしは考えすぎることも一興かと存じます。

事実としてペニスとヴァギナが出会うことでしか生殖はない。
しかし、全ての人の性自認を尊重し、異性愛や同性愛の定義も覆る中、都合よく結合する2つのそれが現れるなどお伽話のようではないか。

結局のところ、生殖には医学的な男女、精子と卵子しかないのだから、自認する性別より生得的身体、医学的根拠に基づいた性別で男女とすべきである、が自然な流れであると考える。

お伽話のような、運命的に出会ったのが、たまたま自認以外の部分が男女であったという生殖があるとして、そんなにもロマンティックなお話を、社会的に押し進めているのは、一体何なのだ?
それとも誰もがフリーにセックスする、全人類が性的に逸脱した社会にしたいのか?

きっと、自認の性のみとなった世界では異性愛者は異端になるだろう。
そもそも異性であること同性であることを、他人が何を持って指摘できるのかすらも不明になるのだ。

性別を自認するのは自由、性愛も自由なのに、そんなことに拘る必要もない。
そもそも性別に何の意味があるというのか。
見た目も性器の形さえも関係もないという社会に性別は何のために存在する?

性自認を社会で押し進め、全人類がそれらに抵抗もなくなれば、性別の認識など形式のみになり、意味を成さなくなるだろう。

事実として、生殖には、女性の臓器が作る卵子と、男性の臓器が作る精子が必要だ。そして女性の身体にしかない子宮で胎児を育んで、出産すしなければならない。

性自認はともかくとして、快楽を重視するなら、性行為では男性器と女性器が惹かれ合うことになることは、きっと当然の結果であって、それは皮肉なことだ。

それら事実と社会や学問はどう向き合い続けるのだろうか。

性別が男女のみであるから保たれていた社会の秩序は、性自認主義の社会ではどうなるのだろうか。
医学的性別で、身体的な能力の差、ホルモンの影響、行動や言動の動機付け、脳の発達の速さまで違うらしいのに、それを無視した自認の性別を尊重しどんな秩序を保てるだろうか。
男女の差、体格や腕力、体力の差、内臓の機能の違い、これら医学的根拠に基づき、得意と不得意を補い合ってきたとも言える歴史の中で、結局のところ染みついた男尊女卑思想と戦うフェミニズムを中心に、医学的な男女差等を考慮した現代で真の男女平等を考えよう、整えようというムーブが未だに前途多難であるというのに。
社会はジェンダー平等を、男女平等を差し置いて進めはじめた。いつ、男女の平等は実現したのか。いや、してなどいない。
それなのに、男女の歴然とした様々な違いすら無視した姿勢で、男女の平等すらもできていない、土台が凸凹が過ぎるその土地に、どんなジェンダー平等を作り上げるというのだろう?

思うに、フェミニズムを排除するための、男性がフェミニズムを乗っ取るための論理に見える。
男性的な思考しかしない人間が、女性の権利についてを当事者として考えているという、正当な理由をトランス女性になれば(性自認を女性だと言えば)簡単に当然に得られるのだから。

性別を自認に頼りはじめたら、様々な混乱を次々に呼ぶことになるだろう。

性別は医学的に2つのみ。男性と女性しかない。
しかし、心の在り方、自認した性別こそが、その人の真の性別とするなら、至急、全人類の性自認を確認し、皆の性に関する全ての自認を尊重すべきではないか?

そして、見た目も性器の形状も関係なく男女とすることが常識となった世界では、絶対的とされる身体的な違いなど無視して、あらゆる部分で個人の性自認を尊重すべきとなるだろう。

つまりは、得意も不得意も自認を尊重して然るべきではないか?
心の在り方こそがその人の事実であるなら当然であろう。
か弱き乙女を自認するマッチョ。
強靭な強さと力を自認する背の低い痩せぎす。
2人は自認する得意と不得意を正しく補い合えるだろうか?

わたしには事実から目を背けた阿呆に見えるが、それは認識が古いからだろう。

そもそも、性別を自認する際に基準となるものは、結局のところ男女しかない。
自分の性別は男性か? 女性か?
どちらでもない、或いは、どちらでもある? わからない?

そんな中で、どの項目なら自認が可能または不可能かなんて、もはや馬鹿げている。
全ての自分らしさは、本人が心の中で自認するもの。
その内の1つにたまたま性別があっただけに過ぎないのだから。

年齢を自認する。
能力を自認する。
知能の高さを自認する。
身長体重を自認する。
肌の色を自認する。
国籍を自認する。
もはや人間ではないと自認する?

その自認を尊重することは、性自認のイデオロギーの核の部分と、なんら相違はないだろう。

そもそも性別のみが自認に左右される方がおかしいのではないか?
自分のあるべき姿は心のままに、自認が尊重されるべきなのだと、そう言っているのだから。

食事は必要ないと自認(食事の強要NG)。
感染リスクの非常に高い疾病の検査は陽性でも陰性を自認(病人扱いNG/隔離等NG)。
見た目は6歳だが100歳を自認(子供扱いNG/100歳として扱うべし)。

あり得ない? なぜ?
見た目も医学的根拠も関係なく、心の在り方である自認を尊重すべきとしたら、これが当然ではないのか?

医学的根拠もデータも見た目も全て無視して、個人の内面に、法律も制度も社会にどう扱われたいか等を沿わせることを決めて良いのは性別のみ、とする方が不自然だ。
精神的な問題ではなく、心の在り方の自認こそが正しいその人の事実だとするなら、全ての項目において自認に頼り、それを尊重するのが筋ではないだろうか。

性同一性障害が認知され、理解したいなどと注目され受け入れられるのは、病態であり、心理的苦しみは多大と思われたから。病気であるからとして、障害だとして、理解への足掛かりを得ていたのだ。

しかし、性別を自認することは病気でもなんでもないとしたなら。
自分の思う自分の姿と、社会からの評価との解離に苦悩するのは、なにも性別だけではないはずだ。
たとえば、能力的なもの。
たとえば、容姿的なもの。
自分はもっと優秀だ。もっと評価されるべきだ。
どうして周囲は気づかない? どうして正当に評価しない?

もし、性別の自認を、その社会との認識の解離に苦しむ人への配慮を自然なこととするのなら、全ての項目での自認をそう扱い、尊重すべきではないか。

能力が低い者でも、自認では高いと主張していたら、そう扱わなければ差別になる。
逆に、能力がズバ抜けて高い者が、低い値と自認していたなら、客観的にも自認でもその能力値の者たちと同等に扱うべきだろう。
その中で競ったなら、当然に圧倒的な差がつくだろうことは想像に易いが、これはどちらが差別的行為をしているのだろうか?

同じ値と自認しているのに、一方は「君は僕たちとは違うから同じだなんて言うな!」と言い出すかもしれない。もう一方は「君たちこそ同じ値を自認しているのに、なぜ僕を排除するんだ!」と言うかもしれない。

自認を事実と尊重する社会とは何だろう?
そもそも同じ値を自認しているその事実を尊重すべきなのに、彼らはなぜ争っているのだろうか?
いやはや、まったく馬鹿げた話ではないか。
だって、彼らは同じように、同じ能力値を自認して、それを尊重する社会であるのに、だ。

自認が事実と扱われる社会なら、こんな混乱した世界も来るかもしれない。

そのとき、社会の秩序はどうなるだろう?
私は社会の秩序はAと自認している。
私は社会の秩序はZと自認している。
両極端に自認するお互いの秩序への思いをどう尊重し合えばいいだろうか?
全人類の自認する秩序を尊重した社会の秩序とはこれ如何に?
もはや秩序本人に自認して頂くしかないのでは?

人間が世界にたった1人しかいなければ、全て事柄を自認しても何の問題もない。
しかし現実、大勢の他者に囲まれている。
他人に自認の「わからせ」をして、他人にそう扱うことを自然としなさい、と矯正を強制する。
誰もが他人に「わからせ」をし、矯正を強制し合うその社会になって、そこに秩序なんて存在するのだろうか?

全てに置いて自認に重きが置かれ、その先に未来はあるだろうか。
科学等の学問の存続は可能か?
その世界での「根拠」とは一体何を持って「証明」すれば良いのか?
私の思う根拠はこれだと自認すれば良いのか?

自認というものは本当にあやふやなもので、それが根拠として正しいことを何を持って証明するのかのエンドレスリピートになるのか?

人間の空想は突飛なものだ。如何様にも膨らむ。

ところで、これらは馬鹿げた空想だろうか?
それとも、性自認のイデオロギーが広まって定着した後の未来の事実となり得るだろうか?

もし、空想だと嘲笑するのなら、自認の概念を根拠にすること事態、空想染みているのだろう。
もし、自認こそが事実だと考えるなら、上記の世界を望むのかを考えてほしい。ぜひとも、事細かに、自認したことを、皆が皆、他人に「わからせ」をする社会を、詳細に考えてみてほしい。
それがあなたの理想でしたか?
そこに他者の視点はありましたか?

どちらにせよ、現状の第一歩は、性自認とは何であるか、ということだ。
性自認を認めたとしても、全ても自認に頼る世界なんてあり得ない?
しかし、性別のみ自認が可能なんて、あまりに不公平ではないか?

社会と自認の解離が苦しいと訴える本人以外は、医学的根拠で否定できる事柄を、1人の自認に皆がお気持ちを揃えて、学問共々平伏す社会とは、一体何を目指すのか。

わたし個人としては、身体の能力は女性でしかないことを尊重してほしい。
社会にある男性優位の恩恵は全部ほしいから、そうすべきである個人だと自認したい。
女性スペースはもちろん使う。
性的指向は医学的にも自認も男性が良い。
どんな性自認でもペニス有りの人は勝手にわたしに接近すべきでないし、セクハラ等した相手は厳しく罰せられて然るべきで、それが自然であると自認したい。

医学的な根拠を言うことが「トランスヘイト」と呼ばれる現状をどう考えますか?
医学という学問は何だったのでしょうね?
個人の自認にその学問の根拠が平伏すとなれば、医学にはもはや根拠は無いということになるのではないだろうか?
それでは、今までに証明された医学的な事柄にまつわる根拠すら危うい。
そのはじまりとなっているのが、性自認だ。
心の在り方である自認を事実として扱うことは、危険だとわたしは考える。


余談。
わたしは「性同一性障害」という疾患は存在すると思います。
ただ、自然に「違う性を自認する」ことは違うと思うし、そこに近づくべく、治療することが「自然」なことであるとは決して思わない。
性同一性障害の「違う性でありたい」「違う性であったなら」は、たとえば、子供の頃に経験した衝撃的な何かによって容易に作ることもできてしまえる心理状態であると考えるし、それはわたしが患っている疾患の「解離」に通じるものがあると感じます。

科学が医学が性別を変えることにも追いついてしまったなら、それこそ、人間の知性、倫理観、道徳が勝負すべきときでしょう。

社会的に、本人が苦痛に感じること、困難が生じることが「障害」とされるか否かの線引きである。

わたしの患う疾患の「解離」にも、「病的」であるものとそうでないものが存在し、健全な病的でない解離は、健常者でも経験しうるものだ。
しかし、それが引き起こされることによって「困難」「不便」が生じていると判断されたとき、その「解離」は疾患に、「解離性障害」として治療すべきものになる。

それを踏まえて。
性自認によって社会との間に生じている「困難」は、「自然」なことであったから、こちらがどんなに不快であっても「受け入れるべき」事象であるのか?
わたしは、わたしの身に起こる「解離」にまつわる事象を、無条件に他人が受け入れて然るべきとは思わない。
卑屈に障害者をやっているわけではなくて、それが現実である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?