見出し画像

映画のあとに森永ラブ

誰に頼まれたわけでもないけれど、自分のために書く。そういう習慣をちょっとつけてみたくなりました。
日頃は私は何かを取材してきて、誰かに伝えるための文章を作っているわけです。ではなく、自分の「楽しみ」のために書く。そういう時間をしっかり設けないといけないとこの頃感じていました。

しばらく交換日記ならぬ、交換コラムという形で書いてみます。こんな試みにつきあってくれるのは、友人の料理家・藤村公洋さん。私は彼の文章が好きでね、自分がもっと藤村さんの文を読みたくて誘った、というのもあります。
そんな藤村さんの先行コラムがこちら。

彼に習ってはじめてみます。
白央篤司(はくおうあつし)、卯年の牡羊座。血液型はO型。最初に映画館で観た作品は…多分『のび太の恐竜』で、初めて買ってもらったレコードは岩崎宏美の『夕暮れから…ひとり』だったような。最初に行ったディスコはゴールドでした。
それはともかく。
藤村さんが選んだお題は「二十歳のころ好きだった食べもの」ですか。はちちの頃、と読みたいところ。そうか、世は成人式だ。

何してたんだっけな、あの頃。

時は1995年。
渋谷・宇田川町の喫茶店でバイトしてましたねえ。高い店だった。コーヒー1杯900円するんですよ、最高額はブルーマウンテンで1500円。なのによくお客さんも入ってて。
クロックムッシュ、クロックマダムなる食べ物をここで初めて知りました。ただ、まかないは無し。

近所のケンタやマックを買って戻り、ごく狭い事務所スペースで食べていた。あの息苦しい感じが急に、よみがえる。

そう、「あの頃」というとまずファストフード。モスに行くときは嬉しかったな。覚えてますか、こんにゃくゼリードリンク。あれが好きでね、必ず頼んでた。当時から自宅飲み会をよくやってたけど、一度モスチキンを5~6個持ってきてくれたヤツがいて「なんというシャレた、太っ腹なチョイスだろう…」と感嘆することしきり。でもそのひとの顔も名前も、もうどうにも思い出せない。

そうそう、大学の近くにサブウェイができたときは嬉しかったな(調べてみたら日本1号店は1991年10月のよう)。自分好みにカスタマイズできるの、ワクワクしましたね。パンはハニーウィート派。そして今はなき森永ラブもはずせない。あそこの「鮭ライスバーガー」と「ベーコンオムレツバーガー」がものすごく好きだった、今でも食べたいほどに。思い出されるな、あの包み紙の手ざわり。コーエン兄弟の『バートン・フィンク』と、ライザ・ミネリの『ステッピング・アウト』という映画を見た後、森永ラブに寄ったことまでよみがえってきた。鮭ライスを嚙みしめつつ、映画のシーンを反芻するわけです。『バートン・フィンク』なら壁紙がぱらりと剥がれるあそこ。ライザ・ミネリのシャウト、シェリー・ウィンタースのほほえみ。

ファストフードのほかといえば、やっぱりチェーン居酒屋かな。
今でもつきあいがあるT君とよく通ってたのが『天狗』。当時はけっこう飲んで食べたつもりでも、3千円内におさまっていたからさほど飲んでもなかったんだろう。『天狗』に行ったら必ず頼んでいたのがサイコロステーキ。ひととき贅沢な気分にひたらせてくれる、ありがたいつまみだった。Tは「すぐなくならないからいいよね!」とバターコーン炒めをよく頼んでいたな。彼とは一度、熱海旅行もしたことがある。そのとき子持ちの甘海老を食べたんだが、あの青い卵をおそるおそる食べてみたものの「やっぱり……気持ち悪い」と彼は戻してしまった。「今でも甘海老の卵は食べられない」とT君はいう。そんな彼も一子のお父さんだ。

うーむ。「二十歳の頃の好物」といわれて、即座に「これ!」と言えない自分に今回気づきました。
食べること、飲むことは人一倍好きだけれど、特になにか1つのものにハマったり執着が生まれたり…というのは当時では思い出せない。タイ料理は一時中毒的に食べていたのだけれど、それはもう少し先のこと。

あ、中毒。
これいいですね。藤村さんはこれまで、食べること、飲むことで中毒的なまでにハマったものってありますか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?