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家庭生活を形成するための条件に優劣はない。

昨日は雨。
冷たい真冬の雨でした。ちょうどトイレットペーパーが切れかかってたので、買い出しに出たんですね。こういう日にトイレットペーパーやらティッシュやらの買い物が必要になると、ささやかに不運。でもまあ仕方ない。夜ごはんの買い物も必要だったし。

なんだかんだ日用品も買って両手に買い物袋下げて、帰宅。手を洗ってうがいして、牛乳やら肉やらの生ものをまず冷蔵庫にしまって、新しい歯ブラシやらの包装とってゴミ分けて捨てて、買い物袋をいつものところに入れて。そしてトイレットペーパーの包装といて補充して。
ああようやく、腰をおろしてひと息。
つかれた。

ふと見渡せば、それは朝の情景となんら変わらない世界。ただ冷蔵庫の中はあたらしい食材が、トイレの棚にはペーパーが補充された。キッチン戸棚のスーパーの袋入れには今日もらってきた袋が増えた。でも、表面上はまったくもって変わらない。

ここで、気づけるかどうか。


つい最近、知人男性と話していた。
「うちのはホント、何もしないんですよ。料理もあんまりしないし掃除もきらいで、整理も苦手で」
日本人特有の謙虚さなのかもしれない。つれあいを低くいうことが角の立たない会話術、と思っているのかもしれない。さほど深い仲でもないので聞き流していたが、ちょっと訊いてみた。
「でもさ、トイレットペーパーとかシャンプーとか、あるいは歯磨き粉とか、そういうの切れてたりする?」
「いや……そういうことは、ないかな。ないですね」
「じゃあもう充分じゃない? 補充って結構、めんどうだよ。ありがたいことだよ」
「いやーでもそのぐらい、大したことないじゃないっすか」

そう。
「日常生活における補充」ってあまり大したことと思われない。ただ一度補充するなら楽だ。けれど、日常という連続性の中の補充は違う。そして自分だけのためにやってる時のと、またちょっと違うのだ。
誰かと暮らしつつ、お互いが使う生活用品が切れかかって「ああ、また買わなきゃいけないな」と気づくとき、ほんの些細な面倒さを覚えることのイヤな感じ。自分の中で「さっさとやっちゃわないと」「ああでも面倒」「ホントぐーたらだね、君」「ごはんの買い物の帰りに寄るから今はいい」「絶対忘れるって!」など、いろんな自分が心のなかで小言で揉める。案の定、忘れたりする。そして「あ、トイレットペーパーあと1つだよ!」とツレに言われてしまったとき、先の自分の中の全員が「ほ~ら~ね~!」と言ってきたりするんだな。

「やっぱりそれ、ちっちゃえことですよ(笑)」
と笑われると思う。けれどね。

家庭生活を形成するための条件に優劣ってないんだよ。人はこういうことにどうしても優劣をつけてしまう。
「稼ぐことが何より一番すごい。大変。その他はまあ、誰でもできるようなこと」と本気で考えている人が誰からか愛されるだろうか? 家族から尊敬されるだろうか?

そこまでの旧来的な考えはさすがに減っていると信じたいし、現代社会で家族を養っていくために必要なお金を得ることがどれだけの労苦を必要とするか、私だって分かっているつもりだ。
けれど例えば日用品の鼻紙ひとつ、掃除機袋ひとつを補充して替えることの面倒くささにも思いをはせることができたならば、誰かと生活していく上での良好度ってすごく上がりやすいと思うんですよ。

家事というのはその1つ1つだけを見ると、たしかに「誰でもできるようなこと」かもしれない。だがもし、あなたに専業として家事をやってくれている人がいるとしたら、その「誰でもできるようなこと」をやるために「その人しかできないことをやれたかもしれない可能性」を無にして、あなたの生活に入ってくれているわけなんである。

なんてことをつらつらと考えてしまった。昨日とうってかわって今日は春めいているな。さっさと洗濯しよう。




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