0181愛しのブロントサウルス

夏休みオススメ本1『愛しのブロントサウルス』試し読み

「ブロントサウルス」という言葉をご存知の方は、大人の皆さんだと思います。なぜなら、もうブロントサウルスはいませんから! 今の図鑑を開くと、「アパトサウルス」と書かれています。それどころか、ティラノサウルスに羽毛が生えていたりして、隔世の感があります。恐竜は好きだけれど、今の図鑑のノリにはついていけない。そんな「レトロ」サウルス好きの大人たちが、子供に戻って楽しめるのがこの本。そして本書は、その時代のギャップを埋めてくれる本でもあります。大人の夏の課題図書にしたい一冊『愛しのブロントサウルス』からプロローグをお届けします。

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僕の恐竜ライフ

 僕はむかし、恐竜だった。正確にいえば、ステゴサウルスだ。妙にぴっちりして気持ちの悪い緑色のジャンプスーツにはパタパタする布製の板が背中にずらりと縫いつけられていて、それは科学的にはちっとも正しくなかったが、そんなことはかまわなかった。僕の心は恐竜だった。そこが肝心だ。

 幼稚園のときに恐竜の夕べという催しがあって、アロサウルス対ステゴサウルスの闘いという出し物の主役の片方に抜擢された。恐竜となると僕が大はしゃぎするのを両親が黙認するようになったのは、それがきっかけの一つでもあった。その会では、浅い砂場に先生方がプラスチックの小さい恐竜を隠していたし、その夜の終わりにはさしておいしくもない恐竜の絵のシリアルを全員が一箱ずつもらえもした。そこに何かしら教育目的があったとしても、僕は覚えていない。そのころの僕にはどうでもよいことだった。恐竜に熱狂する五歳児にとって、恐竜と遊ぶのに理由などいるわけがない。

 僕は恐竜のデスマッチでアロサウルス役の子にむかって咆ほ え、そいつを踏みつけ、トゲトゲの尾をたたきつけてやるつもりでいたが、そのとき相手がそっくりのコスチュームを着ているのに気づいた。敵はとらばさみのような顎をもつ敏捷なスーパー肉食獣になりきっていた。先生方は下調べをしていなかったから、恐竜については素人だった。僕も台本の指示どおりにアロサウルスの鉤爪にかかって負ける気などさらさらなかった。台本では、僕は死ぬふりをし、鱗の喉を敵の目前にさらして倒れることになっていたが、僕は役柄を無視して、ステゴサウルスのほうが本当はすごい恐竜であることを観客に教えることにした。アロサウルスは獰猛で敏捷だったが、そういう強みもステゴサウルスの背中の立派な板と、骨をも砕く尾のスパイクの前では用をなさなかっただろうと僕は力説した。

 しかし、ああ、そこに集まっていた父兄は僕の即席恐竜学講座の教えに感心しなかった。僕は大人たちが畏れ入ったようにうなずき、ニューヨークにあるアメリカ自然史博物館で僕が働けるようにしてくれるものと思っていた。それなのに彼らは笑っただけだった。

 僕は拳を震わせて「愚か者どもめ! いまに見てろ!」と叫びはしなかった。心のなかでは、本物の科学者ならそうするべきだと思っていたけれど。だが、恐竜のことをあきらめもしなかった。ドキュメンタリー番組を見て恐竜熱をいっそう燃え立たせ、ビデオ屋で借りてきた恐竜もののB級映画に狂喜し、祖父母の家の裏庭でトリケラトプスの完全な巣を探して草木を根こそぎにした。ニュージャージー州中部に三本角の恐竜がいるわけなかろうと、この州で発見された数少ない恐竜化石が白亜紀に大西洋に押し流されたくず化石ばかりだろうと、知ったことではなかった。土の下に恐竜がいないわけがない。化石ハンターとしての本能が僕にそう教えていた。だからひたすら掘りつづけた。とうとう物置から祖父の手斧を持ち出して僕の邪魔をする若木を切り倒そうとしたとき、家のなかから両親がすっ飛んできてやめさせられた。どうやら僕は事前に正式な許可をもらっていなかったらしい。

 では、両親は僕の化石狂いをさっぱり理解してくれなかったのかといえば、そんなことはない。父も母も僕の古生物への夢を応援してくれた。なつかしい思い出がある。小学校の図書室の司書に僕が恐竜の本ばかりを借りすぎている、しかもまだ難しい高学年むけの本まで借りようとすると注意されたとき、僕の肩をもってくれたのだ。恐竜について知るべきことはなんでも知っていなくてはならないのだと思うと、僕の脳みそはうずうずした。新しい恐竜の名前を知るたびに、科学知識が僕の血となり肉となった。恐竜の名は魔法の言葉だった。それを耳にしたとたん、僕の想像のなかにおそろしくもすばらしい怪物が跳び出すのだった。

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 それから二五年後、恐竜熱が僕の机から発散してソルトレイクシティのアパートのどの部屋にも知らぬ間に充満していることに、妻はなんとか耐えてくれている。恐竜への夢はここへの引っ越しを決心した決め手にもなった。よりにもよってなぜユタ州に、モルモン教の遺した頭にくるほど保守的な政治風土と「ビールもどき」がせいぜいの飲酒規制の州にいったいどうして引っ越したいのかと聞かれたときの僕の答えは明快だった。「恐竜のためだよ」。西部開拓を奨励した政治家のホラス・グリーリーには申し訳ないが、ユタに行くことを彼の言葉を借りて正当化すれば、「西部へ行け、若者よ。そして恐竜とともに大きくなれ」ということだ。ユタはどこよりも恐竜化石の豊富な地層があり、それが色美しい不毛のバッドランド〔堆積岩などのもろい岩盤が雨水で極度に侵食された悪地地形〕に広がっている。よその夫婦がカウチかテレビを買い替えられるかで押し問答をするところ、僕は遺品処分セールで買ったアパトサウルスの頭骨の実物大キャスト〔石膏模型〕といった必須アイテムをうちに持ち帰らせてもらいたくて、わが家の財務大臣を説き伏せるのに時間を費やすのがつねだった(現在、そのアパトサウルスの石膏の頭は古生物学専用にした本棚の一つのてっぺんに、でんとすわっている)。

 あとはただ、天気の許すかぎり恐竜探しをつづけるだけだった。十月をすぎると野外調査をするには寒く、地面も固くなって、化石を壊さずに掘り出すのは難しい。どっと発表される古生物関連の新しい論文について記事を書いて冬をやりすごしながら、ひたすら春を待った。調査の季節がめぐってくるたびに、新しい可能性がもたらされる。アメリカ西部で一〇〇年以上もつづけられてきた化石ハンティングに人が何を期待しようと、発見すべき恐竜はまだたくさん残っている。トリケラトプスの巣にしても、僕はいまだに見つけられていないが、いまならその夢に一歩近づいたところに住んでいる。地球の過去が地表までぐいと上がって、美しい化石の土地に姿をさらしている場所だ。

 しかし世の中の人にしてみれば、恐竜は大人の生活とは関係のないものらしい。恐竜を発掘しようとする古生物学者とボランティアは、ギザギザの歯のおそろしい恐竜が原始の湿地を踏み歩くところを想像しながら泥んこと戯れるのを職業にした大きな子供だと思われている。アメリカの子供はかならず「恐竜期」を通過するが、チームスポーツのたのしさや高校の青空スタンドの陰でのキスを知ってしまえば(僕は生来不器用で、どちらもうまくやれなかったが)、恐竜のことは忘れることになっている。感情をほとばしらせる音楽や緊張のきわみのデートに目覚めたり、夢をみていないで現実の進路をしぼっていかざるをえなくなったりすれば、子供のようにはしゃいだ気分はすっかり消えうせることになっている。頭を冷やせ。恐竜は低俗な子供のオモチャとして、アメリカ文化ではきっちり線を引かれている。子供時代をなつかしんでとか、たまのおふざけとしてならよいが、本気でやるものではない。

 むかしをなつかしむといっても、元恐竜ファンが家庭をもち、実物大のモンスターが博物館を歩きまわるのを見せに子供たちを博物館へ連れていけば、それどころの話ではないとわかる。そのときには慣れ親しんで育った恐竜はいなくなり、かわりに似ても似つかない、同じ名前のものとさえ思えない生きものがそこにいる。子供のときに出会った恐竜はいつまでもいてくれない。科学が絶えずつまんだりひねったりして恐竜の形を変え、思い出に心なごませようとしている僕らをびっくりさせる。

 その衝撃を、僕は二〇〇三年の元旦に味わった。当時のガールフレンドのエレンに引っ張られて、アメリカ自然史博物館の恐竜を見にいった日だ。子供のころ以来、ずっときていなかったが、その間にこの博物館の化石の展示はすっかり様変わりしていた。子供時代の僕の心を奪った骨格化石は、あいた口がふさがさらないくらい模様替えされていた。

 僕が初めて会ったときのティラノサウルス・レックスはゴジラのように二本足で立ち、ずらりと牙のならんだ顎を上げて、尾を地面に引きずっていた。同じときに会ったステゴサウルスは背中に骨板とスパイクを生やした小山のようだったし、ずっしり重いブロントサウルスはでくの坊のように立ち、乾いた陸地よりも藻の繁茂した臭い池が似合っていた。僕が一緒に育ったこの恐竜は、角と歯と鉤爪がぎらりと光るじっとり湿ったスローモーションの悪夢のなかに棲んでいた。それがみな、なじみのない中生代の生物に置き替わっていた。まるで歩きだそうとした瞬間に肉がごそっと削げ落ちたかのような姿でぬっとそびえ立つ骨格の恐竜。動きまわる骸骨をパチリと写真で撮ったような新しい恐竜は、僕には見知らぬ他人だった。

 恐竜の化石化した遺物──つまり本物の骨格──に変化があったわけではない。その一つひとつは歴史学の手のとどかない時代の動かぬ記念碑のようだ。しかし、僕が初めて恐竜をこの目で見たときとくらべても、より精度の高い分析方法が開発され、残された化石から先史時代の生物に関する情報がこつこつと集められている。竜脚類恐竜の大腿骨やハドロサウルス類の頭骨は、ただ展示して埃を積もらせるためだけの石の塊ではない。どの化石も手がかりを隠していて、その恐竜の生態や進化、ときには死についてさえも教えてくれる。恐竜の理解は、ばらばらの骨を組み立てたところで終わるのではない。古生物学の新しい知見を得るための努力がそこからはじまるのだ。

 ひとむかし前の古生物学者が推測するしかできなかったことを、いまは詳しく調査できるようになった。恐竜の性行動から最も深い謎、すなわち恐竜の体色まで、あらゆることが一般の人々の注目を浴びる。そして新しいことがわかってくればくるほど、恐竜はますます意想外のすばらしい生きものになっていく。僕が最初に出会ったティラノサウルスは、もっと活発で魅力的な新しいティラノサウルスによってばらばらに引き裂かれた。捕食動物の頂点に君臨するものらしく発達した筋肉をもち、背骨を地面に平行に保ち、高い代謝率で体温を維持し、フィラメント(線維)状の羽毛で体がおおわれている。その姿は暴君恐竜と呼ばれるティラノサウルスが現代の鳥類の遠い親類であることを暴いている。ステゴサウルスを含むほかの有名な恐竜もすべて復元しなおされ、新しい命が吹き込まれた。先史時代の澱んだ水たまりから抜け出し、その進化の歴史と同じように美しい色に身をつつんで生き生きしている。

 だが、新しい発見の情報が一般大衆に達するまでには時間がかかり、達しても、科学がどうやって恐竜の生態を解き明かしているのかは公開されない。博物館の展示ホールとテレビのドキュメンタリー番組は古生物学の成果──その時点で恐竜についてわかっていること──を見せてくれるかもしれないが、恐竜がなぜこんなにも変わったのかを説明してくれることはめったにない。その秘密は素人の恐竜ファンの手のとどかないシンポジウムと専門的な論文でのみ明かされる。恐竜ウォッチを怠らない者でさえ、発見のペースについていききれない。僕らが理解する前にどんどん変わっていくので、博物館の生き生きとしたすばらしい展示も一般公開されるころには少なくとも部分的に時代遅れになってしまう。恐竜の体長の推定値から鼻孔の位置まで、古生物学者は絶え間なく修正し、巨獣が本当はどんな姿だったのかを論じる。こうして仮説が本当に有効だとわかると恐竜の形態があらためられ、学術誌で発表されてまた修正されるのを待つ。そしてまったく奇妙なことに、古生物学は知識の修正を疑いの目で見る風潮のある数少ない科学分野の一つなのである。先史時代ファンはこれまで信じてきたことに愛着があればこそ、羽毛の生えたティラノサウルスをまるで巨大なニワトリだと鼻で笑い、小難しい分類のルールのせいで好きな恐竜がいなくなってしまうのを嘆く。

 科学と大衆人気のはざまに落ちた生物のうち、いつも僕の心のなかにいるのがブロントサウルスだ。研究者の手にかかって、別の意味で絶滅に追い込まれた象徴的な恐竜である。いまではアパトサウルスというのが正式の名だが、いまもなお旧名のほうで知られて親しまれ、どっちつかずの状態にある。ブロントサウルスはもはや非公式なニックネームなので使ってはいけないのだが、僕らはこの名が手放せない。

 動く肉の山のような巨大なブロントサウルスは、絵に描いたような恐竜だ。思い出せばなつかしい。首の長いこの巨獣は僕にとって恐竜がいかに壮麗な生きものかを知る入り口になったが、出会っていくらもしないうちに科学界からすっと消えていってしまった。今日、ブロントサウルスは思い出としてのみ生きている。しかし、僕はその思い出を大切に胸にしまっている。僕だけではない。ブロントサウルスは鱗におおわれた巨大な生きものを表わすアイコンなのだ。この恐竜がもういないといわれても、それは学術的なまちがいというよりも裏切りのような気がする。

 この本ではブロントサウルスをマスコットにする。ブロントサウルスは、古生物学者の調査する実際の生物と大衆文化における巨獣たちのあいだの衝突を見事に象徴している。先史時代のイメージはひとり歩きし、ヴェロキラプトルのようにその爪を僕らの想像にがっちり食い込ませている。ひとり歩きするイメージは危険ではあるけれど、そこが科学発見につきもののたのしさでもある。恐竜を理解するためには、ファイバーグラスで、スチールで、絵の具で、コンピューター生成モデルで、彼らをよみがえらせる必要がある。当然、修正されたイメージは古いイメージとぶつかりあう。科学的発見は、僕らが知っている気でいたものと僕らが現在理解しているものとの激しいせめぎあいを生むのだ。ブロントサウルスはこうした果てしなくつづく衝突の最も有名な犠牲者だが、ただそれだけではない。こいつを比較の基準とすることで、科学によって恐竜がどれだけ変容したかが確かめられるのである。僕らは大切な恐竜を失ったかもしれないが、この巨獣を消し去ったのと同じプロセスから、発見できるとは思っていなかった先史時代の生物に関する手がかりが明らかにもなった。ブロントサウルスを旅の道づれとして、むかしなじみの古めかしい恐竜たちをよみがえらせつつ、彼らが進化と絶滅と生存競争についてどんな秘密を明かしてくれるかを見ていこう。


『愛しのブロントサウルス』の紹介ページ

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