0208父親の科学

お父さんって、意外にすごい!『父親の科学』試し読み

これまで見過ごされることの多かった育児における男親の役割を、脳神経科学、心理学、人類学、動物学、遺伝学などなど、科学的な視点から徹底検証します。最新の研究成果が明らかにする〈意外にすごい〉お父さんの実力とは? 『父親の科学』からはじめにをお届けします。

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屋根裏のがらくたを一掃する

 私が父親の子育てに興味を抱いたきっかけは、ごくありきたりなもの――子供ができたことだった。一九八〇年代に最初の結婚をして三人の子供(息子二人と娘一人)をもうけた。彼らは成人し、それなりにうまくやっているようだ。一〇年ほど前には今の妻であるエリザベスと再婚し、さらに二人の男の子を授かった。友人たちからは、父親も二回目となると違うものかねとよく訊かれた。その質問に私は嘘で返した。「そうだね、一度目は失敗ばかりだったけど……、今度はうまくやってるよ」。最初の結婚で生まれた子供たちは、前半の部分には頷いても、後半については首をかしげることだろう。

 本当のことを言えば、二度目の子育てにあたって、一度目のときよりも心の準備ができていたわけでは決してない。子育てが、少なくとも自分にとっては、うまくいくときもあれば失敗するときもあるものなのだと気づくまでに、それほど時間はかからなかった。というのも、私は自分がまた過ちを犯すのを何度も目撃したからだ――時には一度目と同じ過ちさえも。

 最初の子育ては概ね自分の本能に従って行動していた。愛情と気配りで乗り切れるという自信があった。当時、私の担当編集者に無骨な新聞社の人間がいた。もじゃもじゃの白髪頭によれよれのスーツ、ネクタイをだらしなくしめ、昼時にマティーニを三杯あおるようなタイプだ。その彼が、一番大事なのは愛していると子供たちに伝えること、そして彼らと一緒に過ごすことだと言った。私はそのとおり実践した。まずいアドバイスだったとは思わない。ただやがて、それだけではまったく不十分だと気づかされることになる。

 二度目の子育てで、疑問はかえって増すばかりだった。正直な話、父親が子供に対してやれることとは何なのだろうか? 父親の重要性は? 逆に子供が父親に与えてくれるものとは? いま挙げた質問は取りも直さず、件の編集者も含め、自分としては子育てについてわかっていると思っている人々に向けたものだ。私たちの親は子育てをわかっているつもりだから、わが子が子供を育てる段になって犯す数々の間違いを指摘することを何より楽しみにしている。教師、友人、会社の同僚なども子育てについては一家言もっている人が多く、私たちが助言を求めようと求めまいと、進んでそれを教えようとしてくる。私と同じニューヨーク市にお住まいの方なら、見ず知らずの通行人ですら、こんな空模様で赤ちゃんを外出させるのは良くないとか、赤ん坊が風邪を引かないように傘を持ち歩くべきだった、などと平気で言ってくるはずだ(傘をさすことと風邪を引くこととの相関は科学的な命題であり、それはまた別な本で検証していきたい)。

 こうしたことは、まわりの友人や知り合いだけでなく、セレブリティや大衆文化にも見受けられる。たとえばニューヨーク・ヤンキースのアレックス・ロドリゲスは、身体能力を向上させる違法薬物の使用で出場停止処分を受けたときに、自分がこうなったのは父親の育児放棄のせいだと述べた。「深い疎外感、喪失感を味わわせるような出来事が、九歳の彼の身に降りかかった。父親が蒸発したのだ」とジョージ・ベクシーはニューヨーク・タイムズ紙に記している。「これは、大人の現実に巻き込まれてしまった一人の人間を説明するための通俗心理学ではない。彼自身の理論である」

知っていること、知っていると思っていること

 もちろん、ロドリゲスが述べたことは通俗心理学でしかなく、その正しさは善意の友人や家族が教えてくれる知識以上のものではない。私たちも多くの場合そうなのだが、ロドリゲスもまた、父親の不在が自分にどんな影響を及ぼしたかを知っていると思い込んでいるし、それがどうやって選手生命を危機にさらすような不正薬物に手を染めさせるに至ったのかもわかったつもりでいる。だが、ロドリゲスには私見を述べる権利があるとはいえ、何が真実なのかを本当に知っているとは限らない。私たちの多くは、自分が成長していく上で父親がどれだけ手を差し伸べてくれたか、もしくは悪影響を及ぼしたかについて、それぞれ独自の意見をもっている。しかし、あれほどの経験をしたロドリゲスですら、自分の意見が正しいのかどうかに確信をもつことはできない。そしてこれこそが、私が本書で誤りを正したいと思っているものだ。私はプロの科学記者として、自分たちが真実だと思っていることではなく、真実だと知っていることに興味を惹かれる。私がこれまで取り組んできたジャーナリストとしての仕事の多くにも、次のような一つの目的があった――ステレオタイプや半面だけの真理を、科学者が真実であるとお墨付きを与えたアイデアに置き換えることである。二度目の父親業に専念するとき、いま述べたような目的を、父親に関する世間一般の考え方に厳密に当てはめてみるべきではないかと私は考えた。そうして自分が父親と子育てについて何を知っているかを考えていくにつれ、次から次へと疑問が湧いてきた。子供と深い絆を結ぶのは母親に限られるのか? 父親はわが子の言語習得に寄与しているのか? 父親は子供の学校生活にどんな影響を及ぼすのか? 思春期を迎えたティーンエイジャーに父親が与える影響は? はたまた、ニュース報道で見られるように、年齢のいった父親から生まれる子供は何らかのリスクを負うのか?

 こうした問題に関して私たちが知っていると思い込んでいることの多くは誤解に基づいている。私たちはとっくの昔に、屋根裏をきれいにして、それら俗説の山を一掃し、父親と子供と家族について研究者たちが知り得たものにじっくりと目を向けるべきだったのだ。簡単に言ってしまえば、父親は子供の人生に非常に大きな影響を及ぼす。しかも、偉い学者も育児の専門家も見落としてきた方法で、それを行うのである。

父親ができることは「たいしてない」?

 一九六〇年代から七〇年代にかけて女性の社会進出が目立つようになるまで、父親は長い間、一家の中で重要な(しばしば見落とされる)役割を担ってきた。つまり、家族が雨露をしのぎ、食べていけるだけのお金を稼ぎ、さらに子供たちのダンスレッスンやリトルリーグのユニフォーム代、自転車といった、生活費以外の面倒も見てきたのである。給与を持ち帰るのは、子育てにおいて親ができる最善の行為ではないかもしれないが、きわめて大切なことではある。貧困ほど子供の人生を悲惨にするものはない。子供に食事と住む家を与え、貧困とは無縁であることが重要なのだ。

 でも、それだけなのか? 父親として、わが子の人生にもっと寄与できることが他にもあるのではないか?

 つい一世代前の一九七〇年代には、この問いに対する心理学者や「専門家」諸氏の答えは、実にあっさりしたものだった――たいしてない、と答えたのだ。なかでも、育児に関して父親が果たす役割は、ほとんど、もしくはまったくないと思われていた。一九七六年、新進気鋭の心理学者であり、父親研究の先駆けとも言えるマイケル・ラムは、自身の考えを以下のように述べた。幼児の成長過程で母親の役割ばかりが重視されたがために、あたかも「幼児が社会とつながりをもつ上で、父親の存在はまったく必要ではない」というイメージが出来上がった。また、何十年もの間、心理学者たちは「母子の関係こそが唯一無二であり、その時期あるいはそれ以降に出会うどんな人間関係よりも、はるかに重要である」としてきたという。自分を育て守ってくれる大人に対して愛着をもつことは、子供たちに進化上の利点を与えてきたと考えられている。専門家たちによると、かのダーウィンも、母親の存在のみを重んじるこの説を支持したようだ。ダーウィンがそう言ったなら、いったい誰が異を唱えられようか?

 男親が子供の発育に関係ないことを裏づける証拠はあまりない。かといって、重要性を示すデータがあるわけでもなかった。疑問の声はほとんど上がらず、ゆえに答えもまったく出てこなかった。父親が育児に無関係であることは、研究者の間では一つの信仰箇条となっていたのだ。わかりきっているとされていることに、いまさら疑問を投げかける者が誰一人いなかったのは、当然と言えるかもしれない。

 ラムはこうした通説に対して異議を唱えた先駆者だった。新しい研究結果が出て、母親と乳児の結びつきはこれまで考えられてきたほど強くないとか、母子が一緒に過ごす時間の長さは両者の良好な関係を築く優れた因子ではないといったことを示唆するようになってきた。ついには、思い切って違った角度から研究を行い、「少なくとも一部の乳児にとって、父親との交流は楽しいものであり、両者にたいへん好ましい心的影響を与えるという特徴をもつ」と結論づけた研究者も少数だが現れた。専門誌上でこうした知見が見受けられるようになったのは、私の長男が生まれるほんの数年前のことだ。子供が生まれた頃なら、私は専門家たちをたやすく納得させることができただろう。そのとおりです。父親と遊ぶのが楽しいと思う乳児はいるんです、二人の間にはきわめて良好な感情が芽生えていることに気づきますよ、と。

 私が息子と過ごした経験が、当時の心理学界を支配していた学説を覆す証明となりえた、などと言うつもりは毛頭ない。だが、こうも思う。専門家の先生方には子供がいなかったのだろうか? 道端で、スーパーマーケットで、父親が赤ちゃん言葉で話しかけたり、笑いかけたり、ともかく人目もはばからずに赤ん坊の笑顔を引き出そうとしている姿を見たことがなかったのか? 専門家の方々だって、父親として同じ経験をしてきたのではないか?

 ようやくその頃になって、ラムをはじめとする研究者たちは、子供が遊ぶときには父親が重要であることに気づき始めた。今では広く知られていることだが、父親は幼い子供がよくやる「取っ組み合いごっこ」に好んで付き合う。これは父親と乳幼児の関係に関する最初の重要な洞察であり、ラムによって世に出たものだ。こうした初期の研究のなかに、母親に比べて父親は、乳児に行動を促したり、身体を使わせたりする傾向が強いとするものもあった。母親は就学前の子供とおもちゃで遊びたがるのに対し、父親は床の上で体を使ってじゃれ合うのを好む。またラムの研究からは、乳児は実は父親の方に抱っこされたがっていることも明らかになった――というのも、母親はご飯を食べさせたり、おむつを取り替えたりといった役割を担いがちな一方、父親は子供との遊びを担当する傾向にあるからだ。二歳児は、遊びたいと思ったときに母親よりも父親の姿をさがす。子供の年齢がいくつであっても、遊んだり、じゃれ合ったり、ともかく身体を動かすことは、父親が寄与できる代表的な子育てなのである。

 時を同じくして研究者は、幼児が父親だけにとどまらず、親類、あるいは両親の友人たちとも関係を築いていることに気づき始めるが、それは十分うなずけるものだった。これに関してラムは、人類学者のマーガレット・ミードが一九六二年に発表した研究結果を引用して、次のように述べている。父親以外の存在(母親も含む)に対する愛着は、「生存にとって明らかな価値」をもっている、「なぜならそれは、親を失ったときの保険となるから」だ。

 男親は妻の妊娠に対して冷ややかな態度をとることがままあり、生まれてきた赤ん坊とのやりとりも限定的だという説は、多くの研究者が主張してきたものだ。しかし、七〇年代半ばになると、父親は保護者となることに心躍らせ、赤ん坊と一緒に過ごすことに関心を抱いていると結論する研究も出てきた。蒸し返すようだが、これも私たちからすればごく当たり前、もし彼らが研究室を一歩出て、病院の産科病棟に足を運んでみれば一目瞭然だったろう。かといって、病院自体がそのことをわかっていたかは疑わしい。というのも、当時は、出産時に父親が関わりをもつ機会はほとんど与えられていなかったからだ。

 本来、父親に対する認識を変える旗振り役となるべき心理学者や他の社会科学者は、反対に父親の役割など取るに足らないものとしてきた。子供の面倒の大部分を見る母親の方が、父親よりもずっと大事なのは当然だと、多くの研究者が信じていたのである。こうした支配的な見方は父親の立場を厳しいものにした。家計を支えることを除けばあまり意味がないと繰り返し言われ続ければ、父親が胸を張って自分の重要性を主張するなど無理な話だろう。

軽視される父親の役割

 かつて、いや今でも科学的な研究分野において父親が軽視されがちなことは、記録が証明している。私の言っていることが正しいかどうか、実際にちょっと試してみるといい。アメリカ国立医学図書館の蔵書目録を閲覧できるPub Med というウェブサイトに入って「母親」と打ち込んでみると、研究論文がたくさん出てくるはずだ。今度は「父親」でやってみてほしい。前回私がこのウェブサイトで「母親」で検索したときは、九万七九三四件ヒットした。対して「父親」では一万五一五六件、六分の一以下だった。何度やっても、結果にそれほどの違いはなかった。「母性」だと二七万九五一九件、「父性」はその一〇分の一以下だ。家庭内での父親の役割について考えるとき、私たちはつい最近まで、真に理解するというよりも、思いつきや直観、思い込みや誤った情報に頼ってきたのである。

 母親研究と父親研究の格差を指摘した研究者もいる。二〇〇五年、南フロリダ大学の心理学者ヴィッキー・フェアズは、心理学の権威あるジャーナルに掲載された、児童および青少年の心理に関する五一四件の研究報告を検証した。すると、そのうち半数近くが父親についてはまったく触れていないことがわかった。なかには父親と母親の双方に言及しているものもあったが、父親だけに焦点を絞っていたのはわずか一一%にすぎなかった。

 私も調べてみたが、すぐにフェアズが見つけたのと同じような例にいくつか出くわした。たとえば、二〇〇六年、コロンビア大学の著名な疫学者マーナ・ワイスマンは、うつ病の母親を治療することで、その子供が不安症やうつになる危険性を減らす効果があるかを検証した論文を発表した。実際、母親に対する治療は子供のメンタルヘルスを向上させたが、この研究には父親に関するデータは一切含まれていない。温情と理解力のある父親の関与があれば、子供はもっと良くなったのではないか? 反対に、冷酷で無関心な父親の場合には悪い方向に進んでいたのでは? 両親と新生児の関係性について調べている別の研究者は、乳児といるときの母親のふるまいや活動をつぶさに記録した。だが、母親が乳児を父親に任せてしまうと、「赤ん坊は父親のもとへ」と書いて、ノートを閉じてしまった。そこで調査は終了というわけだ。また、二〇〇五年に児童発達研究学会(SRCD)が主催した会合では、何百人もの学者が、子供、家族、子育てに関する研究結果を披露したが、そのなかで父親を中心に扱ったものはせいぜい一〇件程度だった。そうした研究の発表者たちは、ほぼ例外なく、父親に関する研究が少ないと指摘するところから発表を始めていた。

 イエール大学の精神科医カイル・プルエットは、一九八〇年代から父親について研究してきた。プルエットによると、注意欠陥障害、自閉症、小児うつ、青少年の自殺といった深刻な問題に関する研究の対象として父親が含まれていた場合でも、父親が問題解決の一翼を担う可能性を示唆したものは、ほぼなかったという。「父親の影響力についてあれこれリサーチすると、いつも気づかされることがある。父子間で及ぼし合う影響力に目を向けないことで、児童の発達に関連するあらゆる分野(また、そこから生まれる育児本のベストセラー)において、近視眼的で恐ろしく歪んだ見方、盲点だらけの視点が作り出されているということだ」。彼が列挙したベストセラー本のなかには、スポック博士、T・ベリー・ブラゼルトン、ペネロペ・リーチの著作も含まれていた。プルエットはまた、そうした分野の本は次第に「父親に目を向けるように」なってきているが、「本音のところでは、母と子の聖なる絆という、従来の誘惑から解き放たれることはなかった」と指摘している。このように、父親に対する拒絶反応は、これ以上ないほど明瞭に示されていた。だが、多くの研究者がその問題に気づき、指摘し始めたことで、改善の兆しも見えてきた。

まぬけで愚かなお父さん

 父親を無視するこうした傾向は、不正確で、否定的で、不親切なイメージを根づかせる原因となった。歴史学者のエリザベス・プレックとジョゼフ・プレック夫妻は、一九二〇年代初頭にサタデー・イブニング・ポスト紙に掲載された漫画を例に挙げている。そこには「自分の子供の扱い方もしつけもわからない。料理も作れず、子供を寝かしつけようとすれば、靴ひもに足を引っ掛けて、けつまずく」のろまな愚か者として、父親が描かれている。だが、それはほんの序の口にすぎない――子供の宿題を見るのを忘れたとか、ミートローフを焦げつかせたといった些細なことよりも、辛辣な非難の目にさらされるようになったのだ。たとえば、一部の社会評論家たちは、父親は国家の安全を脅かしているとして非難した。評論家たちは、第二次大戦中に軍の体力検査で多くの若者が不合格とされたのはゆゆしき問題であり、その原因は、心配性の母親、そして父親の不在にあるとした。つまり、彼らのせいで、戦うには軟弱で臆病な若者が生まれたと論じたのである。一方、この父親バッシングが当てはまらない例もあった。「コズビー・ショー」と「パパは何でも知っている」といったテレビ番組、映画「アラバマ物語」のアティカス・フィンチ、「クリスマス・キャロル」のボブ・クラチットなどがそうだ。だが、それはほんの一握りにすぎない。

 サタデー・イブニング・ポスト紙の漫画からほぼ一世紀が経過した今日も、まぬけで愚かな父親像というステレオタイプは根強く残っている。二〇一二年、おむつメーカーのハギーズは、自社製品が競合他社に比べて丈夫かどうかを調べる検証仕立ての広告キャンペーンを行ったが、そのコピーは、「パパにハギーズのおむつを試験してもらおう!」というものだった。不器用な父親の手にかかって耐えられるハギーズのおむつなら、どんな扱い方をしても大丈夫というわけだ。また、同年に開催された夏季オリンピックの期間中、P&G社は有名オリンピック選手の幼年時代を振り返るシリーズ広告を展開。そのキャッチコピーは「ありがとう、ママ」だった。父親の果たす役割の方が重要だという固定観念が根強いスポーツの世界でさえも、そのことが忘れられているのだ。

 より近いところでは、二〇一三年六月、家庭用品メーカーのクロロックス社が自社のウェブサイトに投稿した、こんな記事がある。「新米パパは犬のようなペットと同じ。純粋無垢な心の持ち主だけど、的確な判断や繊細な扱いが苦手で、何をやってもへまばかり」。この記事はさらに、父親が犯す過ちとして、底冷えする雨模様の日に子供たちに夏服を着せて連れ出す、床の上でご飯を食べさせる、テレビのリアリティ番組に釘づけにさせる、などを挙げた。すると、男親たちから怒りの書き込みが殺到、慌てて記事を削除する事態となった。クロロックス社にしてみれば、消費者を笑わせようとしただけで、怒らせつもりなどまったくなかったはずだ。でも、このジョークは通じなかった。こうした偏見に対しては、今や多くの父親がすばやく異を唱えるようになったので、広告を出す側も違う手段を模索しているようだ。

本書の構成

 父親に関する研究は、母親に比べてかなり遅れをとっているが、リサーチの数自体は急速に増えている。この後のページでは、父親研究のなかで最も重要な意味をもつと私が考えているものを、いくつかご紹介していこうと思う。幕開けとなる第1章は、進化的観点から見た父親の話である。私たちの先祖が先史時代にどのような家族生活を送っていたかを知ることで、現代の父親の役割をより深く理解できるようになるだろう。またそこでは、家族がどのように形成され、それがどうして父親を必要とするに至ったのかも学ぶことになる。第2章では、妊娠を機に始まる母親と父親の遺伝子間での主導権争いについて考える。

 その後の数章では、子供の成長過程に沿って、その時々の父親のあり方を見ていくことにする。第3章は、妻が妊娠中の男性に起こる変化について書いている。第4章では、子供が生まれた直後の父親を考察する。また、人類が単婚(一夫一婦制)という道を選ぶまでの紆余曲折と、そのことが父親と母親にとってどのような重要性をもつかについても見ていく。続く第5章では、父親と乳児がこれまで考えられていたよりも、はるかに強固に結びついていることを例示し、第6章では、わが子がよちよち歩きを始め、やがて学校に通うようになる時期の父親を追う。第7章は、一〇代の子供と父親の関係に目を向けている。加えて、脳神経学的なアプローチで父親を検証し、子供の成長過程で生じる父親のホルモンバランスの変化に着目する。第8章では、高齢の父親についてまわるリスクを見ていくが、高齢の親の問題は、子育てと仕事の両立が求められる現代では、珍しいことではなくなってきている。第9章では、父親がしていること、つまり、子育てや家事にどう貢献しているのかを考える。最後にあとがきでは、私がこれまで学んできたものについてまとめ、考察を加える。それによって、私たちには学ぶべきことがまだあるということもわかるはずだ。


『父親の科学』紹介ページ


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