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当事者にならないという物語

はじめに

学生の頃から物語というものが大好きで、いつか物語を作る商売をやりたいなあ…いや、商売にならずとも物語を作り続けていたいなあと思いながら大人になった現在。末席ながら物語を作る商売に身を置かせて頂いている次第です。

しかしながら個人的には好きな物語も苦手な物語もあり、その差について考察もしてきました。その一部を語らせて頂こうかと思います。あと最初に言っておくのですが、私は海外作品びいきな方です。国内作品至上主義の自覚のある方は此処でサヨウナラした方がお互いのためかなと思います。悪しからず。

連載作品の宿命

日本の漫画では一般的な「雑誌連載形式」。これが物語にある種の影響を与えているのではないかと思い立ったのはここ数年の事です。結論を言うと、連載漫画の主人公は、成長しない。はい暴論です。更に説明をすると無限に続ける前提の物語の主人公(レギュラーメンバー)は成長しないのです。というか成長することを求められていない。主人公が自身の未熟さを認め、または理不尽な状況を抜け出すために成熟を遂げる。これは多くの場合物語の終わりを意味するからです。

特にマーケティング戦略として年齢や性別でカテゴライズされている(特に)少年少女向けの連載作品にとって、主人公の成長は不都合なのだろと思う。読者層である少年や少女にとって等身大でない、共感できない作品は売れないから。そして大抵の場合は読者が成長し作品から卒業していく。新たな世代が読者になる。いわゆる大人気長期連載作品にはこのサイクルがあるのではないかと思う。

作品名を上げさせてもらうと「ドラえもん」「名探偵コナン」「アンパンマン」などが顕著に思う。いずれもハマってやがて卒業するタイプの作品だと思う。これらの作品に共通しているのは主人公たちが殆ど成長しないこと。物理的にも精神的にも、そして価値観も。

ちょっとした例外として「クレヨンしんちゃん」が挙げられる。これは主人公は成長しないが時代に合わせて価値観のアップデートが見られる。

主人公が成長しないタイプの物語の好みは個人的なものであり(自覚はしている)そう問題ないのだが(後述するが実は問題がない訳ではない気はしている)、このタイプの物語の宿命ともいえるパターンを持っている。

問題解決が自分事ではない

「ドラえもん」「名探偵コナン」「アンパンマン」の特に劇場作品に共通するストーリーは何かしらトラブルに巻き込まれ、部外者として他人の問題を取り除いていくというストーリー。どの話も詰まるところ本当の主人公はゲストキャラなのだ。のび太やコナンやアンパンマンはピンチなどに直面しつつ溢れる才能や便利な道具で厄介事を解決し、颯爽と去ってゆく。カッコイイ。憧れちゃう。なんかいい事した気がする。しかしのび太やコナンやアンパンマン当事者の本質的な問題は一切解決したりはしない。彼らは自分自身の問題の解決を求められていない。未熟な部分を直視することもなく、成長もしない。主人公が自分自身の問題に向き合い成熟することは物語の終わりを意味する。

「のび太」「コナン」「アンパンマン」は主人公ではなく、主人公という装置なのである。これが超長期連載作品の宿命ともいえる構造だ。

ストーリーを摂取するということ

「ドラえもん」「名探偵コナン」「アンパンマン」、いずれも多くの人に愛される素晴らしい作品です。ドラえもんは子供向けファミリー作品でありながら本格SFでもあるのは超絶センスだと思うし、アンパンマンの哲学的テーマは人類の宝と言えると思う。ただ、主人公という装置を通して感動を消費するストーリーを無自覚に摂取し続けることに弊害が絶対にないとは思えない。じっさいには私たちは他人の問題を解決している場合ではないし、ヒーローがなんか上手い事やってくれるわけでもない。未熟な自分と決別し、成熟を受け入れた方が生きやすい。オタク的ニヒリズムは嗜好品のようなものであり、それに頼って生きることはできない。

ストーリーが人間の潜在意識やひいては社会に影響を及ぼすかという議論は此処でするまでもないし(する気もないし)、個々に譲れない考え方があるるだろう。わたしは常に自分が生身の主人公である責任と可能性を忘れないように生きたいと思う。

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