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言葉にするということ

自分の気持ちや、状況を、言葉にしたり書き留めていくことは、物心ついたときからしていたように思う。ツイッターしかり、日記しかり。また、思春期に出会った友人達とは、会うたびに状況を話したり感情を共有したりしていて(それは主に恋愛のことだったけれど)無意識のうちに沢山そういう練習をしてきたような気がする。

遅い夏休みをとったが、純粋に楽しめる状況じゃなくなってしまった。だが、夏休み中の出来事でよかったと思っていて、そのおかげで大切な友人達に状況を共有できたし、家族にも話せた。

私は物事を共有していくことをすごく大切に思っていて、自分ひとりで情報を抱え込むことは悪だとさえ思っている。なんでもオープンにしていくほうが手を差し伸べやすいし、手遅れになってから助けを求めるほどずるいことはない。危なくないうちから「危なくなったら助けてほしい」と伝えておくことで、それが安心感につながってやり遂げられることもあるし、自分が普通の判断ができているかどうかは、案外自分では見えなくて、他者のほうが自分のことを客観的に知ってくれていることもあるのだ。

でもそういうのはすべて、もしかしたら恵まれた人間の考えなのかもしれない、とここ数日で強く思った。打ち明けて拒絶されたり、打ち明け方がそもそもわからなかったり、色々な人がいる。「悪」と一刀両断して済むことではないのだ。

先日保育参観にいって、クラスの子たちと息子とがどのように過ごしているか見てきた。数秒に1回はもめごとが起こる。手や足が出る。でも先生たちは動じない。どうして欲しかったかをかわりに言葉にしてあげる、何が悪かったのか、どうすればよいか、代わりの案はないか、納得していなければ納得できる方法を模索する。

見ていたら、息子とおともだちがほぼ同時のタイミングでおもちゃに手を出していた。ただ、おともだちのほうが先にその場で遊んでいたので、どちらの使っていたおもちゃかというと、おともだちのほうかな、微妙なラインではあった。息子は「ぼくのー!」と怒っておともだちの髪の毛を引っ張ってしまった。そこまで、ものの10秒だ。手が出る前に止めるのは正直不可能に近い。先生はどっちが使っていたのか状況を確認し、息子には「使いたかったね」と共感してから、「でも髪の毛をひっぱられたら痛いね」と諭した。その後しばらく先生が話したら、息子が謝る気持ちになった。お友達は怒って遠くでおもちゃで遊んでいるけれど、「ごめんねっていってるのに、遠くで聞いてあげないのはだめだね、近くでおめめを見て聞いてあげようね」と言っていた。息子は「ごめんね」といい、お友達も近くまできて「いいよ」と言ってくれた。

そういうことを一つ一つ丁寧に子供たちの間に入って橋渡しする。途方もない、根気のいる作業だ。見に行った二時間だけでも、何度も何度もその姿を見かけた。

息子には、なるべく、言葉で表現することを学んでほしいと思う。自分の気持ちが、言葉にするとどれに近いのか、わからないとイライラもやもやする。言葉の使い方がわかれば、人と対等に話せる。傷付けない選択ができる。こうして書いて発散もできる。保育園の教育すべてを取り入れられるとは思わないが、でも、家でもまだまだできることはありそうだな、と感じた保育参観だった。いつでも申し出れば行けるので、また行きたい。

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