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自分で名前をつけてそのままがんじがらめ

この頃、悩んでいることがありました。
自分が名乗っている「肩書き」にものすごく違和感があったのです。

会社員ではなくなって、もう8年ほど経ちます。

自分のことはなんでも自分で決めていい。
今日何を食べるか何を着るか何でお金を稼ぐかなんでも決められる。

そうなったときにわたしがはじめに考えたことは、自分の肩書きでした。

「自分のことをこういう人だと名乗ろう」
そこから、「こういう肩書きの人」は何をするか、どう生活するか、どういうことを考えるか、芋づるみたいにずるずるずるずる導き出して、「そういう肩書きを名乗るのにふさわしい人」になれるように努力してきた気がします。

それから。
途中で何度か軌道修正はしたものの、「そういう肩書きを名乗るのにふさわしい人」へは、(自分で言うのもなんですが)ちょっとは近づけました。
この肩書きならこういうことをしているはず、と想定したこともちょっとは経験できました。
わたしにとっての理想の姿にはまだ遠いですが、いい感じ。
見習い戦士からナイトにはなれて、次はモンクとか黒魔道士とかのスキルも磨いてみようかな、みたいな。

うん、今の自分は悪くないな、とちょっとだけ思っていたのです。


自分の肩書き、実はそんなに好きじゃなかった

その一方、「自分の肩書き」にちょっとした違和感もありました。

肩書きから外れる行動は諦めなくちゃいけないし。
苦手でやりたくないことでも肩書きのためにがんばらなくちゃいけないし。
こんな人、と先入観のある目で見られることにも慣れなくちゃいけないし。

せっかく好きでやっていることなのに、なぜ?なんだか変?
そもそもそこまでこの肩書きを守りたかったんだっけ?

そう感じることも少なからずあったのです。
やるべきことも確かにあるけれど、やらなくても良いことまでやってない?
それを守るほど価値があると思えるなら良いけれど、本当にそう思える?と。

このなんで?どうして?本当に?という気持ちは、ちょっとずつ自分では見えにくいところにヒビを入れていたようです。
もしかしたら、ヒビからはじわじわと水が漏れ出していたのかもしれません。

そしてこの前ついに、自分というダムが決壊。

自分で決めた肩書きなのに、この肩書きのせいで自分がすごく不自由になっていることに気がつきました。


レールを突っ走る時期も必要だけど、今は自分を優先したい

会社員をやめたとき、大した夢や目標があったわけではありませんでした。
ちょっと衝動的にやめてしまったので、とりあえずちゃんと生きられるようにしなくちゃ、という気持ちだけありました。

ただ、「自分が納得できることを自分が納得できる方法でやる」ことだけは決めました。
この約束を守るために、この肩書きに決めたはずでした。

それなのに、気がついたら、肩書きに自分が縛りつけられていました。

名前をつける行為とは自分に枠組みやレールを与えることのようです。
もちろん、それを糧にぐーーーんと飛躍できる人も多いでしょう。
でも、飛躍どころか一歩踏み出すのも難しくなることもあるようです。
自由になったつもりが、自分で自分を決めつけていたのだと思います。

どこか違和感があったのに、全然気がつかなかった。

これに気がついてから、ものすごく自由になりました。
やっていることはそんなに変わらないし、見た目にはこれまで以上に淡々と過ごしています。
でも、自分の中では天と地くらいの違いができました。

おかげで、名刺と一緒に自己紹介もしなくちゃいけなくなりましたが…。
とりあえずすべての名前を取っ払って「ただの人」として過ごせるのはとても気持ちが良いものです。

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